【休ませて】

 阿波の西端にある白地から、勝瑞城へは、東にほぼ真っ直ぐ流れている吉野川に沿って進めば、着く。この川の近くにある民家には、だいたい川舟が備え付けられていた。それはこの吉野川が日本でも有数の暴れ川であることの裏付けであろう。


「前は酷い目にあわされたな……」


 日本で三番目の暴れん坊を横目にしながら、元親は当時のことを振り返った。


「阿波を抑えた直後に洪水が起きたんだよな……」


 その洪水のせいでいくらかの兵が損失し、阿波方面軍は水が引くまで何もできない状態に陥らされた。元親自身も、舟のように浮かぶ屋根の上で地面が顔を出すのを三日、待たされた。


「余裕があれば治水工事をしてたんだけどなぁ」


 当時はまだ讃岐と淡路への出兵に忙しく、とてもそうする余裕はなかった。無論、今も無い。また大雨が降れば洪水が起きる可能性は充分にあった。


 機嫌よさげに穏やかに流れている吉野川に沿って進軍を続けていると、後方から一騎分の馬蹄の音が聞こえてきた。


 何ごとかと振り返った元親の目に、見慣れた若武者が馬を走らせてこちらに向かって来ているのが映った。


 背が高く骨太の立派な体格を有するその若武者は、元親のそばに馬を寄せるとこういった。


「私が後陣に配置されると聞きましたが本当ですか父上!?」


「……率いる部隊がいるにもかかわらず単騎で駆けて来るとは……感心できないな、信親」


 敢えて問いを無視し、元親は信親を窘めた。


 一隊を率いる将は安易に部隊を離れてはならない。にもかかわらず、信親は噂の確認をするためだけに抜け出して来たのだ。自分の息子であっても、いや、息子であるがゆえに、元親は厳しく正そうとした。


「……すみません」


 萎びた態度から信親が反省したのが分かる。彼を初めて見た者ですら一目見て分かるような態度の変わりようだった。演技ではない。この素直さが信親の沢山ある長所の内の一つであった。


 しっかりと反省したのを確認した元親は、ようやく問いに答えた。


「……お前は予備――後詰として後方に控えてもらう」


 その答えを聞いた信親は、若者らしい溌溂さを取り戻し、これまた若者らしい反発を始めた。


「何故ですか!?決して下手な働きはしません!先鋒に命じていただければ必ずや敵将の首を持ち帰ってみせます!どうかご再考を!」


 若さゆえの過信によって出た過言。というわけでも無かった。信親は元服して戦場に立つようになってから、必ずと言っていいほど毎回手柄を立ててきた。一兵士としては両親譲りの背の高さと母親譲りの厚みによる人並外れた膂力。それと元親が他国から呼び寄せた剣術、槍術、弓術などの師によって教えられた戦闘技術によって。将としても、父親譲りであろう戦局を見る目と、天性のものであろう兵の士気を最大限に高める将器によって。


 近いうちに起きる秀長勢との戦いでも活躍をすることは間違いないだろう。


 だが、元親はこの戦いに信親を連れて行きたくなかった。なぜなら信親は、戦絵巻に影響されてか華々しく散ることに憧れを抱いている節があるからである。自殺願望というわけではない。自己犠牲精神が他の人間よりかなり多いのだ。そのため、味方を助けるために、陥らなくてもいい危機に自ら陥っていくことが何度もあった。これから始まる戦は、信親にとって初めての我が方が戦力的に不利な戦である。前線のありとあちこちで、敵に取り囲まれたり、押しつぶされそうになったりする味方が発生するだろう。その光景を目の当たりにして、信親が気負い、無理をしてしまったせいで予言を変える悲劇が起きてしまうとも限らない。


「ならん」


「ですが……!」


「……くどい」


 なおも食い下がろうとする信親との対話を拒否するように、元親は視線を前方に戻した。そうして冷たく拒否の態度を取った元親だったが、胸の内にもやもやとした気持ちが湧きおこってきた。


 元親はしょぼくれて自隊に引き返そうとしている信親に優しく声を掛けた。


「この度の戦は確実に総力を費やす。後詰といっても決して後方で控えて見物に終わるような役回りではない。寧ろこの戦の勝敗を左右する大事な役だ。……その役目の重さ、ゆめゆめ忘れるな」


 元親の自分の子供に対する甘さが、口から出た。


「……!はい!」


 その元親の言葉を聞き、元気を取り戻した信親は元気よく馬を駆けさせていった。その馬蹄の音を聞きながら元親は、今は亡き者たちに思いを馳せた。


「親信……。親政……。二人が生きていたら信親を連れて来る必要もなかっただろうな……」


 元親の右腕として常に別動隊を率いて戦っていた親信。猛将としてその名を知られていた親政。この二人は数年前に伊予の地で戦死した。兼定によって引きずり込まれて起きた無益な戦いによって。


 讃岐の防衛に三弟弥九朗を配し、伊予には親信の弟久武親直を派遣している。そのため、元親の手元には腕の立つ指揮官が足りていない。息子の手でも借りなければ戦力的に優勢な秀長勢を相手取るのは厳しかった。


 元親の正体を家中で唯一知る弥次兵衛。阿波方面の担当をしている次弟親秦。騎兵隊の指揮を執る親成。そして息子の信親。彼らがこれから望む戦の主立つ将である。若い信親は別としてその他の者は皆、経験の深い百戦錬磨の者たちである。元親は現状況で用意できる最上の手札を揃えた。これで負けたとすればどうしようもないだろう。




 阿波は北東部に平野が集中している。その平野部を上空から見下ろせば、山が吉野川に削られたことによってできたと一目で分かるだろう。平野には吉野川の支流がまき散らされたように縦横に流れており、阿波に関わるものとしてはそれらを生活の面からでも、政治的面からでも、そして軍事的面からでも無視することは出来ない。


 勝瑞城はその支流を政治的、軍事的に鑑みた結果築かれた城であると言えた。吉野川の支流の一つを天然の水堀とし、南側に町一つが丸ごと入るであろう大きさの城郭があった。もしその外壁が堤防と呼べるような土塀でなく、その防御施設も城館と呼べるような簡素な物でなかったら元親の阿波征服は年単位で遅れを取っていたであろう。長いこと三好家の本拠地として戦火に晒される事の無かった地であったために、この平野に存在する城の殆どは、防御力よりも政務の利便性を取られた城が多かった。


 そんな勝瑞城に元親と麾下の主力は入城した。もとから野戦で決着をつけるつもりである。城の防御力などはどうでも良かった。


「お早い御着きで」


 城主である親奏が出迎えてきた。圧倒的多数の秀長勢と対峙している心労からか、やや、やつれ、目にはくまもできている。元親が主力を引き連れてきたことによって、さぞ、気が楽になったであろう。


「早速詳しい状況を……の前に少し休んだ方が良いね。見たところ満足に眠れてないようだし」


「お気遣いなく。これしきの事で侍は務まりません」


「いや、実を言うと、年のせいかこの行軍でひどく疲れた。それに決戦の前に兵を一休みさせたい。まだ日は高いけど話は明日聞くよ」


「……承知しました。……お心遣い感謝します」


「……疲れている状態じゃ。妙案も浮かばないしね。お互いに」


 敵を目の前にして悠長かもしれないが、元親の予想では秀長勢は積極的攻勢に出ることはない。一晩ゆっくりと休んでも何も悪い影響はないだろう。


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