7.歌声
―亮―
エレベーターの扉が開いたので反射的に降り立ったけれど、思っていたのと景色が違った。どうやら、癖でまた自宅マンションの階を押してしまっていたらしい。
「あれえ、亮じゃん」
声がした方を見ると、Tシャツにスウェット姿の朝陽が歩いて来た。
「今から授業?」
「そう……なんだけれど、また階を間違えた」
「あはは。亮って意外と抜けてるよねえ」
笑われ、少し耳たぶが熱くなる。
「朝陽は、今日もレッスンなの」
「そうそう。もう終わって帰るところ」
手に持った荷物を掲げてみせてくる。
「エレベーター、ちっとも来ないね」
言われて階数表示を見上げる。一度上に行ってしまったきり、なかなか降りてくる気配がない。
「授業遅れちゃうし、階段降りたら?すぐ下でしょ」
「そうだね」
俺も一緒に行こ、と言いながら朝陽もついて来る。
「どう、みんなの上達具合は」
聞かれ、首をひねる。
「呑み込みの早い人もいるけれど、どうしようもないのが二名ほど」
「はは、厳し」
朝陽は笑うが、本当にどうしたものかと頭を悩ませているところだった。
「まあしょうがないよね。中国語勉強するの、皆んな初めてでしょ?」
「いや、一人は見た覚えがあるんだよね。すごい早口で喋る人……」
吊り目気味の目元を思い浮かべる。
「もしかして、うちの大学の学生かな」
「ハルのこと?」
「ああそう、そんな名前」
「確か現役の大学生だよね。亮の授業取ってたんだ!すごい偶然」
「かなり嫌そうな顔で授業聞いてる」
「あはは。亮、厳しいんでしょ」
「それと」
もう一人、と呟く。
「そもそも、やる気がなさそう」
「えー、誰?」
聞かれ、記憶を手繰り寄せる。名前は確か。
「牧野さん、だったかな」
「ああ、碧生?」
「なんか、いつも機嫌悪そうな顔してるんだよね」
無意識にため息がこぼれ出る。
「嫌われてるのかな」
「いや、そんな事ないでしょ」
「どうだか……」
その時、不意に歌声が耳に飛び込んできた。
「……?」
足を止める。見ると、練習室の扉が少し開いていた。声はそこから聞こえてくる。
「お、噂をすれば。碧生の声じゃん」
少しだけ声を潜め、朝陽が言う。
練習室の扉は一部分がガラス張りになっていて、中の様子がわずかに見えた。
フローリングの床にあぐらをかいて座り込み、タブレットを見ながら何か歌っている。
柔らかなトーンで響くその歌声に、僕は聞き覚えがあった。
「ああ、そっか……牧野さんの声だったんだ」
「え?なに?」
「ほら。前に、朝陽の部屋でライブ見たでしょう。その時に、綺麗な声で歌っている人が一人いて」
「ああ、言ってたね。碧生の事だったの?」
「うん……すごく」
「ん?」
「すごく、良い声で歌うんだね」
声は途切れがちで、歌詞も何を言っているのか聞き取れない。けれど、不思議な歌声だった。
頭を優しくなでられているような、心地の良い響き。いつも不機嫌そうな表情ばかり見ているから、上手く印象が結びつかない。
「碧生は、本当に歌が好きなんだよね」
朝陽が微笑む。
「今度、一曲唄ってもらったら?」
「無理。そんな関係性じゃない」
「素っ気ないなあ」
「もう行くよ。授業遅れそう」
「えー、なら碧生もじゃん。声掛けてあげればいいのに」
「知らないよ。それは自分で気づかないと」
「あーほら。厳しいんだから」
茶化してばかりの朝陽は置いて、下の階へ降りる階段へと急いだ。
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