8/30「キミがいない?」
ぶくぶくぶく。
泡が、包む。泡が弾ける。泡が、泡を産み続ける。こぽこぽこぽこぽ。まるで卵のようだ。
(水のなか?)
ごぼっ。
意識すれば、その思考ごともっていかれそうで。溺れ――沈んで――重くて――微睡んで――そして――。
落ちていく。
あぁ……ね、むい。
起きたくない。
(……紅葉、泣いている?)
俺は追いかけようとして、青葉が俺の手を引いて――必死に引き止める。
あぁ、これは
青葉の、硬直した表情。
その顔が、歪む。
くしゃくしゃに。それでも、泣くのを耐えて。
ごぅごぅ。
川が溢れんばかりで。
泥濘む、川土手を懸命に走る。
紅葉の声にならない声。咆哮。涙、火の粉。それが全部、雨にかき消されそうで。見れば、赤龍はのたうちまわって――熱気が弾けた。
「
俺が叫ぶが、紅葉の耳には届かない。高音の鱗に水滴が降り注ぎ――今なら、分かる。
子供の俺は、それが理解できなかった。ただ必死に、紅葉を止めようと必死で。
(……必死だったよな)
思い出して、小さく笑む。
紅葉と青葉の躰を見ても、どうとも思わない。ただ、綺麗だって思う。でも、自分の体はどうだろう。
あぁ、なんて醜いんだろう。
その手を取っても良いのか、なんてとても思えない。
――のぅ、坊。鬼の具現は、元服を過ぎてからにいたせ。無理しても、良いことは何一つないでやんす。
あぁ、
でも、良いんだ。
だって、俺は二人の女の子を泣かせたから。
だから――。
紅葉をまもるためなら、どんなことだってしたい。
だから、俺のなかの未熟な鬼を目覚めさせることに躊躇はなくて。
――
澄んだ青。
海より深く、光が届かない藍色。紺。その色を纏った鬼が、そこにいた。
――ま、マサ君?
龍が俺を見る。
その目が、大きく見開く。
うん。
やっぱり、綺麗だ。
紅葉も、青葉も本当に綺麗な目をしているんだ。
だから、泣くなって。
俺ね。笑っている紅葉と青葉が好きなんだ。
白蛇が俺の足下を、その尾で掬う。
――僥倖。まさに、これほどの大者が出たとは。紺野のクソ倅。まずは、貴様から喰ってくれよう。それから、龍を娶って。俺は、八岐大蛇に……。
あぁ、白蛇がそういえば、何か喚いていたっけ。
でも正直、どうでも良かったんだ。
鬼の角を折って、紅葉に託す。
俺の霊力が、急速に萎むのを感じる。
その一方で、紅葉に強く霊力が宿る。雨水なんかで、その鱗は傷つけられない。強い、霊力を宿して。良かった、って思う。これで、紅葉は守れ……。
――ならぬ、ならぬ! ならぬ! その供物は俺のだっ!
ぬるりと、蛇の尾が這って。
俺を川へと引きずり込む。
ごぼっ。
俺は藻掻く。
準備もないまま、水に引き込まれ、思うように呼吸ができない。食道の奥へ、川の水が流れ込んで――あぁ、ダメだ。
もう、頭が重い――。
落ちる。
墜ちる。
無理だ、もう――。
瞼を閉じかけた瞬間――青龍の澄んだ瞳が、俺を視ていた。
■■■
「まるで、あの時の再来だな、花嫁よ!」
蛇が喜色を浮かべ、そして吠えた。
「あの時、お前はまーちゃんの霊力を奪った」
水の中とは思えないほど、滑らかに青は、言葉を紡ぐ。その目は、憎々し気に蛇を見やる。
「おー、怖い。怖い。だが、勘違いするな? 奪ったのは龍の巫女だろう? 挙げ句、バカな砂澤家は、俺を村の守り神として、讃えるもんなぁ。
と
「本当に、ジャマだな! お前らよぉ!」
川土手では、狐の和尚と尼僧姿のっぺら坊が、祈りを捧げていた。
「仕事はしたくないのですが、ね」
「この期に及んで、そんあことを言うのなら、別居継続ですよ?」
「それは寂しいですね。あの三人を見ていると、なおさら」
二人は両手で印を結ぶ。
「「清廉なる川に、命よ注げ。悪しきものを調伏せよ」」
「しゃらくせぇぇぇっ!」
白蛇が吠えた、その刹那だった。
川の逆流をものともせず、華麗なクロールで泳ぐ
「なぁっ?!」
「ざまぁ――」
余所見するから、流木に直撃をする。どうしてこの
「逃がすかっ!」
「それは、どうでござろうなぁ」
「
荒れる水面を笹舟に乗ってきたのは、二叉と股旅の2匹だった。
ぷかぷかと煙管を吹かせて、まるで緊張感がない。
その煙が、
「くぅ、離せ! 離せ! 霊力が――」
「そうですよね」
対岸から、雨に濡れることも厭わず、お嬢と長谷川さんが佇むのはが見えた。
「音無の――」
蛇が紅い舌を出し、威嚇する。お嬢は感心したように、目を細める。
「あなたは、ヒトの記憶まで喰ったわけですよね。その情報を材料に、たくさん騙してきた。時に、龍神様に泣きつき。時に、集落に貢献をしながら。ただ虎視眈々と、龍を食べたいと。八岐大蛇になれる、と。そう願っていたんですもんね」
「なるんじゃなくて、俺は八岐大蛇――」
「それでは、質問を変えますね。鬼の霊力を喰ってなお。龍の霊力まで喰って。そして天狗も。7本の首が生えないのはどうしてですか?」
「それは……まだ霊力が……」
思い当たる節があるのか、逡巡する白蛇に、お嬢は小さく笑む。
「単純なお話です。あなたのことなんて、もう誰も信じていないんですよ」
「な……あ?」
「あなたが、八岐大蛇でも山田の鼻血でもどうでも良いんですよ。集落の皆さんは、紺野君と佐竹さん達を応援したくなっちゃった。人間も、妖怪もね。知らなかったとは、言わせませんよ? 貴方を愚直にも信じていた砂澤君を、自分が食べたんですから」
「あ……ぁ……だったら、俺はなんだって言うんだ?」」
白蛇は声を震わせながら、問う。
「あら? 私が答えちゃって良いんですか。私の言霊、かなり強いんですよ?」
「やめろ、やめ、やめ――」
ぶんっ、と空気が震えた。どうやら白蛇は、最後の抵抗と言わんばかりに、結界を張ったらしい。
「瑛真ちゃん、お願いしても良いですか?」
「モチのロン♪」
まさか昭和時代の死語を持ち出されるとは、白蛇も思わなかったに違いない。
正拳突きで、あっさり、と。
パリンと、結界が砕け。粉々に、七色に――光が散っていく。
「あ……あぁ、あ、やめ――」
「そうですね。あなたには『やっぱり恋がしたいん
蛇が舌を出して、口に収めてを繰り返す。まるで機械のようだった。
「その白蛇に出会えたら、恋が必ず成就する……なんて。紺野君にピッタリじゃないですか」
蛇はしゅーと、唸る。
「だからね、紺野君。そろそろ起きなさい? その調子じゃ、夏休みが終わっちゃいますよ? ねぇ、そう思いませんか、倉ぼっこさん達?」
同意と言わんばかりに、長谷川さんのスカートの中から、倉ぼっこ達が飛び出てくる。
「ちょ、ちょっと! なんて所が出てくるのよ!?」
「マサハル、良い加減起きろよー!」
「寝坊助は、三文の損なんだぞー」
「三文銭あったら、冥土にいけるぞー!」
「起きろ、起きろ、起きろ!」
「イチゴの加護を、マサハルに」
「言うなぁぁぁぁっ!」
長谷川さんの絶叫は、兎も角として。
倉ぼっこ達が、俺めがけて、飛んで来た。
俺を包み込んでいた、呪縛の殻を突き破って。ぎゅーっと、俺に抱きついて。ニヘラと、笑う。
――弱虫。
――意気地なし。
――勇気なし。
こんな
怖かったんだ。
抑えきれないのが――。
「良かった、マサ君……」
「あの時のように、まーちゃんが起きなかったら、どうしよって……」
ポロポロ、二人の目から涙がこぼれる。
『もう、抑える必要なんてないんじゃない?』
ひらひら、夏休みの日記帳が舞う。
ほんのりと光って。
雨を弾いて。
光が、乱反射して。
『まー
まるでワクワクが止まらない、あの時の俺達三人を映したかのように、日記帳がくるくる舞う。
付喪神という、妖怪がいる。
長年、愛され。愛着をもった道具に、魂が宿るといわれる妖怪である。通常、五年で宿る付喪神なんているワケがない。
愛され、愛して?
あぁ、そうだね。
抑えきれないくらい、本当に大好きで。
この夏、一緒に過ごしたキミが大好きで。
その感情は、また日記に書くから。今はちょっとだけ、五年分の想いを、その躰に綴らせて。
「紅葉」
「え? ま、マサ君――」
ごめん。
余計な言葉は、今はいらない。
欲しい。
俺はワガママだから――。
息つく暇なんか、与えたくない。だから、痕をつける。
「青葉」
名前を呼ぶ。
「あ、まーちゃん? あ、あの――」
「順番は、俺の中ではあまり意味がない。視線があったのが、たまたま紅葉だったから」
「あ、うん……それは、大丈夫なんだけれど。その、みんなが見て、視て――」
「俺は気にならないから、別に良い」
「あ、あの。その私が、気になると言いますか――」
「逃がさない」
青葉の言葉、そのものを口で蹂躙する。
吐息が漏れるけれど――その吐息すら、逃がさない。
二人とも、鬼の情欲を甘く見ないで欲しい。
五年間、ずっと我慢してきたんだ。
こんなキスじゃ、まだまだ足りない。
「こ、これはちょっと激しすぎませんか……?」
「煽ったの。音無ちゃんよね?」
「鬼は愛した姫に情熱的なのは、周知の事実ですが。あ、それはイケないと思います。え? うそ? そんな――」
「はいはい。こういうことは、あえて見ない。そっとしておこうね」
「瑛真ちゃん、見えません! 今、良いところで――」
「見るなし」
ポカリと、長谷川さんが、きっとお嬢の頭を殴ったんだろう――が、俺には、それこそどうでも良かった。もう、紅葉と青葉のことしか考えられなくて。
■■■
8/30「キミがいない?」
冗談じゃない。
もう、遠慮なんかしない。
絶対に離さない。
俺、我が儘だから。
絶対に、離してやらない。
何度だって言う。
理解するまで、灼きつける。
好きだよ、紅葉。
好きだよ、青葉。
五年分の想い、全部こめて。
――愛してる。
さらさらさらと、日記に鉛筆が走り続けたことを、俺は知らなかった。
雨に濡れた二人を見て。
ますます、欲張りになる
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