残光

くろかわ

足跡を踏む

 それはまるで自傷行為だ。

 

 細かな言葉遣いは違えども、大意としては皆が皆、同じことを言う。

 お前のそれは、自分を傷つける行為だ、と。

 その度に私は「違う」と言い続ける。

 初めの頃は怒声だったと思う。

 でも、そのうちに声はどんどんと小さくなっていった。

 明確な自覚を伴ったのは、一昨年だ。母親に「また?」と呆れ顔をされたとき、私の中に怒りの感情は無かった。

 凪いだ心で、理解を示せない相手に怒りをぶつけるでもなく、侮蔑するでもなく、ただただ穏やかに「また。」と言い切った。その時に発した己の声で、ようやく自覚できた。

 私の声は、小さくなっている。

 何故か。

 他者を理解するなんて、誰にもできないと、私自身が理解したからだ。

 諦めではない。呆れなんて見下したポーズもしない。ただ、決定的に違う、という事実だけが私の前に立ちはだかった……わけじゃない。最初からあったものを、そのときようやく見つめることができた。

 ただ、それだけだ。

 私は私であって、他の誰かではない。だから、他の誰かの理屈では動けない。

 そんな、シンプルな理由だ。


 私は出かけるために、靴紐を結ぶ。


/


「つまり、他者とは自分の中にしか居ないわけだ」

 前を歩く後頭部が意気揚々と意味不明な言葉を嘯いた。当時の私は息も絶え絶えで、ついていくのに精一杯。乾燥した唇から漏れ出た白い吐息をよく覚えている。

 冬の日没は早い。まだ十八時だというのに、辺りはすっかり暗くなっていた。それが山ともなれば尚更だ。

 ざわめく木々。針のような葉。遠くには車やバイクのエンジン音。こんな底冷えの中、わざわざ徒歩で歩く私の足音。そして、止まらないマシンガンのような言葉の数々。あまりの姦しさに苛立ちすら覚えていたが、それはあの人なりの気遣いだったのかもしれない。

 けれど、当時はただの引きこもり一歩手前の高校一年生である私には伝わらない気遣いだ。やたらに身長だけが伸びたことにコンプレックスを感じていたし、それが嫌で俯きがちだった。ずっと自分の靴ばかり見ていた。少し靴紐が緩んでいたのを気にして、立ち止まろうかとも考えていた。けれど、黙って立ち止まるのは気が引けた。

 考えてみればあの人だってそういう悩みがあっても良いはずだ。私よりも一つ上で、けれど十七歳にしてはかなり小柄だった。でもそんなことはお構いなしに、私に気を遣っていたのだと思うことにしている。

 私はまだ、幼かったのだ。


「自己にとって他者というものは一種の鏡像であり、想像でしかないのだ。わたしはわたしの思うあなたを作ることができる。けれど、あなたという存在全てを真に認識しているわけではない。要は、他者というものは存在しない。存在できるのは自分が想像したあなた、想像の中の他者だけってことだ」


 荒い息を整えつつ、ようやく平坦になってきた山道を踏みつける。

 山頂まであとどのくらいだろうか。

 そんなことを考える余力はあっただろうか。自分の靴をじっと見つめるのに精一杯の私は、早く立ち止まりたいとばかり考えていたような気もする。


 悩む私を置き去りに、あの人の言葉は続く。


「存在できるというのも少しばかり語弊が強い。在ることに違いはないのだけれど、あくまでわたしの内側にだけ在る。だから、実存ではない」


 背負った荷物の重さもキツい。確かに体格で言えば私は目の前の喋り続ける後頭部よりも頭一つ以上大きい。それは間違いない。だが、こと体力という面においては、私がこの人……同じ学校に通う先輩に勝てるとは、到底思えなかった。

 そもそも私は部員ですらない。私は文学部とは名ばかりの空き教室占拠集団の一員で、この人とは全く違う部に所属している。正確を期するなら先輩とは呼べない。

 だったら何と呼べば良いんだ、と迷っているうちに「この人」「貴方」という呼び方が定着してしまった。文学部を自称する集団に属していながら、驚くほどに語彙が乏しい。

 それは今でもあまり変わらない。本を読む習慣は身に付かなかった。


「ここで問題になるのが、自身は自身の全てを認識しているのか否かという点だね。無知の知が示す通り、知らないということを知っているのであれば己全てを把握している人間は存在しにくい。不可能ではないけれど現実的では無い。逆に、赤子は全てを知って生まれ落ち、ただ事物を思い出すだけであるとした場合、他者のことも当然知っている。思い出すだけのはずだ。さてさて、この矛盾はどう解決するか」


 山頂付近は整地されており……というより、今まで舗装されていない道をわざわざ通ってきた雰囲気だ。薮を掻き分けると、きちんと人の歩けるようになっている道に出る。もし目撃者がいれば、私たちはちゃんとした山道に向かって、直角に出現したように見えただろう。

 この人は、一体何を考えているんだ。

 いや、考えていることはさっきから口に出しているのだろうけれど。

 意味と意図が判らない。

 初めて会ったときからずっとそうだ。


/


 文学部に入ったのは、消去法だった。

 今どき部活強制なんて流行らないのに、と何度恨んだことか。

 高校に入って人間関係のリセットが起きたのも大きい。中学時代の友人とは散り散りになってしまったし、私はお世辞にも友人づくりが得意とは言えない性格だった。

 たまさか隣の席になり、会話のあった知人も同じようなタイプで、意気投合というほどではないけれど、なんとなく行動を共にすることが多かった。彼女が仕方ないからと文学部への入部したのを決め手に、私も同行するようになった。

 そこまではいい。あとは、幽霊部員になってしまえば良かったのだ。

 けれど私は、部と名前がついているのだから何かしらの活動を行っているのだろう、などと考えてしまったのだ。

 浅はかだった。

 文学部の実態は、義務から解放されたいだけの、行き場も無ければ何かに打ち込むわけでもない、青春の浪費そのものを楽しむ場だった。空き教室に集まってやることといえば、ただただ日が傾くまでお喋りをするだけ。目標も生産性も無く、部活としてのていを保とうという気概すら無い。

 愚かな私は、そこでお喋りの頷き役に収まってしまった。

 頷き役だ。聞き役ですらない。こちらが聞いているかどうかはどうでもいい。ただ賛同の声を時々あげればそれで許される。そんな場だった。

 私の視線は、先輩や同級生を見ているようで、窓の向こうや黒板を眺めている時間のほうが長かったと思う。その時の自分に聞いてみないと真相はわからない。


 けれど、内心ではずっとこう思っていたのだ。きっと何かあるだろう。例えば学園祭が近づく頃には雑誌を出版するだとか、朗読劇をうつだとか、そういう何かが。

 そう思っていたのもほんの一週間程度。恐る恐る活動について尋ねた私に、三年生の先輩(この場合は本当に先輩だった。私はまだ、書面上は文学部に所属していた)は呆れ顔でこう返した。

「うちの部はなぁんも、やんないよ」


 その時の自分の顔は、周囲の嘲笑でなんとなく想像がつく。

 ただ、記憶に刻まれたのは侮蔑と呆気の入り混じった先輩の貌だった。

 それ以外にあそこの記憶はほとんど無い。その後はずっと俯いて過ごしたのだから当然だ。

 今となってはどうでも良い出来事だ。

 よくもまぁ、半年も保ったものだと思う。それだけ決断できない人間だったというだけなのだが。


/


 記憶を遡りながら、山道を歩く。

 日本にはもう秋なんてどこにもなくて、むせかえるほど暑い時期と、肌寒い季節が交互にやってくるだけなんだと思う。以前両親から聞いた「夏の最高気温は三十度」なんて時代ではない。

 暖期と寒期の切り替わる一瞬だけ、春や秋だったものらしき季節は存在する。ほんの僅かな時間しかない。それを無駄にできないと思えるようになったのも、あの人のおかげだろう。

 癪だけど。認めるしかない。


/


 あの人ががらりと扉を開けて入って来たときの印象は、曖昧だ。直後の言葉が意味不明で、最初のことなんて何も覚えていない。


「春は短し恋せよ乙女なんて言うけれど、なんともまぁ下世話な台詞だとは思わないかい?」

 部員もでない人間が、一応でも部室に入ってきての第一声がこれだ。

 とにかく、変な人が来ちゃった、とは思った。ただ、それで救われたのも事実だ。私は自分の靴ばかり見ていたから、何の話をしていたかも忘れていた。もし、話を振られたら困ったことになっていただろう。

「おっすぅ、ヤマちゃん、今日も歌舞いてんね。また部員の引き抜き?」

 先輩の一人が訳知り顔で応じる。

「その通り。ちなみに原典では命短し恋せよ乙女、だ。恋なんて状態、引き起こそうと思ってもできるもんじゃない。にも関わらず命短し、と脅しをかける。そしてまた問題が発生するわけだ。恋の状態を誰が判別するのか。自分か、他者か。前者なら自覚だ。これならまだ赦せるけれど、後者にそれをジャッジされるなんて、愚かしいと思わない?」

 なにが「また」なのか話が通っていない。そもそも会話できているのかどうかすら怪しい。だが先輩の一人はごく普通に接する。勿論その場にいる他の人間は全員硬直状態だ。異物の闖入に慣れているのはその先輩一人だけで、あとの面子はどうしたものかと迷いが見て取れた気がする。

 自信はない。私だって、あの人の異様さに気圧されていたのだから。

 それでも、その時は靴ではなく、夕焼けの差す教室と、あの人を見ていた。それは間違いのない事実だ。


「あぁこれ平常運転だから。ヤマちゃんがやべぇのはみんな知ってる。で、登山部のメンバーが欲しいんだってさ」

 今の会話から前半しか読み取れなかった私は理解力に乏しいのだろうかと、本気で悩んだ時期もあった。が、あの人相手に悩むこと自体が間違いだとあとで気付いた。


 とにかく、住んでいる時空が違うのだ、あの人は。


「まぁヤマちゃんはコレだから。うちのクラスだけでなく学年は当然全滅。それで、今では他の部にちょっかい出してる始末ってワケ」

 訳知り顔の先輩が、どうやらクラスメイトらしい小柄な人物について説明をする。

「登山部じゃなくて観測部だよ。人間は一側面のみを見ている、というよりも、自分という視点以外は想像でしかない。まぁ変な話ではあるけれど、そういう自覚のある人物が欲しい」

「相変わらず意味わかんないねぇ」

 ケタケタと笑う二人は正に異常そのものだった。今まで話の主導をしていた三年生がようやくイニシアチブを握らんと前に出る。

 三年生。「この部は何もやらない」と私に嘲笑を投げかけた人だ。


「あの、あなた、失礼だと思いませんか? いきなり入ってきて意味のわからないことを」

「何に礼を失したのかイマイチ判断しかねるよ。三年生、君の王国を外からぶち壊すのはそんなに失礼かな? わたしにはそう捉えるのはやや難しい。好きで人生を無為に投げているならそれは良いだろう。けれどそうでない人物にとってはどうかな?」

 初めて会話らしい会話だと思った。当時はそう思った。けれど、よくよく思い返してみれば、高校生という枠組みの中で歳上の相手に啖呵を切るというのは、あらゆる意味で勇気の必要な行為だ。言い方も無茶苦茶で、波風を立てるのが目的なんじゃないかとすら思える。

 真相は闇の中だ。


 訳知り顔の先輩がストップを掛ける。

「へい、ちょい待ち。ヤマちゃん喧嘩しに来たんならここは分が悪いぜ。いくら正論でもな。でも丁度いいや、一人頃合いのやつがいるから、そいつ持っていってよ」

 そう言って、訳知り顔のまま私を指差す。

 三年生は完全に主導権を持っていかれたまま、二年生同士で話が進む。

 いや待って、私を指さした? 当惑は大きかった。心臓が色んな意味で高鳴った。

「この子さぁ、ずーっとつまんなそうに愛想笑いしてっから。ヤマちゃんよろしく」

「なるほど。ではお嬢さん。観測部へようこそ。わたしはあなたがあなたを見つける手伝いをしたい。だからあなたはわたしを見つけて欲しい。うちの部でやるのはたったそれだけだよ」

 何が「たったそれだけ」なのか。それに私は頷いてすらいない。

「あの、私の意志は」尊重してくれないのか、と言いかけたところで、三年生が

「いい加減にして!」と怒鳴り声を上げた。

 不愉快な声だった。


/


 天体望遠鏡──屈折式望遠鏡だ──を立てて、空を見上げた。

 冬空は空気が透き通っているとよく聞いていたが、肌に刺さる棘のような風が痛いだけだ。季節特有の透明感は感じられなかった。

「さて、話の続きをしよう」

 山というべきか、丘というべきか、少なくとも街の見下ろせるくらいには小高い場所で、しかも夜中に女二人。そこでまた意味不明な発話を聞くのかと思うと、笑いがこみ上げて来た。

 放課後の文学部では空疎な愛想笑いしかできなかったけれど、ここでは違う。

 少しだけ空に近い場所で、少しだけ自由になれる。そんな気がしていた。誰よりも自由気ままで、それでいて捜し物は自分だなんていう人のおかげだ。


 私は靴紐を結び直してから、空を見上げてこの人の言葉を待つ、までも無かった。私が背筋を伸ばした瞬間に、あの人は言葉を灯した。まるで待っていたかのように。まるで堰を切ったかのように。


「わたしはわたし自信を観測するのが難しい。理由はとてもシンプルで、わたし自身が光りを発していないからだ。あくまで他者という光りを当てることで観測が可能になる……星のようなものだと思って欲しい」

 それは君にも当てはまる。そう言って、あの人は手招きする。タイミングよく、私は水筒の中身を飲み込んだところだった。

 あの人はいつもそうだった。必ず致命的なタイミングで現れ、行動し、全てを破壊していく。

「故にこの天体観測はあくまでモチーフの一つでしかない。他者という光あってこそ全天を満たすほどに輝く星星は我々の暗喩であり、またこの望遠鏡を覗くという行為もそうだ。畢竟、わたしの中にしか他者はいない。わたしは他者にとっての灯りで、他者は……きみは、わたしにとっての輝きだ」

 全く以て意味が判らないけれど。とにかく、この人は自分の気持ちを誰かに聞いてほしくて、ここでこうして私に話しているんだと思う。

 自分を観測してほしくて。それが、どれだけ的外れであっても、だろう。

 だって、他人のことなんて解りっこないのだから。


/


 猫背気味の背筋を伸ばして空を見上げれば、星が煌めいている。天体望遠鏡なんて持ってくる必要があったのかと疑問に思うくらい、はっきりと輝いている。

 誰にだって見える。けれど、自分にだけは見えない。大いなる矛盾。


/


「冬の大三角形は覚えているかな?」

 久しぶりに通じる日本語があの人の口からまろびでて、私は少し驚いたのを覚えている。望遠鏡は設置したのに、ずっと裸眼で空を覗き込んでいた。なんだか勿体ない気持ちも覚えている。せっかく二人でいるのに、一人で望遠鏡を見つめるなんて、そんな勿体ないことはできない。そんな気持ちだった。

「はい、えっと、オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座の星で構成されているアレですよね」

「全天で最も輝く青のシリウス。赫灼のベテルギウス。そして白亜のプロキオン。いずれも裸眼で観測可能で、地球にとっては身近な他者だ。太陽を父性、月を母性とするのなら、友人だろう」

 はぁ、と気の抜けた返事を返す当時の私。

 今となっては、この時もっときちんと話しておくべきだったと思う。でも、それも無意味な後悔だ。過去は過去。現在は現在。時間という埋められない溝はどこまでも深く、きっと宇宙の果てよりも暗い。

「シリウスは連星で、つまり地球から見て二つの星が重なっている」

「……えっ」

 いきなり知らない事実を突きつけられた。そうなのか、と感心したのか、本当か? と疑問に思ったのか、どちらだったかは覚えていない。とにかく、私はその時初めてその知識を得た。

「他人から見て解らない、解りにくいことはたくさんある。だからこそ、観測という行為は不断に行われなくてはならない」

 その些か以上に強迫的な気持ちがどこから来たのかは、今となってようやく理解できる気がする。きっと、あの人も不安だったのだろう。今となっては全て推測。憶測の域を出ない。


「先に話した矛盾は覚えているかな。あなたにとってはどうでもいいだろうから補足を入れようか。わたしを知っている者は存在し得ない。悪魔の証明になってしまう。知らないことを知っているか、とね」

 なんだかそんな話をさっきしていた気もするな、と頭のどこかで感じていた。

 その時は昏いはずの空に煌めく星々に目を奪われていた。


 人はまず、声から忘れる。だから、この記憶もきっと、いつか消えて無くなる。


「単独での認識は完璧ではない。悪魔の証明を要求するような行為は論理的とは言えない」

 では、どうするか。あの人はそう言って、望遠鏡を覗き込んだ。

 何が見えるのだろうか。

 星か、それとも。

「機械の補助があれば、我々人類でも銀河の深淵を覗き見る程度のことはできる」

 けれどね、とあの人は言葉を切って。

「自分というものは時間をかけて、ゆっくりと見つめるしかないのさ。他人を介してであったり、何らかのツールを使ったりね」

 あなたには、なにがみえる?

 彼女の言葉は全て、間違いなく私に向けられたものだった。私は彼女を見ていた。彼女は私を見ていた。


 そう、思うことにしている。

 それが一番苦しくない形だから。


/


 息を落ち着けて、一人で望遠鏡を傾ける。

 遺品といえば聞こえは良いだろうか。実際は、あの人の両親が持て余すデカブツを譲り受けただけに過ぎない、というのは些か以上に自己陶酔が過ぎるかもしれない。

 今は独りだ。

 あの時、あの人には何が見えていたのだろうか。

 今の私には、星の明るさよりも、その間に潜む無限の暗闇に視線が誘われる。

 山に入る前に靴紐はしっかりと結んでおいた。その感触を足に感じるほどに。だから、私はもう俯く必要が無い。


/


「物語の終わりにはなんらかのエンディングが必要で、それはできれば幸福なものが望ましい。何故なら、そのほうが読みやすいからだ。人類は成功譚を好む。翻って、他者の陰口は結束も生む。けれど、大衆文学ならハッピーエンドが望ましい」

 はぁ、と大きく息を吐いた。星がこんなに綺麗だったなんて、私は知らなかった。

 観測しようとも思わなかった。

 いつも見ていたのは、自分の靴と床ばかりだ。

 帰り道はごく普通の山道を通り、登りの苦労はなんだったのかと拍子抜けするほど簡単な道程だった。


「では、よい夜を」

「先輩、他人とまともに会話できたんですね。一方的に意味不明な言葉をはき続けるだけの器械かとばかり」

「それは酷いな! まぁ、他人からそう思われるのは別に構わない」

 けど、きみの誤解が解けたならそれは嬉しい。


 彼女と別れ際に、そんな会話をした。


 それが、最後の会話になった。


 あの人は病気に罹ってあっという間に死んでしまった。

 感染性のものだったから、お見舞いにも行けなかった。

 お通夜の時に「部活の後輩です」と名乗ったら、あの人の両親は部活をやっていることを知らなかった。

 親でもそうなのだ。他人なんてもっとわからないことだらけだろう。

 でも、それ以上に悔しいことがある。

 ハッピーエンドが望ましい、なんて言っていたのは嘘だったのか。それとも、彼女は物語にすらなれなかったのか。


 帰り道のバスで、じっと自分の靴を見つめていた。その時の記憶は脳に刻銘されたかのように鮮明だ。

 いつの間にか、紐は解けていた。

 結び直そうとして、涙と嗚咽が溢れたことはよく憶えている。


 その翌年からだ。私は、独りでいつも同じ山に登るようになった。


/


「さて、と」

 私は独り、キャンプを張る。本来なら日が沈む前に準備をするべきだが、空と星を観測する時間が欲しくて、昼と夜の間の時間が惜しくて、大人になるためのイニシエーションになってしまった先輩との記憶が邪魔して、手付かずのままでいた。


 あの時の足跡はもう残っていない。そんな五年以上の前のものなんて、あるはずが無い。

 私は望遠鏡の三脚を固定する大型の釘を、ぐいと足で踏みつける。本来はテントのために使われるものだ。

 はっきりと、山頂に足跡が残る。これは、いつまで残る跡だろうか。

「まぁ、そんなことは」

 どうでもいい。どうでもよかった。


 空を見上げる。

 星を見上げる。

 私の靴ではない。満天の星空を。

 そこにあの人の足跡が残っている気がして。そんなことは無いと解っていて。


 それでも、夜空の光りを見つめる。

 そこには、冬の大三角形がいつもある。


/


「こんばんは。シリウス、ベテルギウス、プロキオン。今日もきみに会いに来たよ」

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残光 くろかわ @krkw

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