第32話 とっておきをあげる

 静かな夜を、ティティアは一人部屋で迎える。カエレスが忙しいことは知っているが、少しだけ寂しさを感じてしまうのは、それだけ共にいるのが心地よく感じているからだ。

 昼飯の時に話すつもりが、多忙を極めるカエレスが時間を作れず、結局妊娠したことを言いそびれ夜になってしまった。ウメノには、妊娠の確定診断が出たことは自分口から話したいと、わがままを言って黙ってもらっている。この調子だと、忙しくてウメノの所にも聞きにいってはいないだろう。まあ、ウメノのことだ。聞かれてもはぐらかしてくれるとは思うが。

 昼間、ロクが見舞いにと持ってきてくれた小さなティティアのぬいぐるみに触れる。ウメノが驚いていたくらい、売り物と遜色のない出来のぬいぐるみを抱き寄せると、うんうんと唸った。


(緊張してきた。どうしよう……)


 多分妊娠してると思う。と告げた時には、感じることのなかった緊張感が、今はあった。検査をして、本当に妊娠をしていると太鼓判を押されてしまったのだ。予想していたこととはいえ、この腹の中に豆粒ほどの子供がいるよと言われて仕舞えば、そわそわして落ち着かない。

 喜んでくれるのが先か、驚いて固まるのが先か。それとも、やはりか。と穏やかに笑うのかもしれない。頭の中で、コロコロと表情を、雰囲気を変えるカエレスを想像するだけで楽しい。多分、ティティアにカエレスのような尾っぽがあれば、きっと尻の付け根が悲鳴をあげるほど振り回しているに違いない。


「あ」


 ティティアはムクリとベッドから起き上がると、まっすぐに両開きの扉へと目を向ける。

 カエレスがこの部屋に帰ってくるのがわかったのだ。身に同じ魔力を宿してから、なんとなく気配が読めるようになった。それが、特別な感じがして落ち着かない。

 慎重にロクが作ってくれたぬいぐるみを寝台の枕に寝かせると、ティティアは深呼吸を一つした。

 細い足が、床に敷かれたラグにつく。ベッド脇に立てかけられた細い杖を手に取ると、よろよろと立ち上がった。


「ただい……ティティア?」

「あ、おかえり、っと」

「まて、動くな。なんで起き上がってる?」

「お、おでむかえ? したくて」


 杖に縋るように、情けないへっぴり腰で出迎えたのが不味かったらしい。カエレスは金糸水晶の瞳を丸くすると、ずんずんと歩み寄ってきた。

 カエレスを受け止めた股関節は、まだ少し痛むのだ。外れていた足はしっかりと元の位置に戻してあるが、いつも通りの動きをするには慣れが必要だということは、もちろんカエレスも知るところである。

 大きな手のひらが体を支えるように腰に回ると、胸を借りるようにカエレスにもたれる。


「おでむかえ……は、ありがとう」

「うん、へへ……」

「体は? ほら、寝ていたほうがいいよ。まだ上手く歩けないだろう?」


 大きなお耳が、心配を表すようにへたりと伏せられる。それでも、ティティアとしては、早く元の生活に戻りたいというのが本音であった。体温が近くて、少しだけ緊張する。今は背伸びなんてできるわけないのに、がんばれば口付けできそうだと思ってしまうあたり重症だ。

 思わず顔に熱が集まったティティアを前に、カエレスは不思議そうに首を傾げていたが。


「あっ」

「……大丈夫かい?」

「う、うん」


 少しだけ、カエレスが顔を寄せてくれたら口付けできたのに。そんなことを思って、思わず胸元に顔を埋めてしまった。柔らかい毛並みと、ふかりとした胸に優しく慰められる。


(もしかしたら、キスするかもって思ったのに)


 ふんふん、と様子を伺うように、カエレスの鼻先が黒髪に埋まる。そこじゃなくて、唇に欲しいのだ。言えるわけない強気は、喉の奥に引っかかってすごすごと退散していく。

 そんな、茹で上がった己の思考を誤魔化すように口から母音を漏らせば、ティティアはまっすぐにカエレスを見上げた。


「あ、あのさ!」

「うん?」

「お、お散歩したいなって! ほら、俺もう元気だから。カエレスといっしょに」

「それは構わないけど……今かい?」

「うん、星とかみたいなって」


 星。不思議そうな顔で鸚鵡返しをする。カエレスの丸い瞳は、頬を染めるティティアを映していた。

 最初のお誘いは、市井に行きたいと言ったきりであった。あの時はまさか誘拐されるなんて思いもよらなかったのだ。たった一回きりで、カエレスが怯えてしまったら嫌だ。そう言った、挽回の気持ちもティティアにはあった。

 ふむ、といった逡巡の表情を見せる姿に、期待を込めた視線を向ける。とは言っても、ほとんど表情はかわらないので雰囲気でだが。

 もしかしたら、これはわがままになってしまうかもしれない。きっとカエレスのことだから、体が万全になるまではダメだと優しく窘められるかもしれない。それでも、諦めたくはなかった。

 

「俺、自分の口から言いたいことがあるんだ……、その、で、できれば、景色のいいとこ、とかで……」

「……私は今から結婚の申し出でもされてしまうのかな」

「そ、それ以上のすごいこと、かも……」


 思わず尻すぼみになった言葉であったが、どうやらカエレスにはしっかりと届いたらしい。ぎゅう、と言った妙な声を漏らす様子が気になって上を見上げれば、天井を見上げるようにして小さく震えていた。


「つ、疲れてるなら、別の日でもいいよ……」

「いや、行こう。今すぐに。とっておきの場所を知っているから、連れて行ってあげよう」

「俺、あ、歩く練習……っ」

「大丈夫、そこに着いたら一緒にしよう」


 視界が高くなって、気がつけばカエレスと同じ目線になっていた。抱き上げられたのだ。太く男らしい腕が、ティティアを優しく包み込む。今なら絶対に口付けができる距離だというのに、こんな時に限って勇気は出ない。

 

(お、俺……今情けない顔してる……)


 自制を促すように唇を吸い込んで、ぎゅ、とカエレスの首に抱きついた。

 ティティアが気が付かないところで、まさかそんなことをされるとは思わなかったらしいカエレスの尾が、わかりやすく膨らんだ。カエレスの貴重な姿は、ロクの作ったぬいぐるみだけが知っている。

 

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