君に幸あれ

ひつゆ

Yellow rose

「あ、もしもし。聞こえてる?」

 スマホを耳に当てて、なんとなくベランダに出てみた。外で電話なんて、なんだかセンチメタルな気分になる。

 百万ドルの夜景とは言い難い、どこか濁っているような空を見上げる。薄明るいネオンの中に星はひとつだけ見えた。

「おうおう紫苑しおん〜、久しぶり」

 十六のときに出会い、十年以上のときが過ぎた――お互いにもう子供ではないのに、相変わらずだなとこっそり笑う。

「えーと……元気ですか?」

「ふはっ、暑中見舞いか」

「いや、だって、しょうがないじゃん」

 電話慣れてないし、と心の中で呟いた。電話越しの日鞠ひまりの声は少しくぐもっていて、果たしてこんな声だったかなと思いを巡らす。十年前は毎日のように聞いていた声も、今や遠い記憶の彼方にある。

「その、今日急に電話したのはね、実は紫苑さんにお話がございまして」

「え、何。怖いんだけど」

 冷たい風が身を包む。長い髪の毛が風に揺れて視界を奪った。春の夜は思ったより肌寒い。身震いして部屋の中に戻りベッドに腰掛けた。

「いやぁ〜まあ、まあまあ、色々あるんですよ」

「なんか、テンション高いね」

「そりゃね、高くもなるよ。わたしの人生史上最大のビッグニュースなんだから。……実はさ」

 日鞠は上機嫌で、少し照れくさそうだった。何だろう。ビッグニュース。色々考えてみたけど、就職してあたしが引っ越して以来あまり会えていないし、特に思い当たることはなかった。

 しばらく沈黙があったあと、えっとね、と幸福感に満ちた声が飛びこんできた。

 

「……わたし、結婚するんだ!」

 

「…………え?」

 日鞠が。

 結婚。

 スマホがするりと手から滑り落ちてベッドの上で跳ねる。片手を中途半端に上げた奇妙な姿勢で、しばらく宙を見つめて呆然としていた。

 ……そっかぁ。

 あたしたちはもう二十八歳で、常識的に考えて最初に思いつくべきだったのだ。馬鹿だ。友達が少なすぎて気づかなかった。

 目を瞑って日鞠の顔を思い浮かべる。

 あどけなく笑った顔。丸っこいショートボブ。百五十もない身長。制服の白シャツがよく似合っていた。

 ……あの日鞠が、結婚?

 感じたのは、強烈な違和感だった。

 だって日鞠は、高校時代も大学時代も、か、彼氏とかいなかったし……たぶん。……もしかして、あたしが気づいてなかっただけ? そんな、どうしよう。

 頭の中をぐるぐると大量の言葉が駆け巡る。ベッドの上に転がるスマホから『おーい、紫苑? どうしたー』と日鞠の声が聞こえた。

 はっとして携帯を拾い、急いで耳に当てる。上手く息が吸えない。ひどく取り乱してしまった……いったん落ち着こう。ゆっくりと深呼吸をした。

「……ドッキリ?」

「なわけないじゃん! 本当だよ!」

 ドッキリじゃなかった。本当で、現実だった。

 ――日鞠が結婚する。あたしの知らない誰かと。

 こういうふうに電話したり、くだらないことを話したりするのだって……あたしだけじゃ、ないんだ。いや、そりゃそう、なんだけど。

 ……勝手に、日鞠を奪われたような気持ちになってしまう。日鞠はあたしのものではないし、日鞠とあたしは親友で、それ以上でもそれ以下でもないのに。そもそも最近は直接会えていないし、今の日鞠の交友関係だって知らない。

 ……付き合っている人がいるなら、教えてくれてもよかったのに。せめて、そう思うことくらい許してほしい。

「その、お相手の方は、どういう……」

「え〜〜〜〜いや〜〜〜〜」

 今まで聞いたことのない、幸せにあふれた照れくさそうな声色。

 なんか、なんだろう。

 あたしが見ていた日鞠は、ほんの一部分でしかなかったことに気づいて、それで……うまく言葉にはできないけど。

 ……なんとなく、気分が沈んだ。

「わたしのパートナー、っていうか妻、嫁? は楓奈ふうなって名前で……あ、女の人なんだけどね。だから正式に籍入れるとかはできなくて、式だけ挙げるみたいな感じ」

「……まじ?」

「まじまじ。そんで楓奈はさぁ、職場の後輩で、年はひとつ下なんだけど、もうめちゃくちゃかっこよくてかわいいのね! 見た目完全に美少年って感じですごく華奢で儚いし、困ったようにふわっと笑う顔がまじで最高でさ、それと」

 あまりの情報量に脳がパンクしそうだった。というか途中から完全に惚気だし。

 ――幸せそう。

 ……あー、親友が結婚するってこんなに辛いんだ。

 そりゃあたしだって、心から日鞠の幸せを願っているけど。

 それはそれとして、だから。

 ――日鞠のことが好きな人はたくさんいるはずだって……出会ったときから、わかってるつもりだった。日鞠は明るくて、面白くて、友達も多くて、みんなから可愛がられるような、そんな子だから。二人でいるときに日鞠の友達と会ったとき、あたしは横で愛想笑いしかできなくて、周りの音がだんだん遠のいて、幽体離脱したような気分になったり……そんな経験も無数にあって、慣れているつもりだった。

 それでもあたしは、日鞠の――。

「おーい紫苑〜聞いてるか〜」

 はっとする。変な方向に思考が飛んでいきそうになっていた。

「正直、惚気聞くのきついって思ってる」

「すいませんね幸せで!」

 話は半分くらい聞いてなかったけど、ただ、日鞠がその人のことを本当に好きなんだなって――それだけはすごく、伝わってきた。

「あ、あとさ。紫苑、結婚式で友人代表スピーチやってよ」

「え……あたし?」

 日鞠の友達なら……他にもたくさんいるはずなのに。それを察してか、苦笑しながら続けた。

「いや、わたしめっちゃ仲良い友達ってそんなに多くないからね。ほら、やっぱ……親友、っていうか、心の友、ソウルメイトだから。やっぱ紫苑かな、みたいな……」

 最後はごにょごにょと濁されたけど――じんわりとその言葉があたたかく心を満たした。……親友。親友、ね。改めて言葉にされるとなんだかむず痒い。

「……わかった。まかせてほしい」

「超絶感動的なの期待してるからな〜。結婚式の日程はおいおい送ると思うから来てね! 絶対!」

「うん、まあ行けたら行く」

「来い」

 しばらく、とりとめのないことをだらだらと話した。

 気を遣わずに軽口を叩いて、適当なことを言えるこの時間が、いつの間にか遠いものになっていたと気づく。……今後はこうやって話すのも減るんだろうな。仕事も忙しいし。楓奈、にもなんとなく悪い気がするし。どうなんだろう、そこは。日鞠が楓奈って言うから無意識に呼び捨てしてしまった。

「んじゃ、そろそろ切るわ」

「うん……あ、日鞠」

「んー?」

 言い忘れていたことがあった。

 親友として、真っ先に言うべきだったこと。

 それなのに、喉に言葉が詰まって咄嗟に言うことができなかった。

「あのさ、」

 ――あたしは日鞠の、親友だから。

 日鞠が幸せでいられたならそれでいい。

 その隣にいるのが、笑顔を向けるのが、あたしじゃなくても。

「……結婚おめでとう!」

 ちゃんと言えた、と胸をなでおろした。

 何十キロぶんの距離を隔てて声が届く。

「……ありがと!」

 春のひだまりのような、天日干しされた布団みたいな――その声を聞けてよかったと、心から思えた。

 じゃあねと言い合って電話がぷつりと切れる。ごろんと仰向けになり、なんの面白味もない天井を見上げると、静寂に耳鳴りがした。

 ……残ったのは、ああ、あたしは日鞠のこと何もわかっていなかったんだな、っていう気持ちだけ。

 じわりと視界が滲んだ。あは……なんでよ。嬉しいはずなのに。結婚おめでとうって言ったのに。日鞠の幸せを願ってるはずなのに。

 別に、その、そういうのじゃなくて。

 あたしは日鞠にとって――一緒に生きていこうって思えるほどの人間じゃなかった? 絶対に離したくないって思えるほど、大切な存在じゃなかった? 疎遠になったらそれは仕方ないって、諦められるほどの友達だった?

 ……それはぜんぶ、あたしにも当てはまる。学校が、職場が、住んでいる場所が違うから。そうやって自然と距離が遠のいていくのを、しょうがないかって、そういうものだよねって……そうやって受け入れてきたのは、あたしも同じだ。

 ――あたしの負けだなぁ。

 日鞠は――あたしよりも、楓奈のことが好きなんだ。その事実にただ落ちこんでしまう。比べるようなものでもないのに。

 それでも、あたしが日鞠の親友だっていうことに変わりはないはず。

 今までも、これからも。

 日鞠だって、そう言ってくれたんだから。

 これ以上、何も望むことはない。

 そう言い聞かせても頭は変に冴えてしまって、長い夜はなかなか明けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る