第2話 夢の形
もう入院して何カ月が経過しただろうか。病院で見る天井はいつも同じで、管が繋がれた右腕はまるで僕を繋ぎとめる鎖のようだった。
「雄大くん、おめでとう。このままいけば来週には退院できるからね」
僕、
「―――っ」
「あ、ごめん! もしかして痛かった?」
美春さんが針を抜いた時に痛みを与えてしまったと勘違いして焦っているので、ベットを起こしてその様子を見ていた僕はすぐに否定する。
「いいえ、大丈夫です。それと、ありがとうございました」
「その言葉は退院する日に言ってね。今はありがとうだけでいいんだよ」
「そう……ですね。ありがとうございます、足立さん」
彼女は春に看護師として働き始めたばかりで、たまに忘れ物をすることがあるけど……いつも一生懸命に働いていて素敵な人だと思う。
「むー。それと、美春って呼んでもいいっていつも言ってるよね? 私だけ雄大くんを雄大くんって呼んでるの、ちょっと子ども扱いしてるみたいでイヤなんだけど」
「じゃあ、僕のことを夏川と呼べばいいじゃないですか」
何度目かになる僕の反論に不機嫌になる美春さんはとても真剣で、綺麗で、それでいて表情豊かな可愛らしくて、人として僕は惹かれていて―――針を抜いた時の痛みは、この人と会えなくなるのが寂しくて感じた痛みだ。
「前にも言ったけどね、私は不安になってる患者さんに寄り添ってあげたいの。だから心の距離は名前呼びから。他の患者さんたちはみんな美春って呼んでくれるのに呼んでくれないの雄大くんだけだよ?」
”距離感の近すぎる看護師”そう呼ばれているらしい。そして、個室の僕がそんな話をなぜ知っているのかと言えば本人から聞いたからだ。
「それじゃ、今日はこれで戻るから、何かあったらすぐにナースコールを押してね。治療は一分一秒が大事なんだから」
「わかってます。僕が助かったのもたまたま近くにいた女性が救急車をすぐに呼んでくれたおかげですしね」
医者からは奇跡と言われた。窓ガラスなどで切り傷はいたるところにあるものの、座席のシートで圧迫された左腕と右足は見かけ上は無事で命も助かったからだ。
「……どう? やっぱりまだ違和感がある?」
「そうですね。この後遺症は治らないって先生も言っていましたし、この先も付き合っていくしかないです」
けれど切断を免れて一応は身体としての機能を維持しているだけ。神経系の損傷によって腕を動かそうとして動くまで1秒以上の安定しないタイムラグが発生してしまう。
「―――大丈夫、リハビリも雄大くんはしっかりと頑張ってる。だんだんよくなると私は信じてるから」
ゆっくりグーパーしていた僕の左手を美春さんが優しく包み込む。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですから―――」
数十秒、彼女の手の温度が僕の温度と混ざって一つになっていくような気恥しさと、いつもより近くにある綺麗なブラウンの長い髪と美春さんの優しさを感じる顔にドキドキしながら右手で彼女を離そうとし―――。
「っきゃ!」
「ご、ごめんっ! わざとじゃないんだ」
勢いよく手が伸びてしまい美春さんの胸を押し込んだ。
「えっと、右手と左手で感覚が違うのになれなくて―――」
「大丈夫。急なことで驚いただけだから」
テンパってあたふたする僕を美春さんが包み込むように抱きしめてくる。
「おっぱいなんてただの脂肪だよ」
「……なんてことをいうんですか」
「医療関係者はね、人体の構造も勉強してるし、―――なにより触り慣れてるからね」
僕のやらかしをなかったことにしようと大人の余裕を見せながら、耳元で囁く美春さんの声に意識を持っていかれそうになるが、それと同じくらいに聞こえてくる彼女の早くて大きな心音が本当は恥ずかしかったのだと僕に伝えてきた。
「あっ! もうこんな時間! それじゃ、今度こそまたねっ!」
時刻は午後14時ちょうど、やることもなく流していたテレビの番組が切り替わったことで時間を思い出した美春さんは慌てて退室していった。
次の日、美春さんは一冊の本をカルテの下に隠して僕の病室へとやってきた。
「こんにちわ。いい天気ね」
「……その本はなんですか?」
「そんなことより今日の定期健診やっちゃおうね」
明らかなはぐらかしに眉を顰めながらも、されるがままに血圧や採血といったものを終わらせてもらう。
「それで、その本はなんですか?」
美春さんが器具を片付け始めたので改めて本について尋ねてみる。
「……何も言わずにこれを読んでくれないかな」
渡されたのはそれなりに厚さがあるホチキスで製本された手作り感の溢れる薄い本だった。
「…………これって自作小説ってやつですか?」
「うん。実は私ね、趣味で書いてネットにアップしてるんだー。それは私の書いた完結済み作品のコピー本」
ページを捲るのに苦労しながらも少しだけ読んでみる。人々に寄り添って生きようとする孤独な一人の女性が紡ぐ物語からは―――美春さんらしさを感じた。
「序盤しか読めてませんけど、正直に言っていいですか?」
「うん。感想を貰えるのって稀だから聞かせて」
「このリーズって主人公の寄り添いたいって気持ちは凄く伝わるんだけど、寄り添うってそんな簡単なことじゃないと思うんですよ」
「……え?」
驚愕する美春さんが元に戻るまで待って、僕がそう感じたその理由を教えることにした。
「みんなと仲良くなりたいって気持ちはわかるけど、一人でいたい人に対して無理矢理傍にいるのは違うんじゃないかな。物語だと村に流れ着いたリーズが孤立してたジャファーの心を開いて村の人たちと二人が仲良くなって一章が終わるけど」
「……けど?」
「孤立していた時に村人に抱いた感情は簡単に消えないと思う。よそ者のリーズがジャファーの心に寄り添えたとしても、村人たちはジャファーに寄り添ってくれるかな?」
「―――あっ」
美春さんの書いた小説は理想論だ。現実の人間はそんな簡単に心を開いたりはしないし、過去を許したりしない。
「―――けれど、優しい物語だと思います。だって美春さんが書いた物語ですから―――、どんな状況のキャラクターでもきっと全員が救われるんだろうなって安心して読めるので好きです」
僕の感想を噛みしめるように目を伏せてカルテを抱きしめる。美春さんの求めた感想を言えたように思えた。
「少し辛口の感想でしたけど、美春さんはそういう感想が聞きたかったんですよね?」
優しくするだけが寄り添うことじゃない。現実と一緒に向き合って傍で支えるのも寄り添うということだと僕は思うから。
「―――今、美春さんって呼んでくれた?」
「……はい。僕はこんなものを渡されて足立さんと呼べるほど薄情な人間でいたくないので」
僕の気持ちを伝えるかは別だけど、呼び方を変えるいい機会だとは思った。もう会える時間は少ないけれど、それでもこの人が孤独を抱えているのがこの本から伝わったから。
「この本を渡してきた理由はまだ聞いていませんけど、それでも僕は美春さんに寄り添いたいと思ったので……、いつも貴女が言っている名前呼びに変えてみました。ダメでしたか?」
美春さんは首を横に黙って振る。―――そこで今日は時間切れになった。
「あ、昨日は集会に遅刻しちゃったから今日は遅れられないの。雄大くん、よければその先も読んでまた感想を聞かせてね」
そういって駆けていく美春さんの足は少しだけ軽そうに見えた。
「夏川さん、バス会社の方がまた面会したいとおみえになっていますがどうします?」
その次の日、病室に備え付けられている電話が鳴り響き受話器を取ると、午前を担当してくれている村橋さんが面会希望の連絡を持ってきた。
「いつものように断っておきましょうか?」
バス会社の方という言い方をしているが、来ているのは事故を起こした会社の人のことだ。これまでの僕は元には戻らない日常生活に謝罪なんかいらないと面会を拒絶していた。
「―――いえ、通してあげてください」
村橋さんは驚いたようだったが、すぐにわかりましたと言うと面会許可を出してくれた。
「初めまして、カワセミ交通の川瀬と申します」
「同じく、八神と申します」
「夏川です。用件は何度もお聞きしていますので手短にお願いします」
僕をこんな体にした元凶なのできっと許すことはできないと思うけど、それでも言い分を聞いておこうと思ったのは美春さんの小説を読んだからなのだろう。
「―――この度は誠にすみませんでした!」
「……わかりました。貴方方の謝罪を受け入れます」
人は過ちを犯す。学校では間違わないように育てられるけど、人が人である以上ヒューマンエラーはなくならない。それがバスの運転という人命にかかわる仕事だったか、ただの小さな事故や書類の記載ミス、あるいは遅刻といったものかという違いだと入院してから美春さんを見てて思った。
「―――働くって大変ですもんね。今後はこのようなことがない様にお仕事頑張ってください」
だから、僕もこの人たちに寄り添おうと思う。よく遅刻や忘れ物をする僕が好きになった美春さんと規模が違うだけで同じ小さなミスを犯しただけの人たちだから。
美春さんが午後からやってきて、さきほどの面会のことを根掘り葉掘り聞かれて正直に答えたら真っ赤になってしまった。
「けれど、美春さん。貴女が僕を変えたんだと思いますよ」
「そういわれるとそうかもしれないけど~~~!」
その日はそのまま美春さんとの時間が終わり、美春さんの休日や他の予定が重なって小説の感想を伝えれないまま遂に退院の日を迎えた。
「先生、この度は息子の命を救ってくださりありがとうございました」
荷物をまとめてあり、後は病室を後にするだけの状態だ。一人暮らしをするためにこの町に来た僕だったが、心配だからと遠くから飛行機を使い退院に合わせて来てくれた母が主治医だった山本先生に頭を下げた。
「―――バスケ、もうできないんですよね?」
「前にも申し上げましたが、退院後はスポーツのような激しい運動は控えていただきたいかと……」
先生たちによる懸命な治療のおかげで命は救われたけれど―――僕の選手生命は救えなかった。
「わかりました。―――ありがとうございました」
母と先生が驚愕した。病院で意識を取り戻し、その話を初めて聞いた時の僕はそれはもう、もの凄く落ち込んでいたから。……バスケは小学生の時からやってきて僕の大切な趣味だった。もう大学のみんなとプレイすることはできないけれど―――。
「かーさん、確かにバスケは大切なものだけど、それができないだけで死ぬわけじゃない。この身体でもできる別の趣味を見つけようと思っただけだから心配しないで」
そりゃ、いつかはプロになれたらいいなと思ってはいた。社会人バスケという道もあった。けれど、どうしてもなりたかったわけじゃない。絶対の夢じゃないんだ。
「誰かに勇気を与えられる、そんな人になりたい。そうあの人のおかげで思うことが出来たから」
バスケを始めようと思ったのは子どもの頃にみた試合で逆転のスリーポイントシュートを決めた選手がとてもかっこよかったからだ。そんな姿に憧れて、僕もいつかそんな選手になりたいと思ったはずだった。いつの間にか忘れていたけれど、美春さんが小説を通して教えてくれた。
「手段は一つじゃない。趣味と通して夢を叶えることもできるし、仕事にしてもいい。その両方から理想を追ってる人もいるからね」
憧れた人に近づけるように、こんなところで落ち込んでいるわけにはいかない。だって憧れのあの人ならどんな窮地からだって逆転して勇気を与えてくれるはずだから。
病室には感想を書いたメモとお礼と、僕の気持ちを残してきた。
『無理に悲劇を入れなくていいと思います。だってこれは美春さんの創る物語なんですから。みんなが支え合って幸せに暮らしている。誰に何と言われようと、それが美春さんが目指したい世界で、それだけを表現してもいいと僕は思います。物語の終わりはいつもハッピーエンドで―――凄く好きでした』
隣町とを繋ぐ川に掛かった大きな橋の下、日陰になったそこで僕は天然水を片手に読書に明け暮れた。―――そして数カ月が経過した。
「ようやく見つけたっ!」
キキィと自転車のブレーキ音が鳴り響いて、懐かしい声が聞こえてきた。週末の晴れた日には毎日来て、一人で夕暮れまで過ごして自宅へ戻ることを繰り返していたが、それもついに終わりと迎える。
「ちょっと雄大くん! 週末に病院から見える橋の下で待ってますってどんなけ橋があると思ってるのよ!」
「え、もしかして架かってる橋の全部を回ってくれたんですか?」
「当たり前でしょ! キミが待ってるっていうなら私がいかないとずっといそうじゃない」
言われてみて確かにと思ったが、僕が言いたかったのはそうじゃない。
「いえ、橋の下でって書いておいたのであの病院からならこの橋一つしかないからわかるかなと思ったのですけど……」
けれど、それだけ僕を探し回ってくれたことが純粋に嬉しくて、顔が赤くなるのを実感した。
「そ、そう。そんなことはいいのよ。あ、それって小説? 何読んでるの? ―――恋愛小説? あんなラブレター寄こしたくせにフィクション程度じゃ足りないでしょ」
隣に座り込んだ美春さんの顔が近くて、この気持ちがバレないかなとドキドキしてきたが、続く台詞に穴があったら入りたくなった。
「返事はもちろん、おっけーだよ。ただし、雄大くんが大学を卒業するまでは友達としての付き合いが条件だけどね」
遊び惚ける気はないけど、ちゃんと大学は卒業しろという願いは受け取ってそれでお願いしますと答えた。
「で、なんで恋愛小説なんか読んでるの? というか、キミって入院中に暇でも本を読んでる感じはなかったよね?」
「美春さんの影響ですよ」
「ええええ、わ、わたしっ!?」
僕だけが意識してるのなんか負けた気になるので仕返しに少しだけ意地悪な言い方をしてみると、美春さんは分かりやすく可愛く取り乱した。
「はい。あの小説しか僕は知らないので、世に出版されている小説というのはどんなものか未来の彼女のために勉強してみようと思ったんです」
「ちょっと飛躍しすぎじゃないかな!」
背中をバンバンと叩いてくる美春さんだったが、音のわりに全然痛くはなった。
「……正直、まだ僕のやりたいことは見つかってません。けれど、美春さんの手助けをしたいという気持ちには気付けました。なので、二人で夢を追いましょう」
もう言葉を完全に失った美春さんは、自棄酒よろしく僕の飲みかけの天然水に手を伸ばして一気飲みする。
「それ、間接キスじゃ……」
「~~~ッ!!!」
こんな面白い人だったんだなと病院では知らなかった一面を見て嬉しい気持ちになった。
「もうっ! ばかっ!!!」
罵りながらも隣に寄り添ってくれる彼女の優しさが僕は好きだ。お互いのことはまだまだ何も知らない僕らだけどここから二人で歩いていこうと思う。誰からも読んでもらえなかった小説家の彼女が逆転の夢をみんなに見せて勇気を与えるために。
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