息吹

有くつろ

息吹

 画面の中。私は面白味のない涙を拭っていて、もう少し芝居がかったことを言っておけばよかったと思う。どうして私はできないんだろうとか、涙を誘うようなことを。それも逆効果だろうか。世間は私の細胞までを覗き込んで否定する。

 画面の中の私は涙を堪えきれず、拭うことすら諦める。感動的な音楽がフェードインして、この動画がお涙頂戴だと笑われる理由の説明なんていらなかった。

 悪質なコメントが頭の中をぐるぐると回り続ける。誰かがそれを大きな声で読んで、笑いながら消えていく。頭の中で一人きりの私は、走り去る人間に暴言を吐かれて、頬を引きつらせたままありがとうございますと頭を下げる。馬鹿らしい。私も、世間も、この動画も。


 アプリを閉じると、いつも皆が私に向かって手を振る。それは前に所属していたアイドルグループのメンバーで、解散前に撮った写真。今のメンバーには見られたことがないし見せるつもりもない。ホーム画面をそれに設定したばかりの頃は皆の笑顔に元気を貰っていたはずなのに、今は写真の中の私の幸せそうな笑顔に首を絞められる。こんなに自然な笑顔、今ではもう作れないと思った。

 誰でもいい。誰か、私の手を引っ張ってくれないだろうか。私が少しばかり反抗しても、笑いながら手を引っ張って欲しい。流れる涙を舐め取って、笑顔は作るものではなくて溢れるものだともう一度教えて欲しい。誰か、誰でもいいのに。


 画面の上部に通知が表示される。『清水沙耶さんがライブ配信を始めました』の通知に指を寄せると、メンバーの顔がいきなり私の前に現れる。それからやっと、メンバーの沙耶ちゃんがライブ配信を始めて、スマホがそれを見せようとしていることに気づいた。

『聞こえる?』

「うん」

ふと返事をすると画面上にも似たようなコメントが表示される。それは目にも見えないような速さで消えていって、前回のグループ内人気投票の結果を思い出す。私とは一万以上の票差があった。コメントをしているほとんどのユーザーの名前には彼女の名前が入っていて、彼女のファンがそれほどに多いと分かる。だからまた笑う。私が配信をしたら、コメントをするのは『箱推し』とユーザー名に入っている人ばかりだから。

 沙耶ちゃんの口には信じられない量の話題が入っている。まるで餌を溜め込むリスのように。彼女はいつもそれをすらすらと溢れさせて、それを聞くのが楽しいと思う度に劣等感が刺激される。息を吸うだけで自分の顔が引きつっていないか心配になるような私にはできっこない。

『髪染めてみたんだけど、どうかな?』

可愛い。可愛いよ。よく似合ってる。コメントを打とうとして、アイドルとしての私のアカウントを使いかけていることに気づいた。私がコメントをして視聴者の全員が喜ぶとは思えないから、打ちかけたコメントを消そうとすれば、もう沙耶ちゃんは別の話をしていた。どこに行っても後ろで彷徨う自分にため息をつく。いつだか言われた、生きるのが下手という言葉が頭を過ぎる。

 面倒なだけ。生きるのが下手なわけではない。学生時代はいつだってクラスの中心人物で、心から笑えて、皆もそれに笑顔を返してくれた。ただデビューしたばかりの頃、少し緊張していたら、勝手にファンがもう一人の大人しい私をつくっただけだ。そして私はそれに応えた。そうすれば生きるのが下手だと、もう少し喋れと叩かれて、笑顔がぎこちないと言われれば、もう過去の笑い方を思い出すことなんて不可能に近かった。面倒な世間に応えられなくて、私を叩くことしかできないほど腐った人間に生きるのが下手だと言われる。自分を一度鏡で見て欲しい。自分が笑顔を広げられるのはなぜか、考えてみて欲しい。

 沙耶ちゃんが私を覗き込む。どのコメントを拾おうかと考えているようで、あまりにも近い距離にファンのスクリーンショットを撮る音がここまで聞こえてきそうだと本気で思った。

『昨日のライブ、は』

やっと話題を見つければ、一度開いた彼女の口は止まることを知らなかった。

 いつだったか、『二重幅は整形。顔もデカいし肩幅はゴツい。表情管理もできてないし歌とダンスもイマイチ。脱退まだ?』の文章と共に、私の名前がタグ付けされたコメントを見かけた。今ならそれは否定できない。私以外のメンバーは、皆それを真逆にしたような才能があることに気づいたから。

 例えば沙耶ちゃん。可愛らしい目。黒目がぱっちりとしていて、元々大きい目がもっとくりっとして見える。それに加えて、ふんわりと上がっているまつ毛に、自然な二重幅、細い眉毛、さらさらとした髪と、白い肌。それらは全て沙耶ちゃんの笑顔のスパイスとなる。

 画面に触れると、べっとりと指紋がついた。欲しい。分けて欲しい。生まれつきの肩書と自然な表情。暗さなんて微塵も感じさせないオーラ。あなたの纏う空気までもがあなたに見惚れているように思えてしまうくらいのカリスマ。欲しい。それを求めてしまって堪らない。だって私は、アイドルが当たり前に求められるものなんて何も持っていない。それがなければ世間に殺されるなんて、学校では教えてくれなかったのに。

 喉がぎゅうっと痛む。喉から手が出るほど、の言い回しは学校で習った。今彼女の何かを奪おうと、喉から手が出ようとしているのだろうか。だからこんなに苦しくて、喉が締め付けられるように痛いのだろうか。真面目にそう考えていれば、目が吐き出すように涙を溢れさせた。

 声を漏らして涙を止めようとする。唸るように涙を流し続ける姿は到底アイドルとは思えなくて、どこかで見た罵倒のコメントがまた頭を過ぎる。うるさい。

『全体曲はもちろん、ソロがすごく盛り上がってくれて嬉しかったです』

うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。私の何倍だって稼いでいるはずなのに、あなた達はどうして上を目指さないと気がすまないの。皆の努力は何倍にも膨らんで評価されるのに、私だけ、努力がなかったことにされている。メンバーの笑顔は砂糖みたいに甘くものに見えて、綿あめみたいに膨らんでいくのに、私はいつまでも綿あめを、どこかから注がれた水に萎ませられる。私の前でどろどろに溶けて原型を無くしたそれを、必死に掻き集める。学ばない馬鹿みたいに。

 頭痛を我慢しながら踊ったダンスは、鏡の前で繰り返した表情管理は、録音までして練習した歌は、もっと練習をしろと叩かれた。私だけ、どうして私だけ。前に所属していたグループの中で、私だけが今二度目の成功を迎えていない。きっとこれからもそれが私を祝福することはない。どうして。どうして私だけ。

 視界が歪む。コメントが読めない。息が苦しい。過換気症候群の文字が頭に浮かぶ。医師の診断書を見せれば上の人に休養を取れと言われた。拒否をした。私抜きでこのグループが成功しているのを目にしてしまえば、その時こそ私は存在価値がないと気づいてしまうと思ったから。息が苦しい。望んでもいない量の酸素を吸い込んでしまって肺が乾く。息を吐けない。苦しい。痛い。苦しい。助けて。助けないで。助けて。死んじゃう。助けないで。うるさい。頭も痛い。喉が痛い。

 ずっと、痛い。全身がずっと痺れて痛かったのに、今気づいたみたいだ。


 『でも、ソロは心晴が一番上手だったよ』

大きく咳き込む。薬を飲む。息を整える。

『あんな顔できるんだってびっくりした。すごく上手になってて』

語尾を噛みしめるように言う。ひゅうひゅうと私の口から隙間風のような音が出る。うるさい。うるさいのは、私だ。

『心晴、見てるー?』

やっとこちらを向いて手を振る沙耶ちゃん。画面では凄まじい勢いでコメントが流れていて読み取るのが難しいけれど、私にまたコメントして欲しい、のようなニュアンスのコメントがいくつか流れていったように見えた。咄嗟にコメントの入力欄に目をやり、消しかけてやめたはずのコメントが消えているのを見て、自分がいつの間にかコメントを送ってしまったことに気づく。

『心晴は、目がぱっちりしてて、顔が小さくて、身体のラインが綺麗で、いつも表情管理を頑張ってて、歌もダンスも上手。いつも尊敬してるよ』

ファンへの媚売りだなんて微塵も思わなかった。だってこれは、あのコメントの裏返しだってすぐに気づいたから。よくエゴサーチをしている沙耶ちゃんがあれを見ている可能性は否定できなくて、ただありがとうとコメントするのは割に合わないと思った。

『ライブのビハインド動画もすごく良かった。あんなに頑張ってるなんて』

熱の込もった目が私を見つめる。ファンではなく、画面の外の私を包み込むような黒い瞳。私がここにいると信じてくれている瞳。

 連絡アプリを開く。沙耶ちゃんのトーク画面を開いて、震える指を電話ボタンに向かわせる。沙耶ちゃんの目は何かを受け取ったように動いて、それから配信はすぐに終わった。

『もしもし?』

 ファンの見えるところで自分の言いたいことを言葉にできる自信がなかった。だって私は、生きるのが下手だから。

 でもそれを悪いことだとは思わない。生きるのが下手だから、私は人一倍呼吸だって上手くできない。でも、息を吸って吐くことがどれほどに気持ちいいか私は知っている。どこかで少しずつ落としてしまった表現力を掻き集めて、一生懸命それを沙耶ちゃんに説明できる。気が合わないメンバーだっている。むしろ、それがほとんどだと思う。それでも、一人でも、二人でも、私が掻き集めたものをゆっくりほどいて、感じてくれようとしてくれる人間がいる。


 私は、呼吸をやめない。

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息吹 有くつろ @akutsuro

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