【アップ】2023年11月19日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2023年11月19日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/SmY_GL2-DX8?app=desktop&feature=share


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12830068277.html



前 奏

招 詞 イザヤ書63章15,16節

頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問62

「一番目のいましめ」

こどもさんびか ほめうたうたえ[改43(3節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 294番

聖書

使徒言行録18章18~23節(新約P250)

サムエル記下15章24~29節 (旧約P505)

説 教

「旅の終わりに~神の御心を求めつつ」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 365番

みことばの交読文

詩編22編28~31節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


みめぐみゆたけき~讃美歌294番~

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=WFZBClhK1tE


1

みめぐみゆたけき 主の手にひかれて

この世の旅路を あゆむぞうれしき

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

2

さびしき野べにも にぎわう里にも

主ともにいまして われをぞみちびく

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

3

けわしき山路も おぐらき谷間も

主の手にすがりて やすけくすぎまし

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

4

世の旅はてなば 死のかわなみをも

恐れずこえゆかん みたすけたのみて

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ


讃美歌365「わがしゅいえすよ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=oofHHziqnMI


わが主イエスよ 愛の御手に

身もたまをも ゆだねまつり

禍(まが)に幸(さち)に われ言わまし

主よ みこころ なさせたまえ

うれいの雲 胸をとざし

涙の雨 そでにかかり

わがのぞみは 消えゆくとも

主よ みこころ なさせたまえ

はかなき世を わたる時も

あまつ家に のぼる日にも

ただみむねに まかせまつらん

主よ みこころ なさせたまえ

アーメン



2023年11月19日 礼拝説教 中心聖句



パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。

使徒言行録18章20,21節



「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださる」

サムエル記下15章25節



はじめに

主の御心を求めること、過去、今日、生涯、そして、終わりの日に、共に。

「パウロは、なおしばらくの間(多くの日数)ここに滞在した」とは、主の幻のとおりに、コリントにとどまって宣教を続けたことを証しする(18章9節)。総督ガリオンの裁定が、「一年六か月」(18章11節)の滞在のいつ頃であったかは定かではない。仮に、地中海の航海の終わる前の9月に出発したとすれば、在任期間(A.D.51.7.1-52.6.30)の後、もしくは初期、二、三ヶ月後。いずれにしても、パウロは、主の御心の時に、「やがて(コリントの)兄弟たちに別れを告げ、船でシリア州で旅立った」。「プリスキラ(プリスカ)とアキラも同行した」(18章1節)。パウロは、後のコリント教会への手紙で「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者としてくださいます」(コリント一1章4,7節)と伝えた。当時、ユダヤ人たちは、とくにアッシリア強制連行とバビロン捕囚等以降、捕囚からの帰還民もいながら、多くの者たちは、世界の各地に住み、安息日と律法遵守を重んじた。その中、エルサレム巡礼者もいたが、多くは各地における生活に慣れ、ユダヤに再び集められる希望は薄まっていた。パウロたちの伝道旅行は、教会設立と成長にとどまらず、真の希望を証しした。

「パウロは誓願を立てていた」とは、パウロが、「特別の誓願を立て、主に献身する」、ナザレ人(ささげられた者、聖別された者)として聖別したことを証しする。民数記6章に基づいて詳細な規定があり、誓願の期間、ぶどう酒も濃い強い酒も断ち、主に献身している期間が満ちるまで、髪は長く伸ばしておく、主に献身している期間中、死体に近づいてならない、等を守った。つまり、「ケンクレアイで髪を切った」とは、誓約期間の終了、「献身のしるし」(民数記6章18節)。パウロは、これから向かう、アンティオキアとエルサレムのユダヤ人たちに対して、聖別の意志を表した(コリント一9章20節)。あるいは、コリント滞在が、主によって守られたことを感謝して、誓約期間をささげた。パウロは、主の召命によって、全生涯を主にささげながら、特別の意志と誠実に表した。

「一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して」とは、プリスキラとアキラは、ローマ、コリント、エフェソに仕事の拠点があり、多分、ここで旅を終えた。パウロは、「自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合」い、聖書から、イエスの十字架と復活において、キリストはイエスであることを論証した。「人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻ってきます』と言って別れを告げ、エフェソから船出し」「カイサリアに到着し」「教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った」。パウロが常に求めたもとは、「神の御心」であり、「御心を行い」その実現(終末の希望)を望んだ。

おわりに

都を追われたダビデは、神の箱を担いてきた者たちに「都に戻す」ように命じた。主の御心は、都エルサレムに戻るか、王を退くか。謙遜に、御心を求めたい。



(Mynote)


二〇二三年一一月一九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問六二』

「第一戒は何ですか?」

「あなたは、私を於いて他に神があっては成らない」です。

神様はエジプトの地から奴隷を導き出された。モーセの時であり、神様はモーセを守られ、あの海の別れた道を人々は進み、追って来たエジプト人をその海に飲まれた。この箇所を引用された。常に人々を守る唯一の神様の事を覚え褒め称える事、この事を忘れては成らない。

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第一八章一八〜二三節)

『サムエル記』(第一五章二四〜二九節)

この箇所も先週から続き、パウロが伝道活動を続けてその地に留まり、それからその地を去る時までの事が描かれて居る。

パウロはユダヤ人達に捕らえられ、ガリオンの元に連れて行かれて処罰を科され掛けたが許された後、その後しばらくその地に留まり、それからシリアへ向けて出発する事になる。これにプリスキラとアクラ(アキラ)も同行した。パウロはそれまで留まり続けて居たコリント地方の人々の信仰を信じ、その場を後にした事になる。そしてパウロは或る誓願を立てて居たので、ケンクレヤと言う所で頭(髪の毛)を剃った。そしてエペソへ着くと、パウロは二人(プリスキラとアクラ)をそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人達と論じ合った。それを聴いたユダヤ人達は「もっとパウロにここへ留まる様に」と願い出たが、パウロはこれを断り、

「神の御心なら、又あなた方の所に帰って来よう」

と言って、別れを告げ、エペソから船出した。それからカイザリアに上陸した後エルサレムに上り、教会に挨拶してから、アンテオケに下って行った。そしてそこに暫く居てから、彼はまた出掛け、ガリラヤ及びフルギヤ地方を歴訪して、全ての弟子達を力付けた。

我々は神様に依りその地に生まれ、留まり、また出掛けて行って、全てはその神様の御心に沿って行動し、その全ては福音の為に動くものに成る。これはクリスチャンの行動と成り、その上で救われた異邦人の行動とも成り、神様の御心に沿って行動する上では皆、その行動原理に伴うものと成る。神様の御計画は人に知られる事なく、時に「なぜ自分がここに居なければ成らないのか?」「留まらねば成らないのか?」又「新たにそこへ向かわねば成らないのか?」と疑問に思う事がある。人間が人間の思惑だけでそれを思う時、必ず未知により困惑し迷い、神様が自分に与えられて居るその仕事(私事)に気付く事なく(知る事なく)、その迷いに延々彷徨う事になる。これを解決する上で自分の存在意義を問い、その意味(目的)を知る為・教えられる為には先ず信仰に依り、神様に一対一で教えを乞い、その事を世の中の常識・人の常識を捨てて本気でせねば成らない。全身全霊を懸けて神様に教えを乞い祈り願い求め、信仰に沿って生きる事(生かされる事)が最大の大事にも成る。この信仰に依らず神様を知ろうとしなければ、人は延々迷い、希望(目的)を失い、自分の虚しさを知る様になり、時に自分の終わりに近付くにつれ、その虚しさと絶望は更に大きくなる。この虚しさと絶望は、生来、人の留まる処ではない。神様はその人を愛されて創られて居り、全ての人は神様から生まれて居るのだからその神様の下(もと)へ帰り、その上で「自分が何故ここへ生まれ留まるのか?」を知り、その時からの行動基準を知る事で、その虚しさと絶望から逃れる事が出来る。これも信仰に於いて、そう成る事を信じるか否かである。信仰とは「信じる事」に尽き、その上で知る程に信じる境地に辿り着き、救いを得る事が出来る。だからパウロをそこに留めようとした者達は、その場での栄華と楽しさを求めたが、福音伝道の為には別の場所を訪れねば成らず、今の人の目前に置かれた楽に縋る事なく、神様が示された次の土地へどんどん渡って行った。

「恐れるな。語り続けよ、黙って居るな。あなたには、私が付いて居る。誰もあなたを襲って、危害を加える様な事は無い。この町には、私の民が大勢居る」

神様が幻の内にパウロに現したこの御言葉に従い、パウロはその事を信じて福音を続けた事になる。また他の町へ行けば捕えられる可能性もパウロにはあったので(この直前に起きた二度の《パウロの》逮捕劇・連行劇を踏まえ)、その事にも配慮した上で周りの人達はパウロに「もう少しここに留まる事」を勧めた。その様にも取れる。しかしパウロは、

「神の御心なら、又あなた方の所に帰って来よう」

と諭し、この「神の御心」がいつどこでも自分を支配し動かし、全てが神様の御計画通りに成る事を確信して皆に教えて居る。これがまた福音宣教の本質の在り方にあろう。サウルとサムエルのやり取り・交流にも、神様が人に定めた律法と、信仰に依る愛の基準とそれを捨てた者への戒めが記されてある。これは厳しいものに見えるが「私の他に何者をも神としては成らない」と言う十戒の御言葉通り、その神様に背く心を持った儘で信仰に献身する事は出来ず、時にその献身はその世の栄華を捨て、二神を捨てて一神を信じる心を持つ上、その信仰への姿勢を崩さない事に救いが在ると教える。これは現代人にも強く戒められる事に在り、この事に人が漸く気付き、自分の何足るかを思い知るのは最期の時、人知れず時、苦境に落ちた時などであろうか。傲慢に在る時、人は神様を軽んじる。この事を自ら戒める為に信仰に寄り縋り、神様の前で全身全霊を以て悔い改めねば、神様が人に本来・生来与えられた恵みと救いに至る事は無い。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


「聖霊は、今日もあなたに豊かに注がれている」

THE DAILY with Arthur Hollands 2023/11/25

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=lF48kQPugKI


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)




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