10.

 青年は一階の食堂に足を踏み入れる。右手にバールを持ったまま、前方にある窓へ歩いて行く。

 不気味な静かさに包まれた室内に響く青年の足音。窓との距離が縮まっていく中、彼の背後から別の物音が入り込んできた。


 カチャン。


「…しつこいな」

 青年は足を止め、ゆっくりと後ろに振り返る。その表情は険しく、入り口に立つマネキンに不快感を露わにしている。

 青年が睨んでいると、マネキンがゆらりと動き出す。そして、両手を胸の前に突き出しながら、彼に突進し始める。

「…めんどうだな」

 青年は大きな溜め息を吐くと、右手に持つバールを握りしめる。マネキンが目の前まで来たところで、バールを斜め下に振り下ろした。

 バールの先端である釘抜き部が、マネキンの右側頭部へ突き刺さった。マネキンは動きを止めると、そのまま地面に勢いよく倒れていった。

「…」

 青年は、うつ伏せに倒れているマネキンを黙って見下ろす。そして、頭部に突き刺さったバールを一気に引き抜いた。

 頭部に大きな穴とヒビが入ったマネキンが、緩慢な動きで右手を動かす。そして、人差し指を立てると、埃塗れの床をなぞり始めた。

「?」

 青年が不思議そうに見つめる。よく見てみると、なぞった部分の埃が消え、文字が浮かび上がってきていることに気づく。

 そうして眺めていると、マネキンの指の動きが止まる。そこには、こう書かれていた。

 

『かえせ』


「…『かえせ』?何を言っているんだい、《タケルくん》」

 青年がそう答えると、マネキンは顔をゆっくりと上げた。光も温度もない無生物の双眸を見ながら、青年は口角を吊り上げる。

「僕はね、ずっと待ってたんだ。健康な身体をくれる誰かさんをね」

「…」

「小さい頃から病気でずーっと、部屋の中で過ごしてきた。満足に外を歩けず、治る見込みもない辛い人生だった」

「…」

「だけどね、そんな僕には救いがあった。今や君の身体になっているマネキンだよ」

「…」

「女の格好をしてるけどね、両親には言えない愚痴を聞いてもらうには十分だった。僕が一方的に話し続ける日々の中、こんなことを言ったんだ。『君の身体に乗り移って、外を自由に歩きたいな』って」

「…」

「そしたら、本当にそうなった!嬉しくてしょうがなかった!だって、どこも痛くないし、辛くないんだもん。…けどね、やっぱり生身の方がいいなって思い始めたんだ」

「…」

「そこで君たちが現れた。僕を見つけるなり、君は真っ先に触ってくれたよね。それで入れ替わるなんて、思うわけないよね。本当にありがとう」

 そう答える青年は、悪魔のような笑みを浮かべている。それに対しマネキン…、タケルは抵抗の意を示すように身をよじるだけである。

「ふふふ、大丈夫。君の分まで、僕が幸せになってあげるから」

 青年は笑顔でそう言うと、バールを振り上げる。そして、彼を固まったまま見上げるタケルの頭目掛けて、勢いよく振り下ろした…。

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