第30話 静かな夜

 ティティアが寝静まった夜。カエレスは一人寝台から抜け出して、ニルの元に来ていた。場所は、城の地下牢。薄暗く、幾つもの石が壁に埋め込まれるようにして空間認識を狭める窮屈な場所。

 ここは、罪を犯したものが必ず向かう場所だ。市井の捕物とは違う、国を揺るがしかねない罪を犯した、粗暴なものが納められる場所。どこよりも寒いこの場所が、ニルの職場でもあった。

 

「無駄な心配をかけたいわけではない。あまりいじわるを言うな」

「そんなこと言って、お嫁様の耳に入れなくていいのかね。一応マルカは側仕えでもあっただろうに」

「ニル」

「へえへえ、意地悪は言わねえってな」

 

 肌寒さの中に湿気も入り混じる。冷たい色をした鉄格子が空間を隔てる暗闇の奥で、何かが動いた。


「私はティティアに嫌われたくないって?」


 嘲笑するような笑い。ヴィヌスのそれは、明らかに悪意を滲ませるものだった。

 表情を変えずに、大きな狐の耳を傾けるだけで反応を示したニルは、虚空で何かを引っ張るようにして手を振り下ろした。


「グァ、っ」

「優先順位ってぇ言葉知らねえの?」

「っ番ったか畜生王。なら嫁連れてこいよ、腹掻っ捌いてや、っギィ……っ」


 不可視の鎖が、ヴィヌスの拘束を強める。ニルによって天井へと叩きつけられたヴィヌスは、情けない声をあげた。

 ニルの端正な顔が、ヴィヌスの言葉を前に至極面倒くさそうに歪められる。背後の牢へと振り向くと、ニルの琥珀色が獰猛な光を放った。


「往生際が悪いのは男だけかよ、オイ。こっちはてめえら一族のことなんて知らねえんだ」

「お前達と違うんだよ、好き勝手繁殖しやがって……‼︎ 神から見放されたのはアテルニクス、お前のほうだろう‼︎」


 唾を撒き散らすようにして声を張り上げる。ヴィヌスを床へ叩きつけるように落としたニルが、牢へ入ろうとするのをカエレスが窘める。

 大きな手のひらが、牢を掴む。キツく握りしめているのだろう、鉄の棒の一部が、カエレスの手の形を容易く模った。

 金糸水晶の瞳を真っ直ぐに向けたヴィヌスの奥には、壁にもたれかかるように身を投げ出すマルカがいた。城に長く勤めていた部下を前にしても、カエレスの心は不思議と凪いでいる。


「何を勘違いしている」

「あ?」

「神は私達を追放したんだぞ。呪いは正しくこの身に受けている」


 静かな声が、重苦しい牢の空気に溶け込んでいく。ヴィヌスを前に淡々と言葉を紡ぐカエレスは、腹に凝る確かな怒りを少しずつ消化するかのようだった。

 理性が効いている。声を張り上げず、威圧すらも放たない。ただことのあり方をそのまま口にすることが、いかに残酷なのかを知っている者の口調だ。


「アテルニクスは楽園を追放され、呪いを受けた。罰を与えられた愚かな男神を再び神のもとへ連れ帰って、何になる。それで、おまえたちは何を認められるというのだ」

「う、うるさい」

「唆したのは、お前たちだろう。もしこれが本当に神の意志なのだとしたら、何故最初の神の生まれ変わりは番えた」


 問いかける口調は平坦であった。怒りの感情を押さえつけるままに話すことは、どれほどの気力を使うのだろう。

 ニルはカエレスの背中しか目にすることは出来なかったが、己がその瞳の前に晒される立場ではないことを、心から感謝した。


「何を信じ込まされた」

「……なによ、間違っていたのはあたしたちってこと」

「マルカ……」

「それでも、俺たちは俺たちの神を信じて生きてきたんだぞ‼︎ 本当の神の子である俺たちが!!」


 ニルの拷問にも、口を開かなかった。それは、一心にひとつのことを信じて動いてきたからに違いない。

 オメガを神に捧げれば、間違ってしまった道を正すことが出来る。だから、ヴィヌスの作り上げた神の子は信徒としてアテルニクスやアキレイアスに散り、オメガを再び髪の元へと送り返す役目を担ってきた。生贄として、神に捧げることの正しさを広めてきたのだ。

 アテルニクスの生まれ変わりと番わせないために。本来ヴィヌス神が描くはずだった正しい神話を、やり直すためだけにだ。

 

「オメガが死ねば、お前も死ぬ。そうしたら、二人揃って神の世界へかえれる。この世に生まれ変わりなんていちゃいけないんだ。いていいのは、人の形を正しくとる、俺たち神の子だけだろう」

「魂を返せるのも、私達だけなのよ。これは、正しいことなの」

「こうして、自らの命を犠牲にして?」

「だから、っ……!!」


 だから。の、その先が続くことはなかった。ヴィヌスの唇が、悔しそうに歪む。鎖の音がして、マルカが牢の影から姿を現した。女性特有の嫋やかな手のひらが、ヴィヌスの背に添えられる。


「そういう生き方しか、できないの」

「なんで打ち明けてくれなかった」

「殺そうとしてるのに、打ち明ける馬鹿がどこにいるのよ。頭の中まで獣なの?」


 マルカは、城にいたときと変わらない様子でカエレスに笑いかける。

 長くカエレスの元で勤めてくれていた。だからこそ、今回の誘拐を手引きした事実を信じたくないのが本音だった。

 マルカの服の隙間から、黒い蛇が微かに見えた。唆す蛇という名の魔物は、不安定な心に巣食う魔物だ。カエレスは、金糸水晶の瞳に焼き付けるようにマルカの姿を納める。


「……気にもかけず、のうのうと政をしていたせいか、これは」

「カエレス様、それは」

「ニル、お前には悪いがこの件は私が納める」

「なによ、きちんと殺せるの? 血生臭い手で赤ん坊を抱く気?」


 馬鹿にするような声色は、まっすぐカエレスの押し込めた躊躇いを貫いた。

 こめかみに青筋を浮かばせるように、威圧を向けるニルの背に手を添える。この場をニルに任せないのは、みみっちいカエレスの矜持の問題だ。

 じわりと足元の影が揺らいで、黒い炎のように地べたから離れては千切れるを繰り返す。


「背負う」

「は?」

「お前たちの悔いも、過ちを招くことになった過去の積み重ねも、私がきちんと背負う」

「綺麗事言ってんじゃねえ!! ならてめえの牙で殺せよ!!」

「わかった」


 は、と息を呑む音が、その場の音を奪った。ジリ、とランタンの内側で炎が踊る。

 承諾をするとは思わなかったらしい。まるで自室に向かうかのような気軽さで牢に入るカエレスの背を、ニルは絶句したまま見つめることしかできなかった。


 それからは、あっという間のことだった。背負うといったカエレスは、きちんと弔った。

 ティティアに触れる唇で、獣のように命を奪ったのだ。王自ら手を下すことがあり得ないことだと知っている。カエレスは知った上で、王として責任を取ったのだ。

 

 口元を、毛並みを赤黒く染め、静かに二人を見下ろす。噛み跡は一箇所だけ、ほかは損傷することなく、きれいな状態ですべてを終えた。

 口の中に残る血を床に吐き出そうとして、汚れを気にするかのように手で受け止める。

 そんな不自然な冷静さが、余計にカエレスの歪さを極めていた。

 

「ニル」

「は、」

「いつも、私はお前にこんなことを任せていたのだな」


 静かな声で呟いた。カエレスの言葉に、ニルはなんて返事をするのが正しいのか、わからなかった。


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