第9話 テイク・ファイブ(小説/現代)

 あのビルは馬鹿でかく、垂直方向に突き立てた銃身に見える。

 首都・東京都のど真ん中、立ち並ぶ建物の中でも頭抜けて高い巨大建造物は、鉄筋コンクリート造りで愛らしさのかけらもない。灰色の身体を漆黒の夜空に突き出していた。ある一定の高さごとにくくりつけられたネオンが点滅し、夜景に色を添えていた。


 窓辺から離れると、俺は疲れきった身体をベッドに投げ出した。ナイトテーブルの上の電灯だけがシングル・ルームの唯一の明かりだった。

 俺は電灯に寄り添うように置かれた固定電話の受話器を手に取り、受付にコールし、明朝午前6時のモーニングコールを依頼した。若い女と思しきハスキーがかった声が「かしこまりました、お客様」と少し気取ったような声で了解を告げる。

 俺は寝そべったまま窓の外を見た。しばらくの間、何の目的もなく眺めながら、眠気の訪れを待ち望んでいた。しかし、そんなものは来る気配もなかった。


 起き上がり、電灯の量をつまみで調整しめ、部屋の中をはっきりと照らし出した。バスルームの前まで移動し、サッシの扉を開くと、湿気と温熱を感じる浴室の中に入り込み、入って突き当たりの場所にあった鏡にこの身を映した。

 クマのできた目元に無精髭のやつれた顔。ヘアワックスや汗、ダストに蹂躙され弱々しい枯れすすきのように乱れた黒髪。シャツは襟元が百合の花びらのようにめくれ上がっている。


 洗面台に無造作に置かれたプラスチック製のクシで髪型を整えると、襟元を直し、ボタンを締める。ローションを顔面にたっぷりと塗りこんだ。目元の消耗は隠しようもないが、いくらか顔色がマシに見えるようになった。それからベッド脇の張り出し机に収まった椅子の背もたれにかけたジャケットを回収し、俺は部屋を飛び出した。


 日付が変わってから数時間が立つというのに、ホテルの廊下はそれ以前とは何も変わった様子を見せない。だが、各部屋は貝殻のように固く閉ざされ、何人の侵入も拒んでいるかのように感じられた。

 硬い革靴の裏に絨毯の柔らかな材質を感じながら、エレベーターホールへと向かった。エレベーターは二基あり、左右の扉を挟んだ中央には、キジをモチーフにした銅像がスポットライトに照らされながら、その重苦しい羽根を広げていた。キジは写実的な作りではなく、岩石をでたらめに削っていたら偶然できたというような趣があり、それは置物以上の価値を見出すことを困難にしている。製作者にどのような意図があったのか図りかねるが、とにかくこれは俺には全く意味を持つものではないのだろうと解した。


 エレベーターは両基とも稼働しており、深夜帯でもせわしなく誰かを運び続けているようだった。一方は3階から1階へと降下、もう一方は6階から最上階の8階に向けて移動している。ここ4階に降りてくるまで俺はキジの頭に手を置き、しばし待った。機械音とともに上りのエレベーターが口を開く。中に踏み込んで最上階へ。

 到着後、エレベーターの扉と向かいあわせに設置されたバーの入口をくぐった。店内にはほかの宿泊客と思しき簡素な服装の男女が数人が席についていた。鮮やかな緑の観葉植物の仕切りを横切って、バーテンダーがシェーク・グラスを降る前を通り過ぎ、夜景を一望するラウンジ席に一人腰掛けた。手を挙げ、ボーイにウイスキー・ハイボールをオーダーする。


「御手洗様。かしこまりました」

 店内にはミニステージが設置されていたが、今は誰もおらず、スピーカーからジャズの名曲「テイク・ファイブ」が鳴り響いていた。変拍子に身を染みこませるように音楽に耳を傾けると、まもなくグラスが置かれた。口に含む。泡が口の中を刺激し、続いて染み入るようなラフロイグの香りが鼻腔に届いてきた。続けざまにもう一口飲み込んで、グラスをコースターに置いた。


 夜に訪れた客たちは、無関心に各々のグラスに向き合っている。一様に疲れと興奮を溜め込んだような表情をして、自己の世界に没頭しているようだった。俺もきっとそう見えているに違いない。そして、それは間違いではないのだ。

 窓の外には、あのビルがそびえ立っている。街の中に立つ、巨大な銃砲が。おつまみのクラッカーとハイボールを胃に流し込みながら、俺はしばらくそのビルを眺めていた。


 わたしは御手洗鬼太郎。全てをカオスに戻すよう使命を託されたものである。

 美しき八十年代の街並み。街を彩るネオンのあかり。重い思いの服に身を包んだ酔客たち。

 カオスに戻すということは、全てを破壊すると言うことではない。

 全てのものが同時にそこにある状態にするということだ。私は全てと混ざり合う。この風景と混ざり合い、常に同時にいると言うことになる。

 素晴らしいことではないか?

 愛する景色と常にそこに一緒に居られるのだから。なのに今宵はそれが信じられず、こうして夜に浸っているしかないのであった。

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