序章

 幸福になると言われている花嫁の純白のドレスを纏って、青い空の下で笑顔を振りまいていた。

 それが、今日の出来事。

 たとえ招待客の誰もが心の中では一切祝福していないとしても、一様に笑顔を浮かべてお祝いモードだった。空虚に感じる拍手の音も、教会の鐘の音色も何もかもが、祝福に色を添えるかのように見せかけている。


 どのようにして集められたのかは知らないけれど、参列者はこの茶番めいた喜劇の見届け人として、相応しい役割を必死で演じているのだ。引きつった笑顔の裏で何を考えているとしても。

 そんな観衆に見守られ交わす冷ややかな誓いの口づけですら、義務的で。

 相手のぬくもりも何も伝わらない触れるか触れないか程度のもの。


 そもそも新郎である彼とは今日が初対面。それがこの結婚の全てを物語っているようなものだ。そんな夫との生まれて初めての行為。

 胸を高鳴らせることも、乙女らしい恥ずかしさもありはしない。

 むしろ、あまりの短さに余韻すらなく、実感も湧かなかった。


 ――だというのに、まだ追い打ちをかけるようなことを貴方が言うの?


 酷く億劫になりつつ、妻となって与えられた部屋で、本日夫になったばかりの男を見上げた少女は心の中で呟いた。


 純白のウェディングドレスは脱いだばかりなのに、まだ演じている気持ちになる。

 もういい加減疲れたというのが本音だ。

 だが、夫となった男は許してくれそうもない。


 サヴェス・ジッケルドクラ。

 伯爵家の嫡男で、その気品は生まれ持ったもの。まだ二十三歳という若さで、立ち居振る舞いは宰相補佐官としての自信に満ちて貫禄がある。


 武人というわけではないのに、見上げるほど高い痩身の体躯は、引き締まって鍛え上げられているのが窺える。そのうえ、誰もが見惚れるほどの美貌の持ち主だ。染み一つない滑らかな肌に、通った鼻筋。薄い唇は形が良くなぜか色気がある。藍色の髪はいつも丁寧に後ろへ撫でつけられていて、少しの乱れもない。彼の清廉さと隙のない完璧さが表れている。

 きりっとした眉は男性的で、切れ長の双眸は深みのある青緑。冴え冴えとした冬の湖面を思わせ鋭い。禁欲的に見えるのに、どこか官能的な色気を孕むのは、犯しがたいその美しい容貌と散々な悪評のせいだ。


 数々の婦女子と浮名を流して、一度寝た女には見向きもしない。

 冷ややかな恋の狩人。

 ゴシップ紙を連日騒がせている男は噂通り、冷徹さの瞳の奥にはなんの感情も浮かばない。


 唐突に部屋にやってきた夫は、政略結婚に震える花嫁を前にしてもぶれることがない。

 硬い寝台へと押し倒し、無機質に妻となった少女を睥睨するだけだ。


「私は君と同衾するつもりはない。寝室も分けるつもりだ。もし我が家の跡取りを生むために悲愴な覚悟をしているのなら、無駄だと伝えておこうと思って」


 そう言い放ったきり、黙り込んで身を起こす。

 告げられた瞬間は億劫に感じたが、時間が経てばじわじわと体の内を侵食する。

 

 夫の声は低いけれど、聞き取りやすい。

 少女は夫に合わせて起き上がりながら不意に湧き上がった感情を抑え込むように慌てて俯いた。そして、華奢な肩を震わせた。

 

 もう十分なのに。

 既に疲弊していた精神が、さらなる攻撃に激しく揺れる。

 その姿を見て満足したのか、サヴェスは踵を返して部屋を出ていく。

 長居しては面倒だと判断したのかもしれない。

 

 愛のない政略結婚。


 彼の家は少女の家の持参金が目当て。少女の家は彼の爵位を欲したのだろう。彼女の父の思惑は定かではないが、それくらい察せられる。そして夫の方はサヴェスの父であるジッケルドクラ伯爵が勝手にまとめた縁談だからこそ、煩わしさしかないのだろう。慰めるのは彼の役目ではないし、憐れな花嫁が勘違いしないようにという彼なりの配慮だったのかもしれない。

 

 夫の心情など推しはかったとしてもその程度なのだ。つまり彼は少女の心情など想像もつかないはずである。

 ぽつりと寝台の上に残された少女は部屋着のドレスをぎゅっと握りしめた。

 誰もいなくなったからこそ、ようやく感情の赴くままに自身を解放できる。

 吸い込んだ息が、喉の奥で掠れた。

 乾いた音は、どこまでも震えていた。


「……ああ、もう理想だわ……そんなご褒美まで、今日の終わりにくれるとか完璧すぎる――っ」

 

 ――彼女の夢は政略結婚をして、婚家に虐げられることにあるのだから。

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