中華料理店・ヘッドホン・飽く

冬野原油

三題噺2日目 歯磨きは実話

 最寄駅から徒歩17分、ゆるやかだけど長い坂を登り切ったところにある、ぼろくて汚くてなぜつぶれないのかわからない中華料理屋に入ってから2時間が経った。入ってから1時間半くらいは二軒目ということもあってずいぶん騒いだ。床が油でぺとぺとしてやばいとか、店主のおっさんが何も気にせず煙草吸っててマジやべえとか。思い返してみるとやばいしか言ってない。

「アタシさっきトイレでゴキブリ見た。冬のあいつらってどうしてるのかと思ってたけど、こういうところにいるんだね」と涼しい顔して話すのがおかしかった。「せっかくだから踏んで拾って、しょんべんと一緒に流してやった」と。しょんべんとか言わない子だと思っていたから、私はそりゃもう笑った。

「なにがどうせっかくなの?」

「……? アタシせっかくなんて言った?」

「言ったよ! 5秒前の発言覚えてないのマジやばい!」

 そしてまた笑う。箸が転ばずともこの子が存在しているだけで笑える。ああ、あれも面白かった。急に「青春ごっこしよ。あのイヤホン半分こするやつ」と言いながら、カバンかヘッドホン出してきたやつ。無理だよ! と私がまた笑うのに対して本気で怒りながら「頑張ればなんでもできるんだよ。あんたも早く頭半分にして」と耳あての部分を左右に力いっぱい引こうとした。さすがに止めたけど、あのまま折れてもそれはそれで面白かっただろうなと思う。きっと猫が豆鉄砲食らったような顔したんだろうな。猫? 鳩だろ! ひーーー!!! あっはっはっはあ、は、はぁ、苦しくなってきた。頭を半分にするって何?


 そうしているうちにだんだんと飲酒を続けるのにも疲れてきて、お互い無言になる時間があった。口を動かさずにいると、目や耳がよく働く……と言いたいところだけどこんなうるさい店内で耳が機能するわけもなく、目だけがやたら動き回る。髪をかき上げるしぐさにドキッとするなんてそんな思春期みたいなこと、こんな年になって経験するとは思わなかった。所在なく耳を揉むのも目に付く。耳の上の方に人差し指をひっかけて、中指を裏側に添えて挟み込み、それからゆっくり耳の曲線に沿って手を下ろし、親指と薬指で耳たぶのピアスを少し引っ張る。指が細いのは知っていたけれど、それよりも薬指の、少し骨ばった第一関節の皮膚の下。透けて見える青白い血管の先が私の心臓につながったような気持ちになって、唾を飲み込んだ音が耳の奥で大きく響いた。餃子を冷ますため必死に息を吹きかける様子が、それから垂れそうになった醤油を慌てて舌で舐め取るのが、とても、それで、私は、


「それであなたが寝ちゃったから、歯磨きだけしてあげて布団しいて寝かしといた。寝ゲロで死なせるのは嫌だったからずっと見てた」

 なぜか手をつないで深夜の街を数時間散歩して回ったことは覚えている。電車はまだ動いている時間だったのに、家まで歩いて帰ったのだ。家の鍵を開けて、ごめん散らかってるとかなんとか、別にごまかさなくちゃいけないことなんかひとつもないんだけど、何か言い訳をするべきな気がしたことも。

「……私、歯磨きしてもらったの……?」

「うん。あの歯ブラシ買い換えたほうがいいよ。どう見ても」

「はい」

「そのポカリ飲んで。アタシ帰るね」

 朝である。鳥は鳴いていなかった。私以上に飲んでいたはずのこの子は二日酔いのそぶりも見せず、サッとリュックを背負う。昨晩は折ろうとしていたヘッドホンを、ちゃっかりしっかり首にかけて、スマホをいじっていた。

「あの……今からその、終電のがしちゃったりとか、しない……?」

 もう始発だよ、の声とともに立ち上がって、玄関が閉まる。そりゃそうだよなあと思いつつ鍵を閉めに行ったその時、ほんの少し扉が開いて、

「次の終電はいつもより早いと思う。歯ブラシ、買っといてね」

また扉が閉まって、私は情けない笑顔のまま情けない喜びの声を漏らした。

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