32 身の程

 通路を進んで行くと、やがて本選会場である地上、舞台がある空間に出た。


「わあ……!」


 そこには、先程観客席から見ていたのとは真逆の光景が広がっていた。


 遥か頭上へと伸びていっている観客席は、こちらに覆い被さってくるかのような錯覚を起こすほどの高さだ。目の前には石でできた円形状の舞台があり、現在は運営と思われる屈強な男たちが網の目にロープを張っているところだった。


「一度に何組も同時進行していかないと、ひと月じゃ終わらないからな」

「そっか、そりゃそうですよね」


 舞台の高さは、僕の腰の高さくらいはある。所々に五段の階段がついていた。舞台の周りは芝生の通路になっていて、午前中に出場するらしい選手たちが座ったり寝転んだりして談笑している様子が散見される。王者決定国家武闘会の本選だからもっとピリピリしているんだろうと思っていたのに、あまりにも穏やかな雰囲気に肩透かしを食らった気分だ。


「みんな意外と落ち着いてるんですね」


 ウキョウたちを探しているのか、キョロキョロしていたエンジに話しかける。エンジは相変わらず僕の頭を掴んだまま、和やな表情で頷いた。


「ここまで来る奴は、大抵ある程度は修行をこなし己を律することを学んでいる者だからな。たまにお前に襲いかかったようなただの馬鹿もいるが」

「あー。あの酒場のあの人ですね」


 エンジと出会った時のあの熊男のことだ。そういえば、と気になっていたことを尋ねてみることにする。


「エンジはあの時、あの人の仲間に本戦出場はないと思えって言ってたじゃないですか」

「ん? ああ、言ったな」

「でもしれっと来たら分からないんじゃないですか? 名前も聞いてなかったし」


 すると、エンジがニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。


「俺がひとりで飲みに行く時は、ベニがちょっと離れた場所で待機してるんだよ。ベニを見るとみんな怖がるからな」

「じゃああの時もベニは近くにいたってことですか?」

「そうだ。酒場の屋根にいたぞ」


 そうなんだ!? 全然気付かなかった。確かにあの日はベニに会わなかったなあと思っていたら、そういう理由だったのか……。納得。


「なので、あいつらが酒場から出て行った後、ベニが伸びてる男を仲間から奪っていって、大会本部受付まで持っていったんだ。なんですぐに出場権は剥奪されているぞ」


 持っていった。尻尾に巻き付けて持ち運んだんだな……。何度も持ち運ばれたから知ってる。それにしても、突然魔獣が目の前に現れて攫っていったなんて、仲間の人たちはとんでもなく驚いただろうな。自業自得とはいえ、ちょっと可哀想。


「本選が始まる前までは基本王都の住民と本選出場選手しかいないから、おかしなのを炙り出しやすいんだよ。だからその間は関係者が王都を巡回しているんだ。で、ああいうのを見つけ次第捕らえて本部に連行して、本選出場権を剥奪してるって訳だ」

「あ、じゃあまさかエンジもあの時巡回中だったんですか?」


 だけどこれには、エンジはあっさりと首を横に振った。


「いや。腹が減ったから食べに行っていただけだ」


 悪びれない様子のエンジがおかしくて、思わず頬が緩む。そんな僕を見たエンジも、先程の不機嫌はもうどこへやらで微笑み返してくれた。


 えへへ。エンジの笑顔を見ていると、不思議と穏やかで温かな気持ちになれるんだよな――。


 エンジと過ごすようになってから、僕は前世ぶりに思い出していた。笑顔にも色んな種類があるってことを。


 楽しそうな笑顔、いたずらしていそうな笑顔、悲しそうな笑顔、嬉しそうな笑顔。全部全部、王都に来てからエンジが僕に見せてくれたものだ。


 反対に、僕は未だに、無意識にアルカイックスマイルを浮かべている時があった。心の内を隠す為の仮面だ。気付いた瞬間に慌てて作り笑いを消すけど、その度に忘れたい筈のヘルム王国の記憶が纏わりついている気持ちになって、叫びたくなる。


 だけど僕の隣にいるエンジは、絶対に作り笑いなんてしなかった。感情豊かにくるくると変わるエンジの表情を見ていると、ここはもうストーリーの外なんだ、ヘルム王国は遠くにあるんだって安心できた。それと同時に、ここなら僕も自由に笑っていいんだって思えたんだ。


 だから、特に深く考えず自然に口から出てきてしまった。


「エンジの笑ってる顔、大好きです」

「……ゲホッ!」


 エンジが思い切りむせる。えっ!? な、なんで!?


「ゲホゲホガホ……ッ!」


 激しい咳込み方に心配になった僕は、背中に手を回すとトントンしだす。


「エンジ、大丈夫ですか!?」

「ゲホッ、と、突然何を言い出すかと思ったら……!」


 涙目になったエンジに、軽く睨まれてしまった。


「あ……」


 僕は自分の失敗を悟った。


 僕は思い出していた。出会ったばかりの頃、双子にサンドイッチされている僕を見たエンジが「目出度い奴らだな。好きだの何だのと言い合うのがそんなに楽しいのか? 俺にはよく分からん」と冷え切った声色で言っていたことを。


 ……そっか、だからか。エンジは僕の好意なんて要らなかったんだ。しまったと思ったけど、言ってしまったものはもう取り返せない。泣きたい気持ちになってきてしまった。唇を噛み締めることで、懸命に涙が滲んでくるのを堪える。


 僕は愚かなことに、理想のヒーローを具現化したような存在のエンジから、図々しくも少しばかり好意らしきものを貰えている気になっていた。だけど違ったんだ。経験が少なすぎる僕は、彼の感情の種類を完全に見誤っていたんだ。


 エンジが僕に持っているのは「興味」や「好奇心」であって、好意なんかじゃなかった。僕は大馬鹿者だ。お祖父様みたいな血の繋がりがあったり、フィアみたいな乳姉妹だったりといった切っても切れない繋がりがあったり、双子みたいに僕が頼み込んで友達になってもらっている間柄でもないのに、なに調子に乗ってるんだよ。自分が恥ずかしい。


 あまりに毎日が充実して幸せで、エンジの優しさに甘えていた。反省だ。


 そもそもエンジが僕の面倒を見てくれているのは、『力の腕輪』で増強されたパワーの謎に興味を持ったからだ。そこからミカゲさんが戻るまでの時間、暇潰しとして屋敷に招かれただけ。たまたまベニが僕のことをやたらと気に入っちゃったせいで毎晩一緒に寝る羽目に陥ってるけど、エンジにしてみればこれだって暇潰しのひとつに過ぎないんだから。


 ゼーハー言いながら、エンジが少し怒ったような顔に変わる。


「あのな……っ、俺もお前の笑顔が好きだとでも言ってもらいたいのか? そんな歯の浮くような台詞、俺には――」

「……あはっ、違いますよ! 思ったことを伝えたかっただけですってば! やだなあもうエンジってば!」


 エンジの背中をさすりつつ、笑顔を浮かべた。ちゃんと笑えているかの自信は、ちょっとなかった。エンジの青い瞳が、疑わしそうに細められる。


「他意はありませんから! 相手に見返りを求めても無駄なことは、嫌ってほどよく知ってますもん。だから元々他人には期待してませんし、この先期待もしません。身の程は弁えてるので、安心して下さい!」

「……アーネス?」


 エンジが怪訝そうな顔になった。


「おい……どうした? お前が急にそんな冷めたようなことを言うなんておかしいぞ」


 エンジはできた漢だから、暇潰しでしかない僕のこともこうして心配してくれている。それが申し訳なく思えた。だけど、エンジがこんな僕にも優しいから調子に乗っちゃったところはあると思うんだよね。だからさっきのやっちまったなっていう台詞とで相殺して忘れてくれないかな。


 にっこり笑う。


「やだなあ、いつも言ってるじゃないですか。僕だって大人ですよ? ここに来るまでに、色々ありましたし」

「……どういうことだ? 前に聞いたこと以外でまだ何かあるのか」


 あ、この話題を続けてると、余計なことまで喋ってしまいそうになる。これ以上は口を閉じておかないとだ。


 話を逸らすべく、笑顔をエンジに向けた。


「ウキョウとサキョウを探しましょっか、ね!」

「おい待て。色々ってなんだ」


 何故かエンジが焦ったような顔をしているじゃないか。僕が怒ったとでも思ってるのかな。やっぱりいい人……! でも本当にこれ以上は言えない。お祖父様が来るまではエンジにも黙っていようと双子と決めたことだし、簡単に覆せないから。


「もう過去のことですから! ほら、二人を探しましょってば!」

「気になる。言え」


 どうしよう、エンジが怖い顔をし始めちゃったよ……!


「エンジ、ウキョウとサキョウを――」

「おいアーネス、誤魔化そうとするな!」


 エンジが掴んだままの僕の頭をグイッと上に向けてしまった。エンジの苛立たしげな表情を浮かべた顔が、近付けられる。


 するとその時、僕たちの背後から男が声をかけてきた。


「エンジ、探してたんですよ! 今までどこにいたんですか!?」


 二人揃って振り返ると、開会式であの格好いい応援団のような挨拶をした、銀髪褐色肌のお兄さんが立っていた。エンジに負けず劣らず体格がいいけど、顔はキリリとしたエンジと比べると、柔和で美人って言った方が合ってるかもしれない。


 と、エンジの顔からフッと表情が消えたじゃないか。


「ハル、何か用か」

「えっ? ですから開会式の間どちらに、と……」


 ハルと呼ばれた男の人からは、戸惑った様子が伝わってきた。

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