第34話 優しい臆病

「……私は、嫌われたくないんだ」


 光源は月明かりのみ。静かな夜だからか、カエレスの少しだけ苦しそうな声はティティアにしっかりと届いた。

 金糸水晶の瞳が、ゆっくりと向けられる。狼の顔はいつもよりも落ち込んでいて、機嫌を教えてくれるカエレスの大きなお耳は、へたりと下がっていた。

 ティティアは泣きそうだった心を沈めるように小さく息をつくと、カエレスを真っ直ぐに見つめ返した。


「何に、怯えてるの?」


 その問いかけに、カエレスの口吻がもごりと動いた。黒鉄の毛並みは、夜に染まって漆黒になっていた。長い腕が、囲うようにティティアの背中で組まれる。

 嫌われたくない、逃げないで。そう言葉に出さぬ懇願のような手のひらは、ティティアの体をゆっくりと引き寄せる。


「……ティティアを害した二人を、私は噛み殺した」


 言葉に操られるように黒が動く。ティティアは、口吻からわずかに見えた鋭い牙に目を奪われるように息を呑んだ。


「ヴィヌスの信徒を、殺した。マルカと、ヴィヌスを私は食い殺した。喉笛を噛み切って」

「それ、いつ」

「……ティティアの意識が戻ってすぐだ」

「そんな、に……」


 まるで、部屋の石壁がグッと膨らんだかのような閉塞感がこの場を支配する。腕の檻に閉じ込められたまま、ティティアは己の安易さを悔やんだ。

 カエレスは、罰を待つかのように黙りこくっていた。ティティアの小さな心臓がジクジクと熱を持って、身体中に冷えた血液を運んでいく。頭の中で忙しなく浮かび上がる、どうしてやなんで。

 ティティアは、カエレスの抱えていた苦しみを、何も知らないで過ごしていた。優しく口付け、睦言を囁いていた唇が、その理知的な瞳が。肉の味を、そして手を汚してしまった現実を受け止めたあとも呑気に日常を過ごしていた。

 震える手で、ティティアはそっとカエレスの口吻を包み込んだ。そのまま毛並みを流すかのように頬を撫で、気がつけばその頭を抱き込んでいた。


「……ティティア?」

「お、俺、どっかで……、大丈夫だって思ってた」


 カエレスは王として、きっと正しい采配をしたのだ。ウメノからも、二人が死を持って償うべきことをしたのだとも聞いている。だから、二人がこの世から消えることは予測はしていた。それでも、何にも思わなかったわけではない。

 立場を理解していたつもりだったのに、迂闊さが二人に隙を与えてしまった。害されたとしても、ティティアが二人の死を招いたのだから。この名もない罪はティティアが背負っていくのだと思っていた。

 ただ心構えだけが曖昧なまま、現実から目を背けていたのだ。

 ティティアが考えないようにしていた怖いこと。それを、カエレスは一人で手を汚すことで収めたのだ。

 ヴィヌスも、マルカの死も。他の誰かが手を下すのではなく、カエレスが一人で背負った。その場にいるべきはティティアも同じだったはずなのに、ティティアの憂いをも肩代わりするように、その手を、牙を。

 

「い、一緒に……い、いてあげられなかった……お、俺のせい、なのに……っ」

「おかしなことを言う、私は」

「強くなくていいんだよ、……っ、王様だからって、全然、強くなくていい……」

「……ティティア」


 カエレスの毛並みに顔を埋めるようにして、ティティアは声を震わせる。口付けを拒んだ理由は、二人の血肉の味を知ったからだろうことも理解してしまった。

 一国の王である大切な体を、心を、カエレスは躊躇いもせずに蔑ろにする。それはきっと、定められた運命の中で生き方が決まっていたからだ。

 普通を許されない。アテルニクスの生まれ変わりとして、相応に生きなければならない。一体、何度心を犠牲にしてきたと言うのだろう。呪いから放たれて、やっと正しい寿命を生きれるというのに。

 強さを演じ続ける姿は、きっと見えない傷で覆われている。


「カエレス、俺妊娠したよ……お腹に、カエレスの赤ちゃんがいるんだよ」

「本当に……?」

「言った通りだったろ、俺の……だから、もうちゃんと家族なんだよ……血は、つながった」


 だからもう、嫌なことは嫌だって言っていいんだよ。

 喉が熱くなって、焼けるような吐息が口から漏れた。ティティアはカエレスの毛並みをびしょびしょにして、ひどく聞き取りづらい声でそういった。

 怖いとか、嫌だとか、取り繕わなくていいのだ。みんなの前の王様と、ティティアだけのカエレスは決して同じではない。

 天鵞絨の毛並みを撫でるように、カエレスの頬に手を添えて顔を覗き込む。丸く美しい瞳が、水面のように揺らいでいた。細い、心許ない音がクゥと響いて、ティティアはカエレスに引き寄せられるままに口付けた。


「ティティア……私は」

「あ、愛してる」

「は……」

「俺、カエレスのこと……あ、愛してるから、だ、大好きなんだって、ほんと」

「ま、っ……」


 こんな下手くそな告白だあってたまるか。きっと、ティティアがカエレスの立場なら不満に思うだろう。それでも、本当に心からの気持ちが溢れると、語彙はなくなるのだなと初めて理解した。

 カエレスの言葉を塞ぐように、下手くそに唇を押し付ける。柔らかくて、熱くて、唇を重ねると少しだけ息が苦しくなる。

 暗くて、狭い塔の中。窓の外から差し込む月の光だけを頼りに、思いを唇に乗せて重ねる。

その拙さを受け止めていたカエレスの手が優しく黒髪を梳き、教示するかのように、ティティアの唇を啄んだ。

 カエレスの滑らかな毛並みが、ティティアのふれた場所から少しずつ変化していく。触れ合う距離が近くなり、人のそれと同じ柔らかな唇が、何度も求めるようにティティアの唇を貪る。ささやかな息遣いは静かな空間に染み渡り、ティティアの手のひらが滑らかな素肌に触れた。


「……まだティティアは口付けが下手くそだな」

「カエレス、……なんで……」


 褐色の大きな手のひらが 薄い手のひらに指を絡める。額を重ね、真っ直ぐに夕焼けの瞳を見つめ返したカエレスは、金糸水晶の瞳の奥に熱を宿していた。

 厚みのある唇が、細い指先を招く。つるりとした犬歯に触れれば、それは狼の顔の時よりも随分と小さくなっていた。

 己が美丈夫の口の中に指先を含ませるという、随分と大胆なことをしていることに気がつけば、ティティアはじわじわと顔に熱を集めていく。カエレスの両肩に手を置くように体を離そうとすれば、逃さないと言わんばかりに抱きすくめられた。



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