女郎蜘蛛

 長旅の為、少し森林浴でもしようかと森の奥の方に入ってみる。綺麗な水の河川に沿って歩いていると滝が見えてきた。近づいてみる。滝の水飛沫が、空気を漂い霧状に辺りを漂う。澄んでいるのとは違うまた不思議な爽快感のある空間であった。水辺の周りの苔が濃緑色にその空間だけ包んでいるが暗くはなく、日の光が木々の中央の空間から差し込んで辺りを明るくしていた。


清水で喉を潤していると向こうの方で山葵を栽培しているみすぼらしい男がいた。顔はあまり表情は無く、あまり要領よくない手際だった。仕事を一段落したのか、だらだらと此方へ来てあまり気にも留めずに自分の近くで顔を洗っていた。お疲れさん。声を掛けてみた。此処では山葵を栽培してるのかね。と聞いてみる。するとその男は答えた。もとは違う場所でやっていたんですが、ある事をきっかけにこちらに移ってきたんでさぁ。ある事?と聞き返す。

滝の水辺にみすぼらしい一件の小屋があったのでさぁ。そのみすぼらしい小屋に女と入っていって一晩世話になったんだが、これがとんでもねぇ女だったんだ。


小屋には美しい女がいた。いやに瑞々しい肌、艶めかしい仕草など目を離そうとしてもどうも離せない。特に話が嚙み合うわけでもないのに、話を終えたいと思えない。むしろ如何にか話を続けられないかと模索する。しかし、まるで相手の意図が分からない。諦めかけるとまた何やら意味深な言葉を発する。捉え処が無いのだ。そういえば、夜中の仕事を終えていなかった。急に思い出した。ちょっと用を足してくる、すぐけぇってくるから。と言って仕事場まで戻っていった。夜の森は全くの暗闇であったが、何とか仕事を終え、戻ってきてみる。てぇっと女が別の男と一緒であった。あの女っと間男へと成り下がった自分を棚に上げて、女に対する嫉妬の炎で体中が燃え上がるようだった。隙を見て何とかしてやろうと、その様子をじっと窺っていた。


そうこうしているうちに寝屋に入り懇ろとなった。とても安らいでいた。すっと眠りに入ると夜中に何やらカリカリと音がする。目が覚めると隣の女が爪で床を掻いているようだ。しかし、少し変だ。仰向けなのに両手を頭の上で肘が逆に曲がっているように見える。それに少し腕が伸びているようにも見えた。何をしているんだい。と優しく聞いてみる。なんですか。ととても艶美な耳触りの良い声で小さく返事をする。床を掻いているようだが、それに少し体が変じゃないかい。とまた優しく聞いてみる。すると女は一体何処が変だってぇ言うんだい。と急に声を低くして聞いてきた。何やら只ならぬ気配に男は少し警戒したがまた、だってぇおめぇそんなにカリカリカリカリ床を掻いてたんじゃァ寝れねぇじゃねぇか。と少し甘えて言ってみた。


目は赤暗くぼんやりと光り、口からにょきにょきと太く鋭く長い二本の牙が生えてきた。マキメキゴキと柔らかいのか硬いのかわからないようなものが蠢いているそんな音がする。気が付くと大きさが先ほどよりだいぶ大きくなっているように感じる。顔の皮膚が冬から春にかけて木の乾燥した皮がポトリポトリと一枚ずつはがれるように落ち、中から何やら金属でも木材でもないような材質のものがのぞいていく。がくがくがくと顎が動いて言葉にならない音が口から勝手に出てきた。目を瞑りたい様な風景だが、目を大きく見開いたままそれから放すことはならなかった。その女だったものを枯木の節くれだった枝の様に人差し指で指差し、指自体が震えているのにも気づかずにそのまま動けずにいた。


完全に蜘蛛となったその女だったものの背から無数の子蜘蛛がざわざわと現れる。一斉に此方へと向かってくる。ぎゃぁぁぁ。恐怖で自然と悲鳴を上げ、必死で子蜘蛛が足に縋ってくるのを払い落とした。無数の子蜘蛛に纏わりつかれ、振り払おうとする。しかし、子蜘蛛は離れない。ふと何やら背中が温かい気がした。次の瞬間、針で刺されたような痛みが走る。その場所はヒリヒリといつまでも痛む。火傷だ。気づくと耳の傍の子蜘蛛が火を噴く。あちっ。耳を火傷してしまった。


あちこち火傷を負ったため、見ることも聞くことも話すこともできないまま、女郎蜘蛛の絹のような糸によってゆっくりゆっくり丁寧に体を巻かれていった。ぐぁうご。あまり意味の無い音が声から出される。糸によって体のあちこちを押され、空気が無理矢理出されているのだ。それも口を塞がれるとモガモガと大きさの違う三つの暗い窪みが大きくなったり小さくなったりしていた。ずるっずるっと大きな重いものを引きずる音をさせながらゆっくりと天井の梁へとその大きなを引き上げていく。幾日か分なので少しでも新鮮なように生かしたままこうして吊り下げているのだ。


と此処迄見て、間男をしている自分の失態のトンデモナイ愚かさにほとほと嫌気がさし自分が嫌になった。なんで自分は何時もこう何だろう。あの時もそうだった。間抜けだった。その前の仕事をクビになった時もそう。あれもだ。とブツブツ自分を罵り続けた。バタンと戸が勢い良く開く。


そして、此方をその赤い目でギラリと睨む。途端、体が言うことを聞かぬ。特に何かをされたわけでもないが、筋肉という筋肉が弛緩したように力が入らない。どうやら腰が抜けているようだ。そう実感したとたん、余りの恐怖に下の方を粗相した。その余りの臭さに女郎蜘蛛は恐れおののき、此方から距離を取った。どうやら何やら毒を吹きかけられたかとでも勘違いしているようだ。そして、・・・一目散に逃げた。汚れをまき散らしたり自分が泣いているのも気にせずに。


その隙をついて、一目散に其処から逃げ出したのでさぁ。とその男は話した。ふーんと本当のことを言っているのか噓を言っているのか判断が付かず気の無い返事をしてしまった。だってそうじゃぁないか。こんな話他人にするだろうか?しかし、その男の腑抜けた表情はそんな経験をしたという風になっているような気もする。あまりにもやもやとした気持ちが落ち着かなく、じゃぁと言ってその場を逃げいる様に離れていった。


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