第64話

「………………」

「………………」


 姫奈は真っ直ぐに翔を見つめたまま、立ちすくむ。

 翔もこれ以上なんて言ったらいいのか分からなくなってしまい、姫奈の視線を受け止めたまま、立っている。

 沈黙が流れる。その間も翔の心臓はバクバクと音を立てていた。


 先に沈黙を破ったのは、姫奈だった。

「……翔くん、ありが、と、う……っ」


「──姫奈⁉」


 姫奈の目尻から、綺麗な涙の線が一筋。また一筋。

 瞬きと共に目頭からも溢れ出し、顔を抑えて泣き出してしまった。


「ごめん姫奈、オレ──」


 もっと、タイミングというものがあっただろう。場所だって、こんな暗い夜の水辺じゃ姫奈には安すぎるし、何より、さっき姫奈から男性が怖いという話を聞いたばかりなのに。

 ひどい男だと、翔は心の中で自分を責める。

「姫奈、ごめん」

 だが翔は、ただ少し距離を置いたところから謝ることしかできない。

「ごめん、」


 しかし三度目のごめんを翔が言ったとき、姫奈は涙交じりの声で「違う」と言った。

 姫奈は腕で目をこすって涙を拭い、顔を上げた。


「違うのよ。謝らないでよ」

「でもオレは、一方的に──」

「嬉しいから!」


 姫奈は再び頬の涙を、今度は指の背で拭う。


「翔くんが優しいこと、私は知ってる。だから、私を困らせたとか、そういうこと思わないで」


 翔は「うん」と頷く。


「違うの、私が泣いちゃったのはね、嬉しくて。嬉しすぎて。だって、そんな優しい人に私のこと好きって言ってもらえたから。虹ヶ丘姫奈は、いつも自信満々みたいに振舞ってるけど、本当はね、全く自分に自信なんて無かったのよ。だから、幸せになるために自分を満たそうとして、無理ばっかしてた。でも、翔くんと出会って、私は、虹ヶ丘姫奈のままでいいんだって思えた。だから、ありがとう」


 姫奈は頭を下げた。翔もつられて頭を下げる。

 顔を上げて目が合ったら、姫奈はまた泣き始めた。


「でも、でもね──」


 震える声で、姫奈は言葉を絞り出す。


「私、つらいの。翔くんに、今までみたいに触れられないことが。いつ翔くんのことを怖いと思い始めるかも分からないから、ずっと近くにいられるとは限らない。それに、近くにいられたとしても、翔くんに寂しい思いをさせちゃうかもしれない」


「寂しくても、オレが耐えれば──」


「それじゃダメなの。絶対に克服しなきゃいけないって私は思ってる。一緒にいても、二人で楽しめないのは嫌なの。それに、やっぱり何事も全力で、お腹いっぱいまで楽しむのが、虹ヶ丘姫奈だから。私の生き方だから」


 そう言われたら、翔はその考えを受け入れるしかなかった。

 虹ヶ丘姫奈には誰よりも自由でいてほしい。そして誰よりも人生を謳歌してほしい。それを邪魔する権利は、翔にだって無い。


「……そっか。うん、それがいい」

「だからね……」


 姫奈は一度俯き、少し何かを考えたような間があってから、顔を上げた。


「待っててくれない? 私がこれを克服するまで。それで、もう大丈夫になったら……」


 言い淀むような仕草を見せた姫奈だが、翔の目を見てはっきりと言った。


「そうしたら私、翔くんにちゃんと返事する。伝えるから。自分の気持ち」


「分かった」

 翔は大きく一度頷く。

「オレはもう、姫奈に怖い思いをしてほしくない。だから、大丈夫になるまで待つ」


「ありがとう」


「あと、オレからも約束」


「なに?」

 姫奈は頷いて、翔の言葉に耳を傾ける。


「もう無理はしないこと」


 これから、いつまでかは分からない。今までみたいに姫奈の手を握ることが出来ない。また姫奈が自分を顧みずに一人で抱え込んでしまわないか、翔は不安だ。


 だが姫奈は歯を見せて笑い、「大丈夫」と言ってみせた。


「だって私、虹ヶ丘姫奈だもん」


 その瞬間、姫奈の笑顔が光った。

 比喩ではなく、翔の目の前に起きている現象として、オレンジ色の温かくて柔らかな光が、姫奈を横から照らしている。


「わー! すごい!」


 光の方を見た姫奈は子供のように無邪気な声をあげた。

 翔もその光の方角を見て、思わず「まじか」と感動のため息をもらす。


 その視線の先には、川が流れている。さっきまで、蛍がまばらに飛んでいた、少し寂しさのあった川。

 だが今は、さっきまでとはまるで違う。川一面を蛍が飛び回り、集まった光が二人を照らしている。この世界にある全ての幸せを集めて飾ったかのような、光の帯。それはまるで、自分の道を見つけた姫奈を包み、見守っているようだった。


「ねえ、なんかさ」

 姫奈は蛍に夢中になりながらもつぶやく。

「こんな幸せなことって、あってもいいのかな」


「いいじゃん」

 翔は迷わず答えた。いつもはあまり抑揚のない声が、今は珍しく自然に弾んでいる。

「たぶん、これからもっと幸せになれるから」


 幸せになるのに遠慮なんか要らない。いま感じられる幸せを目いっぱい感じる。その瞬間を積み重ねる。そうすれば、ずっと幸せが続くはずだ。

 それを翔に教えてくれたのは、他でもない虹ヶ丘姫奈じゃないか。


「そっか、そうだよね」

 姫奈は答える。

「翔くん、今日は来てくれてありがとう!」


 全力で笑う姫奈。それにつられて、普段はあまり笑わない翔も、思わず歯を見せて全力で笑い返した。


 幸せな瞬間が、ずっと続きますように。


 隣にいる好きな人を見つめながら、翔は心の中で強く願った。


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