第20話 side 藍川裕太②



 翌日の下校時間、渡辺さんが三組に来るのを待つ。


 教室の扉が控えめな音を立てて、半分くらい開けられる。視線を向けると、渡辺さんがぴょこっと顔を覗かせる。その仕草に心臓が撃ち抜かれる。

 中村さんを探すように、女子が大勢いる方に視線を彷徨わせ、見つけると、ふにゃりと笑顔になった。


「芽依、そろそろ帰ろ?」


 中村さんと帰ろうとする様子に慌てた俺は、急いで鞄を掴むと、扉から顔を覗かせた渡辺さんの前に立った。逃がさないように教室の中に入れて、扉をぴしゃりと閉める。その後、両腕で囲うように手を置いて、うさぎみたいにふるふる震える渡辺さんを、じっと見つめる。


「渡辺さん、俺と帰る約束したよね?」

「あ、あの……あ、藍川、君……?」

「したよね?」


 少し顔を近づけて、低めの声でゆっくり確認する。

 こくこくと首を小刻みに動かす様子が小動物みたいで可愛すぎる。


「裕太、何やってるの。ほら、帰るよ」

「藍川君、葵が困ってるでしょう。はい、退いて」


 この無意識の壁ドンが、爽やか王子の耳に入って焚き付けることになるのだが、この時の俺は一緒に帰ることに浮かれていた。


 連休中に渡辺さん家で、勉強会が決まり、更に浮かれた。

 渡辺さんの家は、親戚も女友達もよく遊びに来て、来客大歓迎らしい。

 中村さん曰く、渡辺家のご飯は最高に美味しくて、居心地最高なんだそうだ。それを聞いた渡辺さんが、ふにゃふにゃ嬉しそうで、またしても心臓が撃ち抜かれる。


 浮かれた俺は、もう少し渡辺さんと一緒に居たくて、織姫駅で降りた。

 精肉店に寄ると店のおばさんが、渡辺さんに俺が彼氏なのか、と揶揄い始めたが、その時の渡辺さんが照れを一切感じない表情で、ただただ困って焦っているのに気付いてしまった。


 翔太に言われた『気持ちは話さないと伝わらない』の言葉が浮かぶ。

 本当にその通りだと、胸にすとんと落ちた。


 一緒に渡辺さんのよく行く公園でコロッケを食べる。

 木陰が涼しくて、風が気持ちよくて、好きな子の隣で旨いコロッケを食べるのが、幸せだと思った。


「本当に好き、なんだな……」

「ふえっ?」

 

 心の声が漏れていたらしい。

 渡辺さんの驚いた声に、俺が一番驚いた。

 あとで振り返れば、ここも分岐点のひとつだった筈だ。


 俺が慌てて取った選択は、渡辺さんが先程から視線を向けていた鯉のぼりに話を変えたことだった。

 予想以上に渡辺さんの鯉のぼり熱は高く、俺が知っている鯉のぼり豆知識に、瞳をキラキラ輝かせていた。その表情がくるくる変わる様子が可愛くて、もっと見たくて、気づいたら早口で話していた。


 小さな色白の手が、ふいに俺の髪に優しく触れ、心臓が跳ね上がった。


「え、急に、なに?」


 俺の焦った声に、渡辺さんが動きを止める。色白の肌が赤く色づく。

 数秒の沈黙が、とても長い時間に感じられた。


「あ、……ごめん。なんか、子供の藍川君を撫でたくなったと言うか、うん、ごめん」


 俺から離れる手を捕まえる。

 細くて折れそうな手首。手の甲に小さなホクロがある。渡辺さんの体温を感じた。


「気になるから、ちゃんと教えてよ」


 もしかして、と期待を込めて、渡辺さんの瞳を真っ直ぐ見つめる。


「俺、エスパーでもヒーローでもないし、流行りのスパダリとか幼馴染じゃないから、話してくれないと分からない」


 俺の心臓がばくばく煩い。

 潤んだ瞳に赤い頬、もしかして、俺を意識しているのか、と淡い期待が胸に灯る。


 躊躇うように話し出した渡辺さんから聞けたのは、予想の斜め上に着地する。

 確かに小さな頃は、鯉のぼりについて色々感じたかもしれないが、高校生になって特に思うことはない。

 天然だったことをすっかり忘れていた。


 話し終えた渡辺さんの顔は、もう赤く染まっていなかった。


 そして、それが、答えだと思った。


 二人きりで会うのは、これが最後になるかもしれないと思うと、もう帰る、のひと言が言えなかった。

 少しでも長く隣に座っていたかったが、夕方を告げる長閑な放送が鳴り始め、渡辺さんが立ち上がる。

 

 土曜日、渡辺さんが相沢の自転車に二人乗りをするのを目撃した。

 俺は、二人が一緒に居るのをはじめて見た。

 ふにゃりと照れた顔を相沢に向け、相沢も溶けそうな笑顔を渡辺さんに向けていて、悔しいくらいお似合いだった。


 胸がずきりと痛む。

 胸を押さえても、少しも痛みは減らない。じわじわと身体中に痛みが広がっていくみたいだった。

 目の前の景色が、色褪せたみたいに見える。

 空気が薄くなったみたいに、息苦しくて、こんな感覚は、はじめてだった。


 誰と付き合って別れても、こんな事になったことは一度も無かったのに。

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