【ずらして】
翌朝、元親はいくらか顔色の良くなった親秦に状況を聞いた。本格的な軍議の前に二人だけで行う情報の擦り合わせである。
朝日が良く差し込む明るい一室で、親秦が用意していた地図を開いた。
「こちらをご覧ください」
陽の光をよく反射する白い和紙に記された地図には、阿波の北東部、つまりこれから戦場となる一帯の地形が描かれている。親奏はその地図を指で指したり、なぞったりしながら元親に両軍の状況を分かりやすいように説明してくれた。
「西の端にあるのがここ、勝瑞城です。そしてここから北東に敵の拠点である土佐泊城があります」
人差し指を滑らせて指し示された土佐泊城は、海によって阿波本土と隔たれた
「うちの水軍は精々二百……」
これから闘おうとしている敵の強大さに、元親は思わず呻いた。
「現在、秀長勢はその圧倒的な水軍力を恃みにこちらに上陸し、妙見山と呼ばれている山を占拠してそこに陣地を築いております」
そういいながら、親秦は地図上の沿岸部一帯を指でなぞった。そこには海際に山の表記が幾つかある。その地形を利用して作られた敵の陣地があるのだろう。
秀長勢はそこを橋頭保として全軍を安全に上陸させたが、それからは目立った行動はしていないようだった。柵などを植えていき、徐々に陣地の防衛力を高めるか、精々物見が放たれるぐらいであるらしい。これは元親の予想の範疇であった。
秀吉は無理に会戦を行わない。これは彼が今まで指揮してきた戦いを鑑みて、元親が見出した傾向である。将兵の犠牲を抑えることによってその戦力を維持し続けるためか、どんなに数的優位があっても防御態勢を整えた敵軍に直接的な攻撃をしたことはあまりない。兵糧攻めや水攻めによる攻城、賤ケ岳の戦い、家康との戦いである小牧長久手の戦いも、諸将の強い要望を抑えきれなくなるまでは防御陣地を築いた家康勢を強行するようなことはしなかった。兄がそうであるならば、きっと弟もその方針を遵守するだろう。という考えを持っていたからこそ、昨日親秦にも休息を取らせたのだが、その考えはどうやら間違っていないようだった。
伊予や讃岐での侵攻が順調である現状、元親が向こうの立場であっても同じ行動をするだろう。相手からすれば、こうして敵主力を引きつけていればいずれ勝つのである。この積極的な消極的姿勢は戦略的にも正しかった。
「……勝てるかな……」
手強いという表現では過少すぎる敵と戦うことを前にして、元親はつい弱音を口にしてしまった。それは呟いたと自覚できない程か細いものであったが、雑音の無い静かな部屋では対面に座る者の鼓膜を振るわせるには十分だった。
「何を申される!今の言葉、貞兄が聞いていれば張り倒されていましたぞ!」
弱気になった元親を、親奏が声を励まして叱る。
長弟の親貞は土佐統一の数年後に病で亡くなった。彼のせいで元親の阿波侵攻計画は狂わされてしまったが、それでも彼の持つ能力は高い。今も生きていればきっと、元親の助けになっていたであろう。
「……確かに。……大将である自分が勝つ気でないと、勝てる戦も勝てないか」
「その通りです」
「すまない――いや、ありがとう。……軍議を開くから皆を呼んできて欲しい」
親秦がゆっくり頭を下げ、部屋を辞した。諸将の集合が完了するのは昼過ぎ頃だろう。そう、元親は予測した。
元親の予想通り、昼過ぎ頃に軍議は始まった。
集まった将の数は、元親が白地城から連れて来た者と阿波に在国している守将も合わさり、多い。山の頂上に築かれた岡豊城の広間よりも大きな敷地面積のある勝瑞城の広間でなければ、廊下にあぶれる者が出ていただろう。と元親が思っていた直後、広間の中央に大きな地図が置かれ、結局、何人かが廊下にあぶれることになった。
地図が置かれると、その上に近くの者が城や敵部隊を表した兵棋を適した位置に置いていき、軍議の準備が整った。
「……さてどうしようか」
そう口にした元親であるが、既にある程度は方針を固めていた。真っ先にそれを披露しないのは、配下の将たちの考える力が育たなくなる事。そして周りから強引だと反感を買われるのを恐れての事だった。人はまず何よりも自分の意見を聞いてくれる者を信用する。数万人もの規模に膨れ上がった組織の長として当然の配慮だろう。
元親が改めて地図に目を落とすと、兵棋が置かれ、詳細に地形が描かれているため、親奏から説明を受けた時よりも、視覚的に現況が分かりやすくなっていた。
赤い兵棋が幾つか置かれている妙見山一帯は、
「どうすると申されましても。小勢で守りを固めた敵を攻めるのは愚策です。ここは敵陣地の対岸に布陣し、相手が動くのを待つのが常道かと思います」
そう言ったのは信親であった。若者らしい勢いだけに任せていない、良い判断である。元親は自分の息子の将来が輝かしいものであることを予感した。
通常であれば信親の意見をそのまま入れていたであろう。だが、そうするわけにはいかない事情があった。
「……確かに良い意見ではあるが、今我々が置かれている現状ではそうすることは出来ない。なぜなら讃岐と伊予に敵の別動隊が居るからな……。じっくりと事を進める時間的余裕はない。それに……」
そこまで言って元親は地図の西側を指差した。その一帯には勝瑞城と我が方の部隊を表した青の兵棋が置かれている。その地点から北の方には讃岐と阿波を繋ぐ街道が一本あった。
「もし、対陣している時に讃岐の部隊が阿波へと入ってくれば、我々は包囲されことごとく討ち死にするだろう」
讃岐に侵攻してきた宇喜多勢は、こちらの守備兵力が少ないとはいえ、かなりの速度で支配領域を拡大しているらしい。一月と経たないうちに阿波にもその手が及ぶのは確実であった。
「では……こうするおつもりで?」
親成がそういいながら青の兵棋を移動させた。そうして、東西にまっすぐ並んでいる赤の兵棋に合わせ、青の兵棋が平行に相対する。一度の会戦によって全てを決しようというのだろう。それは元親の考えと同じであった。だが、その方法はあまり良くない。
「信親の言葉を借りるというつもりでは無いが、倍近い相手に正面から戦いを挑むというのは得策ではないな……。単純に力負けする可能性もある上に、敵には水軍がある。戦っている最中に側面に上陸されそこを衝かれる可能性がある」
「では、どうされるおつもりで?」
待つことも攻めることもできないのであれば、何もできないではないか。そんな苛立ちが声色に僅かに含まれている。
「攻める。だが、正面からではない」
そう言うと元親は青の兵棋をずらしていった。西側のはほとんど動かさず、東、つまり海に近い兵棋ほど後方に下げていく。そうすると、敵に対し斜めを向く陣形が出来上がった。
「こうすれば敵に相対しつつ、敵水軍の上陸に対して背やわき腹を見せずに済む」
この元親の策の反応は感心した者と、新たに疑問を持った者で二分した。正確に言えば、疑問を持った者の方がやや多い。その僅かに多数派となった者の一人が口を開いた。
「しかし、これでは右翼側――海に近い部隊は戦いに参加できません。ただでさえ敵より少数の我が軍が戦力の集中を欠くことになりませんか?」
その指摘は阿波方面の指揮を担当している親奏のものだった。方面軍指揮官として十分な見識を兼ね備えている彼の指摘はもっともであった。
「……」
元親は無言でまた兵棋を動かし始めた。親奏の指摘が腹に据えかねたからではない。まだするべき作業が終わっていないにもかかわらず完了した気になっていた自分が恥ずかしかったからである。
右翼側から兵棋を幾つか抜いていくとそれを左翼に振り分ける。特に、敵に一番近い最左翼には多く割り振った。そして終いに、本隊を意味するやや大きな兵棋を最左翼に配置し、元親が思い描いていた作業が完了した。
元親が思い描いていたのは、古代、近世と西欧において使われた戦術であり、その有用性は使用者が名将と称されることによって証明されていた。
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