二十話 火ノ竜


「……ち。苦戦してるな」


 焔が立ち上がり、簀子すのこ縁に出て外の様子を窺う。

 空模様は、さきほどまで明るかったのが嘘のように、いつの間にか暗雲が立ち込めている。


「あの、悪鬼討伐の令ということは、悪鬼が出たということでしょうか」


 動揺を呑み込むように問う琴乃に、焔はあえて軽く返す。


「ああ」

「なぜ、そのようなものが……」

 

 琴乃の言葉を耳だけで聞く焔は、空を見つめたまま溜息を吐く。


「恨みは、なくならない。だから俺がいる」

「それは、どういう……」

「今は話している時間がなさそうだ」

「後で、お聞かせください。約束ですよ」

「ふ。分かったから、怖い顔をするな」


 外の空気がどんどん重たくなっていく。背中が粟立つぐらいの寒気が、琴乃を襲う。


 すると、おもむろに焔が振り返って人差し指と中指を立て、琴乃のいる辺りを囲むように、空中で円を描いた。


「結界を作った。そこからなるべく動くなよ」


 焔が珍しく真剣な様子で警戒しているので、琴乃は素直に頷く。

 

「焔様……わたくしにできることは」


 巫女ならば、竜皇の助けになれないのだろうか。

 琴乃のそんな気持ちは、竜人である焔へ届くとは限らないが、尋ねずにはいられなかった。


「俺を信じろ」

「はいっ」


 焔は赤い目を瞬かせてから、再度庭へと目をやる。


「厄介だな。ここまで来るか」

「え?」


 首を傾げる琴乃の耳に、誰かが叫ぶ声が遠くから聞こえてきた。

 あっという間にその声はすぐそこまで近づき、同時に、何かが腐ったような臭いが鼻についた。


「……哀れよな」

「ひ!」


 開け放たれた格子こうしの向こう、玉砂利の敷かれた庭に、何かが立っている。

 

 黒い、と思ったのは、乱れた長い髪の毛がそれの全身を覆っているからだ。

 袖の破れた薄い単衣、適当に縛られた帯、はだけた裾。


 ――女だ。


 髪の毛と胸の膨らみから、琴乃はそう思った。

 だが、人ではない。

 

 額からは黒い、細く尖った角が二本生え、宙を掴むように前へ出された手の爪は、黒くて長い。口角からは鋭い牙がのぞいている。

 

「女の鬼は、厄介だ。執念深いからな」


 淡々と言う焔の背中を、琴乃は見つめる。


「女の……鬼……」


 初めて見る怪異に、琴乃は恐ろしさで身を震わせた。あちらこちらから、「昼御座ひのおましにいるぞ!」「陛下!」と声が聞こえる。


「あああ、恨む、恨むぞ……」


 鬼が、突然喋り出した。甲高く、怖気おぞけのする声だ。


「ふうん? おまえ、成ったばかりだな」


 焔が手で何かの印を作りながら相対すると、鬼はぐるるると喉を鳴らす。白目まで黒く染まった代わりに、黒目の方が白い。ぎろりと刺すような視線が、焔を射抜いている。


「陛下!」


 すると、部下を数名引き連れた陰陽師の阿萬あまんが庭の端に姿を現した。肩で息をしている。

 途端に焔が忌々しげに

「失態だな」

 と毒を吐くかのように言う。

 

 阿萬は、いつもの飄々ひょうひょうとした余裕のある態度ではなく、緊迫した声で答えた。


「説教は後で。これほどの外法げほう、油断めされるな」

「わかってる。おい、貴様の恨みは、なんだ」


 阿萬がお札を手に構え持ち、何かの呪文を唱えはじめるのを見ながら、焔は鬼に話しかけた。


「しょう、しょう」


 何かを言っているが、牙の隙間から漏れる息しか、聞こえない。


「あ?」

「しょう、しょう」

「成ったばかりでもう喋れないかよ……まさしく外法だな」

「陛下! 整いまして!」

「おう」


 パキパキと焔の頭上の角が太くなる。

 と――


 ごおおと音を立て、真っ赤な炎が鬼を包むようにして、庭の地面から噴き上がった。


「せめて、苦しめずに浄化してやる」


 周辺の地面には、紫に光る何らかの陣が浮き出て、阿萬が宙にお札を掲げつつ、途切れることなく何かを唱えている。


「しょう、しょう!」


 ところが、鬼は笑いながら空中へ身を躍らせ、同時に、長く黒い爪で空を引っ掻くようにする。焔の数歩先に降り立ったと同時に、焔の頬からは血がぶしゃっと散った。


「焔様!」

「ちっ」


 鬼の長い黒髪が舞い上がり、その顔をあらわにした時、琴乃に衝撃が走った。


「その、目はまさか……春姫様⁉︎」


 鬼の目は、檜扇ひおうぎ越しに睨まれた目に、よく似ていた。


「しょう、しょう!」


 琴乃の声に激昂げきこうした様子の鬼が、焔の脇を素早くすり抜け、室内にいる琴乃を襲う。


 ギン!


 琴乃が恐ろしさのあまり目をつぶると、鈍い音が鳴り響いた。


「……⁉︎」

 

 恐る恐るまぶたを開けば、真っ先に水色のころもが目に入る。


「あっ!」


 逆手に構えた刀で鬼の爪を受け止めた充輝が、琴乃の前に立ち塞がるようにして、守っていた。


「させるか、鬼」 

 

 不敵に言いながら、充輝は力で押し返す。

 

「しょう、しょう!」


 ところが鬼は、全身で喜んでいるかのように飛び跳ね、さらに力を増し、充輝に覆い被さっていく。


「ぐ! 馬鹿力め……」


 押され気味の充輝の背後で、琴乃ははたと気づく。

 

「少将! 少将と言っているのね⁉︎」

「ちい。右大臣の娘の恋慕れんぼこじれさせたか。失態だなあ充輝」


 唸るような焔の言に、充輝は

「お詫びのしようも、ございませんっ」

 鬼の猛攻に耐えつつ謝罪する。


「となると、とんでもねえ穢れだ。竜語の血脈をにえにしたんだ。俺が直に祓うしかないだろう」

「いけません!」

「何かあった時の暫定の竜皇は、慈雨に任せる」

「焔様! どうか! おやめください!」


 必死に止める充輝を無視して、焔は

「こいつはまだ成ったばかりだ。戻れるだろ」

 と琴乃が驚くほど、優しい声を発した。


「焔、さま?」

「あー、琴。もし俺が暴走したら……俺の――で止めろ。火の巫女たるおまえなら、大丈夫だ」


(俺の、何⁉︎)


 焦る琴乃に向かって、焔は笑う。


「こいつを放置したら、国中に穢れが広がる。俺の存在より、世の障りを滅する方が大事だ。もし俺が消滅しても、次代の火ノ竜は、そのうち天上が産むから案ずるな」

「なにを」

「俺を選んでくれて、感謝している」


 言い終わるや否や、めきめきと音を立てて、焔が姿形を変えていく。

 赤い鱗が肌を覆っていき、黒い翼が背に生える。口角からは息と共にメラメラと赤い炎が漏れる、まさしく火ノ竜人だ。

 

「ぐ」


 鬼の力に押された充輝がついに片膝を折ると、焔が鬼の背後から肩に手を掛け、たちまち鬼の体を庭へ向かってぎ払った。


「ぐぎゃっ」


 なにかが潰れたような声を発しながら、鬼は地面に叩きつけられた。

 阿萬とその部下たちが、姿勢を崩さず一心不乱に真言を唱える中、倒れた鬼はケタケタと笑いながら上体を起こす。切れた唇から血を流しながら、牙を剥き出しにして「しょう、しょう」と呼んでいる。


「哀れだな」

 

 じゃり、と庭に降り立った焔が鬼へ手のひらを向ける。


「今、祓ってやる――浄」


 手のひらから放たれた赤い炎が鬼を覆っていくものの、

「ぐぎゃぎゃ」

 さもおかしそうに笑う鬼は、炎の中で踊るように身悶えるだけだ。


「充輝、姿を隠せ! おまえがいたら……」


 焔が背後を振り返ったその瞬間、

「隙あり!」

 とが叫んだ。


「ああ⁉︎」


 陰陽師たちが、驚く焔を取り囲み、より一層高い声で真言を唱える。


「阿萬、貴様……!」

「おやあ、竜皇陛下ともあろうお方が。この程度で動けなくなりますかあ」


 充輝が琴乃を背に庇いながら、「裏切ったか!」と鋭く声を発すると、阿萬は愉快そうにハッハッハと高笑う。


「さあてね」

「春姫を操っていたのは、弓削ではなかった……!」


 充輝の悲壮な声を聞いた琴乃は、焔の膝から力が抜ける様を見ても、動揺で体が動かない。


「ちい。どうりで、ことが、あっという間に」

「ええ、陛下。方位たがえの術で巫女の力を削ぎ、火ノ竜の信を得て穢れを与え、隙を作らせる。大変でしたよぉ」


 地面では強力な紫の光を発しながら、何かの陣が発動しはじめているのが、琴乃の目にも分かった。


「ほむらさまっ!」


 悲鳴のような声を上げることしかできない自分に、琴乃は歯噛みしつつ、何かできることはないかと必死に考えはじめた。

 


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 お読みいただき、ありがとうございました。


 九話と十九話であえて陰陽師の名前を書かなかったのは、弓削と見せかけて阿萬だったからです。

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