第33話 力強い救いの手
誰もいない場所でひとり、高い崖から落ちゆく中では無駄だと分かっているのに、それでもルエリアは願ってしまった――勇者に、ギルヴェクス・マグナセニアに助けて欲しい、と。
今さら崖の上から救いの手が差し伸べられたところで届きはしない。もはや何を祈っても無駄なのだと、視界の端を高速で流れゆく崖の岩肌や、激しくはためくスカートの音に思い知らされる。
絶望感が、今にも胸を押しつぶそうとする。
恐怖が極限にまで達し、意識が遠のいていく。
自然と目が閉じていく。
世界に別れを告げようとした、その瞬間。
「――ルエリア!」
名を呼ぶ声と共に手首をぐいと強く引っぱられた。ルエリアが目を開くと、そこにはギルヴェクスがいた。真剣な顔をしてルエリアを引き寄せて、安心させるかのようにぎゅっと抱き締める。
「ギルヴェクス様……!?」
頭を抱き寄せられて硬い胸板に顔をうずめさせられ、腰を抱き寄せられて胸や腹が密着する。その力強さに、怯えてすくみあがっていた心が安堵と歓喜に打ち震える。
ギルヴェクスの服にぎゅっとしがみつくだけで、恐怖が少しだけ和らいだ気がした。その直後。
がさがさがさっ――、と森の木々を掻き分ける音に包み込まれた。しかし体には何も触れる感触がなかった。
(あれ? どこも痛くない)
地面に激突することもなく、ルエリアはギルヴェクスに抱き締められた状態でふわりと地面に着地した。風魔法を体の周りに発生させて、クッションにしているようだった。
魔法の風が、ふっと消え去る。魔法で浮いていた分だけ地面にすとんと落下し、その拍子にギルヴェクスは仰向けに転がってしまった。
抱き締められていたルエリアは、ギルヴェクスの体の上に覆い被さる形となった。
「わわわわ」
抱擁を振り払って飛び起きて、慌ててギルヴェクスの腹の上から飛びのいて地面に座り込む。
「す、すみませんギルヴェクス様! お助けくださって本当にありがとうございます! 魔法、また使えるようになったのですね!」
「ああ。ヘレナロニカと剣の鍛錬をしたときに、魔法の発動も確認していたんだ」
「それにしてもギルヴェクス様、どうしてこんなところに?」
ギルヴェクスが無言で起き上がる。同じ高さに来た目と視線を合わせた途端、ルエリアは自分の目元が濡れていることに気づいた。
濃い空色の瞳が、じっと探るような眼差しでルエリアの顔を見る。
「あはは、落ちるのが怖くてちょっと涙が出ちゃいました」
ルエリアは咄嗟に顔を逸らして涙を拭うと、ごまかし笑いをしてみせた。
まだ腰を下ろしたままのギルヴェクスの前で立ち上がり、スカートを払ってから、ぐいと首を逸らして上を見上げる。
先ほどまで花を摘んでいた場所は、目を凝らさなければ分からないほど遥か高い場所にあった。
随分と高い所から落ちたことを実感すれば、助けてもらえなかった場合の未来をつい想像してしまう。恐ろしい光景を思い浮かべてしまい、ルエリアは自分を抱き締めるように二の腕をつかむと小さく震えあがった。
改めて恐怖に襲われて固まっていると、呼び声に引き戻された。
「ルエリア。聞いてくれ」
「え?」
どこを見るともなく視線を投げていたルエリアは、声の方に振り向いた。
すると、なぜかギルヴェクスは膝を突き、胸に手を当ててルエリアを見上げていた。その瞳は切実な光を宿している。
まるでプロポーズめいた姿勢をするギルヴェクスを見て、ルエリアは動揺せずにはいられなかった。
「わわわギルヴェクス様!? どどどどうされました!?」
「君に、まだ伝えていないことがある」
(ぎゃーっ! わーっ! どっどどどうしよう! こんなときなんて答えたらいいの!?)
頭の中に、教会の鐘の音が響き渡る。純白のドレスを着た自分まで思い浮かべてしまう。
今までルエリアは、色恋にまったく縁がなく興味もなかった。いきなり恋愛関係をすっ飛ばして結婚に至るという事態に大混乱してしまう。
(高貴な人ってこういうものなのかな? 多少気に入ればとりあえず縁を結んで手元にキープするとかそういうこと? これから奥さんにあたる人を何人も増やしていくから、平民をひとりくらい入れておくかって感じなのかな?)
これ以上ないというくらい頬が燃えあがる。全身から汗が噴き出す。
他の奥さんと仲良くやっていけるのかな?なんてことまで心配しながら、熱くなった頬を押さえて目を泳がせる。
動揺するルエリアを見て、ギルヴェクスは一瞬だけ微笑むように口元を引き締めると、唇を薄く開いて息を吸い込んだ。
「君に……詫びなければならないことがあるんだ」
「あっ。お詫び。ですか?」
(うわあプロポーズかと思っちゃってすみませんギルヴェクス様……! そんなわけなかったー!)
勘違いした自分が恥ずかしくなって、ルエリアは両手で顔を覆って肩をすくめた。
と同時に、詫びるべきことなどあったかなと思い巡らす。『名声を得ようとしているのか』と、そう暴言を吐かれたことに関してはすでに謝罪してくれた。謝るほどのことではないのにと、恐縮した覚えがある。
姿勢を低くしたままのギルヴェクスが、快晴の空の色をした瞳でルエリアをじっと見上げる。
「初めて君と出会ったとき、君を怒鳴りつけてしまった」
「ああはい、そういえばそうでしたね。でもあのときは、私が自己アピールしようとして、ばーっとまくしたてちゃったから……」
「いや、君のせいではないんだ。理由を説明させて欲しい」
そこまで言って、ギルヴェクスが目を伏せた。空色の瞳が長い睫毛に隠れていく。
「……僕の仲間のひとり、盾騎士のウェグート・ドラセニクルが、目新しいものにすぐに飛びつく
思い出に浸る目をして、顔を綻ばせる。
「……確かに、噂になるくらいの効き目だと、そう思った。本当に効くんだろうかなどと疑ってる間に眠ってしまっていたし、魔族の気配を感じればすぐに覚醒できるし……。まさに冒険者のことを考えて作られた薬だと、皆、とても感心していた」
空に雲が立ち込めるかのように、その瞳に涙がにじみ出す。
「本当は、ヘレナロニカが初めて君の魔法薬を持ってきたときから、あのときに飲んだ薬と同じ物だって気づいていた。飲むたびに仲間を思い出すのは苦しかったけど、その苦しみも、眠りの世界に落ちてしまえば感じずに済んだから……あの魔法薬に縋らずにはいられなくなった。でも、君が君の魔法薬のことを話しはじめたときに、仲間との会話をありありと思い出してしまって、苦しくなって激高してしまったんだ。本当にすまない。僕も、君の開発した魔法薬は、初めて飲んだときからずっと、素晴らしいと思っていた」
「あ……、ありがとうございます……!」
(これを言うためにわざわざ追いかけてきてくれたんだ。律儀だなあ。すごくまじめな人なんだな、ギルヴェクス様って)
勇者の誠実さに、感動を覚えずにはいられない。
腹の底から息を吐き出し、喜びに胸を躍らせる。
そうしてしばらく温かな気持ちに浸るうちに、ふとギルヴェクスがいつまでもルエリアの前で膝を突いたままでいることに気づいた。
その構えは、プロポーズのために取った姿勢ではなかった。とはいえ
「ギルヴェクス様、お立ちください! こんなところをヘレナロニカ殿下に見られたら怒られちゃいますよ!?」
「なぜヘレナロニカが? まさか、怒りやしないさ」
(ええ~怒られないの? お姫様が相手なのに二股しても許されるってこと!? 勇者だから!? ヘレナロニカ殿下がかわいそうじゃない? でもそういうものなのかな……)
一般人の常識には当てはまらない、高貴な人たちなりの常識みたいなものがあるのかも知れない――。理解できない感覚に、ルエリアは唖然とせずにはいられなかった。
ルエリアを見て、くすっと笑い声をこぼしたギルヴェクスがようやく立ち上がる。
膝に付いた草を払うのと、馬のいななきが聞こえてきたのはほぼ同時だった。
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