31.初恋

―碧生―

抱きかかえられたまま玄関に足を踏み入れる。ドアが閉まる直前、複数人の若者たちが談笑しながら通り過ぎる姿が視界の端に映った。

ごめん、と謝られて顔を上げると、鼻先がぶつかりそうな距離で目が合った。

「……っ」

「あ、牧野さんまで濡れちゃったね」

ちょっと待ってて、と先生は洗面所へ向かい、タオルを一枚持って戻って来た。

「ありがと……って、ちょっ何」

「早く拭かないと」

タオルを広げて髪を拭こうとしてくる先生の手から逃げる。

「自分でやるからいいっ」

それより、と先生の事を見る。

「先生こそ、そのままじゃ風邪引くって」

そんな大して濡れていない自分の顔を急いで拭き、畳んで先生に返す。

「早くシャワーして来て。俺、もう帰るから」

「帰るの?」

「え」

瞬きした先生の睫毛から、雨粒が一滴落ちる。

「急いでシャワーしてくるから、リビングで待っていて」

「……や、でも」

狼狽えていると、強めの口調で

「帰らないでよ」

と念を押され、頷くしかなかった、


***

いつか目を覚ましたソファに腰かけると、部屋の隅に引っ越し業者のロゴが入った段ボールが積まれているのに気が付いた。

―ああ、そうだった。

なるべく考えないようにしていた事を思い出してしまう。

常勤で働ける大学が見つかったって、言ってたっけ。

よく見てみれば、前に来た時よりも部屋の中は片付いていた。元々物が少ない印象だったけれど、今は本当に、生活に必要最低限の物しか置かれていない。

一体どこへ引っ越すんだろう。というか、そもそも次の勤務先がどこの大学なのかも知らない。

都内なのか、地方なのか。まさかとは思うが、英語に不自由から海外の大学なんて事も、有り得るかも知れない。

そうなったらもう、本当に会えなくなってしまう。


浴室の戸が開く気配がした。控えめなスリッパの音と共に、部屋着に着替えた先生がリビングに現れる。

「何か飲む?」

「いや、別に……」

「お茶でいい?」

人の返事を待たず、マグカップを二つ手に取って冷蔵庫からお茶を出し、注ぎ始める。

首に引っ掛けられたタオルに、濡れたまま乾かしていないらしい毛先から雫が落ちる。いつもきちんとジャケットを羽織っているから気づかなかったけれど、薄いTシャツ越しに浮き出た肩甲骨はくっきりとしていて、結構細いんだな、とどうでもいい事が頭に浮かぶ。

はい、と差し出されたマグカップを受け取る。口を付けると、冷たい烏龍茶の苦味が口に広がった。

俺の隣に浅く腰掛けた先生が手に持つマグカップが目に入る。俺に渡してくれた紺色のマグカップと、色違いだけれど同じデザインに見える。来客用なのだろうか。―それとも。

アッシュ色の髪の毛が、脳裏で揺れる。

朝陽くんは、知っているんだろうか。

先生がどこへ引っ越すのか。どこで働くのか。

いつ、会えなくなるのか。

「先生、引っ越すんだね」

俯いて発した問いに、先生は何でもない事のように頷いた。

「はい」

「……いつ?」

「来週です」

「どこに行くの」

先生はすぐに答えず、こちらをじっと見てきた。

「どうして」

「どうして、って」

思わず顔を上げる。目が合った先生はいつも通りの無表情で、何を考えているのか全然分からない。

「もう……会えないの?」

問い掛ける声が震える。

先生は何か探るようにじっと俺の目を覗き込み、ゆっくりと瞬きをした。

「もしも、僕に会えなくなったら」

ゆっくりと、問い掛けられる。

「牧野さんは、寂しいんですか?」

「寂しいよっ」

苛立ち混じりに発した本音が、涙腺を刺激する。

なんで、と続けた声がぐずついて濡れた。

「なんで、わざわざ言わせるんだよっ……」

見られたくなくて顔を背けた拍子に、頬を熱いものが伝い落ちる。

牧野さんは、と相変わらず平坦な声が名前を呼んでくる。

「いつも、言葉が足りない。もう少し素直に、気持ちを教えてくれてもいいのに」

小さくため息をつく気配を感じる。

「何も言わないくせに、行動だけは直球だからびっくりするんだよね……」

「それ、どういう」

聞き返そうとして、病室で勢い余ってキスしたことを思い出す。

「!あ、あれは……っ」

「ラジオも」

「えっ」

「どうして、あんな事を言ったのかな」

「あんな事?」

何を言ったか思い出そうとして、脳内で自分の声が甦った。

―こういう気持ちが、恋なのかなって……―。

「ねえ、牧野さん」

呼ばれ、恐る恐る先生の方を向く。

真っ直ぐ、見つめられた。

「僕のことが好き?」

「……っ」

喉の奥で、言葉がつかえる。

問いかけに頷くのは簡単だった。

―でも。

「何で、そんな事聞くの」

「え?」

「聞いてどうすんの。だって言ったじゃんか」

引っ込みかけていた涙が、再び瞼を熱くする。

「先生、恋愛しないんでしょ。そう言ったじゃん、誰の事も好きにならないって」

「……そうだね」

「だったら何で聞くの?何で振られるために告白しなきゃいけないの。傷つくだけだって分かってるのに……っ」

ここまで言ってしまったらもう、気持ちを打ち明けたも同然かも知れない。でも、どうしても言いたくなかった。

初めて感じた気持ち。

今までずっと、目を逸らしてきた感情。

アイドルだからどうだとか、自分に都合のいい理屈を並べ立てて、本当はただ怖かった。

誰かに心を開いて、自分の心の一番柔らかい部分を、傷つけられるのが怖かった。

自分を守るために強がって、どこか距離を空けて人と付き合ってきて。

だからこんな風に、誰かの前で涙を見せたことだって、一度も無かった。

全部、先生が初めてだった。

「ラジオで、言っていたよね」

静かな声が降ってくる。

「デートしていて、僕ともっと一緒にいたい、僕の事を、もっと知りたいって思ったって」

「……うん」

「あの時……車から降りて、帰って行く後ろ姿を見ていたら、夢から覚めてしまいそうな気がして怖くなったんだ。気づいたら名前を呼んでいた。自分でも驚いたけれど、後から分かった。これが恋なのかって。初めて知る気持ちだった」

碧生、と、震える声で名前を呼ばれ、目を合わせた。ほんの少し潤んだ瞳に、見つめられる。

「僕は、碧生が好きだ。アイドルという立場は理解しているつもりだし、僕もこれから仕事が忙しくなるだろうから、付き合っても上手くいかないかもしれない。先の事は分からなけれど、でも僕は今、碧生の事を想ってる。好きだっていう気持ちでいっぱいになってる」

先生の目に、不安そうな色が滲む。

「碧生は、どうなの」

「……すき」

自然と口が動いた。

「そんなつもりじゃなかったのに、ずっと先生の事ばっか考えてて、胸が苦しい……っ」

あんなに書けなかった歌詞が、先生とデートしてから、どんどん出てきた。

伝えられない想いがもどかしくて、どうしたら良いのか分からずに、気持ちを持て余して。

ただ、会いたくて会いたくて、堪らなくなって―。

止めどなく溢れてくる涙を、先生の手のひらが拭ってくれる。その手を握ったら、すぐ近くに息遣いを感じた。顔を上げたら、自然に唇が触れ合った。

俺が一方的に奪った時とは違う、優しく包み込むようなキスに、胸の奥が熱くなる。

首元に腕を回したら、まだ先生の髪の毛は湿ったままだった。

「……碧生もシャワーしてくる?」

「え?」

なぜそんな事を聞かれたのか深く考えもせず、別に良い、と首を振る。良いんだね、と念を押されたかと思ったら、不意に体が浮いた。

「!ちょ、何っ……?!」

そんな細腕のどこに力があるのか、軽々と俺を横抱きに抱き上げ、先生は立ち上がった。

「何?!ねえっ……」

どさ、という音と共に降ろされたのは、ベッドの上だった。頭に柔らかい枕の感触が当たる。

ようやく、何故さっきシャワーするか聞かれたのか気づいて心臓が跳ねた。

「ま、待って」

ベッドが軋む。先生は俺の上に覆い被さると、遅いよ、と静かに言って唇を重ねてきた。

「せんっ……」

「もう黙って」

再び強く唇を押し当ててきながら、そうだ、と、急に何かを思い出したように呟いた。

「もう、先生はやめない?」

「へ……」

「名前で呼んでよ」

「えっ?ええと、……あきら……?」

初めて口にした慣れない響きに、何故か首を傾げられる。

「違う」

「え?何で」

何か先生が言う。聞き取れずに戸惑っていたら、もう一度、ゆっくりと繰り返してくれた。

「イー……リャン?」

口にして、ようやく先生の名前―英亮の中国語読みだと気がついた。

先生は、くすっと笑った。

「相変わらず下手ですね」

「……うっさいな」

細い指で髪を撫でられ、何度目かのキスに応えた。

緊張で心臓が張り裂けそうになりながら、ゆっくり目を閉じた。

幸せな気持ちに、満たされていた。

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