5.――「もしもし」
ひったくり事件から三週間が経過した。
私の記憶は一向に戻らない。
そのことがなんとなく悪いことであるように思えて、私は徐々に人との交流を減らしていった。学校も休みがちである。
侑誠さんは根気強く私に付き合ってくれているが、それだって記憶が戻ることを前提にしているのだろうと思うと、罪悪感が湧いて仕方がない。
「……はあ……」
ため息を吐いて、自室の天井をぼんやり眺める。
今日も学校を休んでしまった。記憶がない以外は健康そのものだから、罪悪感はさらに降り積もっていく。
気晴らしになにかしよう、と思い身体を起こした私の視界に、ふと、本棚の隅に入れられているアルバムが入ってきた。
アルバムを見れば、なにか記憶を取り戻すきっかけになるだろうか。
僅かな希望を胸に、私はそのうちの一冊を取り出し、広げてみる。
それは、小学生の頃のスナップアルバムだった。
一人っ子の私は、当然ながら一人で写っていることが多い。しかし度々、侑誠さんと思われる男の子が隣に居た。二人とも、楽しそうに笑っている。これを撮ったであろう私の両親は、写真の腕があるな、なんて思った。この頃は、もう婚約者関係にあったのだろうか。そういえば、いつこういう関係になったのか、聞いていないな。
しかし、楽しげな写真は、その最初の数冊だけだった。
中学生にもなると、侑誠さんの姿は嘘のようになくなっていた。
私と、両親。そればかりになった。
部活が忙しくて、会う頻度が減った?
だから、定期的に交流を持つことになった?
それは、どちらから持ちかけて始まったことなのだろう。
ぐるぐるとあれこれ考えていた、そのときだった。
「わっ」
スマホが鳴ったのである。
電話だ。
発信者は、櫨原侑誠と表示されている。
いつの間にか、放課後の時間帯になっていたようだ。どうやら、学校が終わってすぐに電話をかけてきてくれたらしい。
少しの逡巡の末、私は受話器を上げる。
「もしもし」
「も、もしもし、流華? 今、電話しても大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
これまでスマホを使った侑誠さんとの交流は、全てメッセージのみだった。だから電話口に聞こえてくる彼の声はなんだか新鮮なように感じられた。
「体調はどうだ?」
「大丈夫です」
「大丈夫っていうのは……いや、うん、それなら良いんだ」
侑誠さんはなにか言葉を呑み込むようにしてから、続ける。
「その、体調が悪いようなら、今度のお茶会は延期にしたほうが良いかと思ったんだけど。大丈夫そうなら、問題ないな?」
「そ、そうですね」
お茶会。
実は昨日、電話帳登録済の喫茶店から電話があったのだ。
用件は、「毎月二名様のご予約をいただいてますけど、今月はどうされますか?」というものだった。
記憶を失う前に習慣にしていたことなら、と今月の予約を入れたのだけれど、どうやら相手は侑誠さんだったらしい。これも婚約者としての定期的な交流のひとつなのだろう。
「それじゃあ今度の土曜日、家まで迎えに行くから。準備して待っててくれな」
「は、はい」
「……それと」
侑誠さんは、少し躊躇うような間を置いてから、言う。
「僕相手に無理なんてしなくて良いからな。お大事に」
そうして、通話は終了した。
最後の言葉は、とても優しい声音で。
それはしばらく私の耳に残り続けていた。
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