第3話 恋のトンネル



 目に映る世界が、一瞬にして輝いて見えた——



 相沢君がこぎ出した二人乗りの自転車は、ぐんぐんスピードを上げて行き、 景色がどんどん流れて行く。

 春の生温かな風が頬にぶつかる。相沢君の息遣いと、自転車の風を切る音だけが耳に届く。

 強い風が突然ぶわりと巻き上がり、咄嗟に目を瞑る。


「……渡辺さん! うえ、うえ! 上見てみて!」

「……っ!」


 相沢君の声に見上げると、思わず息を呑んだ。

 満開に咲き誇る桜の花が、春の花嵐で美しく舞って、桜の吹雪みたい。

 春の陽射しに包まれて、舞い散る花びらが青い空にキラキラと煌めく様子は、美しいのにどこか儚くて、夢のような光景。今、この光景を忘れないように目に焼き付けようと思った。


「渡辺さん、見た?」

「うん、見たよ! すっごい綺麗だったね!」

「だよね! 俺、今まで見た桜の中で、一番綺麗だったかも!」


 はしゃいだ弾んだ声が聞こえて来たと思ったら、相沢君がくるりと顔をこちらに向ける。

 子供みたいに瞳を輝かせて笑う、相沢君の笑顔に心臓がまた跳ね上がり、胸が高鳴る。心臓を鷲掴みされたみたいに、きゅう、と締め付けられる。


 こんな感覚は初めてで、でも、全然嫌じゃない。


 それに、私も目を奪われるような綺麗な桜を見たのは、初めて、と思ったから、相沢君も一緒なんだ、と嬉しく思い、熱くなった頬が気付いたら緩んでいる。


 二人乗りの自転車が、河原に出来た桜のトンネルをくぐり抜けると、駅まであと少し。

 駅には、下りの電車が停車していた。

 二人乗りの自転車を降りると、相沢君から手早く荷物を渡される。


「渡辺さん、ここから頑張って走って!」


 笑顔の相沢君に、熱い掌で背中を押され、駅員さんに急かされ、なんとか電車に滑り込むと、扉が音を立てて閉まる。

 電車の窓から相沢君に、間に合ったよ、と振り向く。


 ——また、明日


 相沢君の声が聞こえたような気がした。


 目を細め、爽やかな笑顔を浮かべた相沢君と目が合った瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。

 また明日と手を振る姿が遠ざかり、相沢君が見えなくなるまで見つめていた。

 押された背中に相沢君の掌の感触と温度が残っている。頬は熱を持ったみたいに熱くて、桜吹雪も二人乗りも、全部が夢みたいな出来事に、思わずへたりと座席に腰を下ろした。


 この心臓が落ち着かない、そわそわするのに、きゅう、と切ないような甘いような、生まれて初めての感覚の名前を、有名な名前を、私は知っている。


 ——多分、これは、恋


◇ ◇ ◇


 翌日も、春のぽかぽかした陽射しが、部屋の窓から差し込む穏やかな朝を迎える。


 ほんの少し寝不足のまま、制服に着替え、ポニーテールを結び、黄色が鮮やかな菜の花畑を通って、駅員さんのいない最寄駅の織姫駅に向かう。

 無人駅でもICカードの機器は置いてあり、入場の機器にピッとカードを当てて、ホームで電車を待つ。

 駅から見えるのは、長閑な田んぼだけ。その田んぼもまだ田植え前だから耕した茶色の土が見える。


 鞄から取り出した英単語帳を開いて、朝のホームルームで行われる小テストの範囲を復習して行く。初日なのに範囲が広くて、進学校だなと苦笑いが浮かぶ。


 次の駅の本山駅で、ショートカットの似合う中村芽依なかむらめいが乗って来た。

 西高に通う同中の女の子は芽依だけなので、三両編成の電車の同じ車両で待ち合わせの約束をしている。


 英単語帳を閉じて、手を振ると、芽依が近付いて来た。


「芽依、おはよう」

「葵、おはよう……じゃないよ! 葵と恋バナ出来る日が来るなんて、嬉しいよ!」

「もう、芽依は大袈裟なんだよ。勘違いかもしれないし……」


 昨日は、これって恋かも、と浮かれた私は、芽依のスマホに通学の時に聞いて欲しい、と送ったのだ。


「勘違いでもいいじゃん。その代表挨拶の子が気になるんでしょう?」

「うん、まあ、そうだね……」

「気になるは、好きのはじまりなんだよ! 興味がないのに、好きになる事はないもん。好きの種類がLOVEかLIKEの違いだよ。はじめの一歩を踏んだってこと! これって大きな一歩だよ」


 言い切る芽依に後光が差して見える。


「芽依先生、付いていきます」

「うむうむ、苦しゅうない」


 思わず先生呼びにすると、芽依が得意げに返してくれる。顔を見合わせて、くすくす笑ってしまう。


 西高は、ここから二つ先の西森駅。

 昨日起こった相沢君との出来事を、話し始めると、顔に熱が集まり、鼓動がおかしくなる。

 いつも恋の話は、聞く専門だったから知らなかったけど、恋の話をするのってすごく恥ずかしい。

 照れたり、恥ずかしがりながら話す私に、芽依が嬉々として質問を織り交ぜつつ、話していく。


 話を聞き終えた芽依が、なるほどね、と大袈裟に頷いた後、びしっと三本の指を突き付ける。


「葵、それは恋に落ちる三つのingが揃ってるよ!」

「え? 何それ?」


 勢いよく言われ、目をぱちぱちと瞬かせた後、初めて聞く言葉に首を傾げてしまう。

 

「フィーリング、タイミング、ハプニングが、恋に落ちる三つのingだよ!」


 芽依先生が誇らしげに言い終わると、タイミングよく電車が西森駅に着いた。

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