黒と白が融ける頃
@sora_skyblue
唯一無二のコンビ
俺は、今日からアイドルになる。
「父さん、母さん、俺アイドルになろうと思うん……ッ!!」
「そんなくだらない夢を考える暇があるなら、これでも読んでろ!!」
父と母に夢を語った六月の頭。梅雨に入り、フロントガラスを水滴が叩く車の中で、窓の外を眺めながら、ほんの一時間前のことを思い出す。
ただ、アイドルになりたいと言っただけだ。それが険しい道なのはわかってる。分かっているけれど……夢を言い終わるより先に、腹に激痛が走った。足元には分厚い参考書。それが母によって自身の腹に叩きつけられたことを理解するのに、さほど時間は要らなかった。
そして俺は家を飛び出した。傘を持って、とにかく遠くへと走り続けた。
公衆電話に駆け込み、十円を入れて、俺をアイドルにスカウトしてくれたプロデューサーの連絡先が書かれたメモを元に、電話をかける。
何も聞くことなく、二つ返事で迎えに来てくれると言ってくれたプロデューサーを、公衆電話の中で待つ。数分ほどで、白い車が自分の目の前に止まり、中から見覚えのある人物が出てくる。プロデューサーだ。すぐに車の助手席に乗り込み、シートベルトをしめると、車が発進する。
アイドルになりたいと、夢を語ったこと。それが無謀なのは最初からわかってた。物心ついた頃から、勉強以外はさせて貰えなかった。夢を持つなと、数字が全てだと、完璧でいろと。全ては、両親のための上質なアクセサリーになるため。両親を『優秀な子供を持つ素晴らしい親』にするため。うんざりだった。逃げたかった。でも、逃げたくても、子供だった俺は両親に束縛され、逃げることを許されなかった。逃げようとする素振りを見せれば、服で隠れる腹部や背中を殴られたり、タバコの火を押し付けられたり、たまにライターで直に炙られる日すらあった。
周りに助けを求めようとしても、外ズラと嘘だけは完璧な両親は、その周囲の人間すらも言いくるめた。
十二歳の頃、警察に駆け込んだ時でさえ……
◇
「助けてください!!!」
「どうされましたか?」
「親に虐待を受けているんです」
そう言って警察に自身の腹部の痣を見せた。そのまま上手く行けば、きっと逃げられた。しかし、
「湊!」
自身の名前が背後で叫ばれた。甲高い、母親の声で。
『ソウ』この二音がその甲高い声で発せられた瞬間、反射的に身体が強ばる。
「母……さん」
振り返り、母の顔を確認するより先に、その腕が自身を包む。その胸に自身の顔が埋められる。人と触れているはずなのに、血の気が引いて、冷や汗が垂れているせいか、寒気が増す。
心音で分かる。腕に込められた力加減でわかる。これは、怒っている。
「ごめんね、私が目を離したばっかりに……!!」
口だけの謝罪だ。人前でしか言わない上っ面だけの。
「あぁ、こんなに傷をつけて……あなた痩せこけてるじゃない!!いじめを受けていたんでしょ?ごめんね、ごめんね……」
「ちが、これは父さんと母さんが……」
「そうよね、気づかなかった私達のせいよね……ごめんなさい……」
俺の言葉に被せるように、母親が言葉を発する。俺の声はことごとくかき消される。
「……まだ子供ですし、少し言葉を間違えただけですかね」
「え、違います!!」
「お騒がせして申し訳ありません……今日はもう遅いですし、この子のケアもあるので、帰りますね」
その母親の言葉を最後に、俺は肩を抱かれ、家に連れてかれた。
その後は地獄だった。ただでさえ家でのストレスで拒食症だったのに、生ゴミや腐敗した食材を口に無理やりねじ込まれ、余計に食事への抵抗ができた。
みぞおちに思い切り蹴りを入れられ、息ができないぐらいに苦しくなり、太ももに酒をこぼされ、そこに火をつけられ、酷い火傷を負わされた。
あぁ、少し考えればわかったことだ。スマホにGPSが仕掛けられてることくらい、なぜ持って行ってしまったのだろう。友人へ連絡するためだなんて、愚かすぎる。そんなの、後でいいのに。
警察は虐待ではなく、学校でのいじめを考えて調査をしたが、これといった手がかりはあるわけなく、早々に調査は切り上げられた。
◇
無意識のうちに、火傷した左の太ももを触る。今でも僅かに焼け跡があると言えど、ほぼ元通りになって大部分は治っている。
「大丈夫かい?」
隣の運転席から、プロデューサーの声が聞こえる。頷くことも、首を振ることもしなかった。トラウマが拭えた訳では無い。だけど、いまいるこの車内が安心することだけはわかる。
少しして、これから所属する予定のアイドル事務所の前に着く。車を駐車場に停めるから、と先に下ろされ、玄関を開けて屋内の廊下で待機する。
その後すぐに、車を停め終えたプロデューサーが玄関の戸を開けた。
手を引かれ、ある部屋の扉の前まで立たされる。部屋の中からは人の気配、おそらく、既存メンバーのものだろう。話は聞いている。俺がスカウトされたアイドルグループ「Nova」は、グループと言っても、作られたばかりで、既存メンバーはたった一人。
プロデューサーに促され、部屋の扉を開ける。
「今日から新しくNovaの一員になる子だ。ほら、挨拶して」
「伊集院、湊です」
「どうも」
指示されるままに名を名乗る。「いじゅういん みなと」それは自身の本名ではない。家の近くの人間などの、昔から自身のことを知っている人たちに、アイドルをやっていることを知られないために、偽の名を作り、そちらの名で活動することにしたのだ。
自己紹介の後に軽く会釈をすると、その自己紹介に短く反応した部屋の先客が目に入る。
長い髪も、肌も、瞳も、何もかもが真っ白で、体格も華奢な、まるで、病人のような青年。
「……あんた、そんな身体してるけど大丈夫なのか?飯とかまともに食えてんの?」
自身の口から出た言葉は、少々乱暴な心配の言葉。敬語を使うほどの頭と心の余裕はなく、何よりも目の前の彼の体調が心配だった。
「……斎雨 涼です。プロデューサー、私はこんなにも教養のない子を連れて来るなんて一言も聞いていないのですが?」
今日はNovaに新メンバーが加わると聞き、一応既存メンバーとして、顔ぐらいは合わせるべきだろうと、私は事務所の一室で足を組んで本を読み待機していた。
内心、非常識なやつなら本の角で殴ってやるなんて実際やりもしないことを思いながら。
ガチャ、とドアが開く音が聞こえる。そちらを静かに見やると、背丈の高い、真っ黒な髪と鋭い青緑の瞳を持つ青年の姿が目に入る。
ふーん、こいつが新メンバー、ね。なんて、静かに伊集院と名乗るその新人の自己紹介を聞けば、短くどうも、なんて返す。そこまではなんともなかったが、その後彼の口から出た言葉には、少しばかり心に引っかかるものがあった。(そんな身体……?飯がまともに食えてるか?初対面のやつにこんなことを言われる筋合いがあるのか?)
初対面で敬語は使わない、しかも踏み込んだことを聞いてくるその失礼な態度を取る伊集院に腹が立ち、本を閉じて机に置くと、自身の名を名乗ったあと、プロデューサーにこんな教養のないやつを連れてくるなんて聞いてない、と抗議して。
「……てめぇ今のもういっぺん言ってみろよ」
ときさめりょう、と名乗る白い青年から発せられた教養という言葉が俺の頭を痛くする。初対面で敬語を使わなかったのは申し訳なかったと思っている。言葉選びも間違えたことは自覚している。だが、言い訳をさせてもらうなら、こちらとしては、決して相手を貶めたかった訳ではなく、病人に見えてしまうほどに華奢で、青白い肌を持つ目の前の青年の姿がかつての自分と重なって、少し心の余裕がそがれていたのだ。
「テメェみたいなひ弱に俺を語らないでもらいたいもんだな」
斎雨を鋭く睨み、その胸ぐらをつかんで、グイ、と自身の方に引っ張れば、その軽い体は簡単に浮いてしまう。ため息をつき、俺に対抗するかのように睨むようにこちらを見据えたそいつの真っ白なその瞳に、自身の青緑色の瞳が映し出された。
「えぇ……何度でも言って差し上げますよ。初対面に敬語も使えず、胸ぐらに掴みかかる。もう一度、一から教養を勉強し直してはいかがでしょう」
私のすぐ近くで、プロデューサーが落ち着かせようとしてくれる声は聞こえるものの、冷静でない自分には、内容こそ頭に入ってこず、ただただ右から左へと流れていく。
『テメェみたいねひ弱に』
その言葉に、まるで頭を鈍器で殴られたような痛みが走る。昔の記憶がフラッシュバックする。
(何も自由に食べられなかった。食べたくても、見ていることしかできずに)
◇
「化け物!」
「気持ち悪い」
「あんたなんか私の子じゃない。生まれなきゃ良かったのに」
私は、生まれた時から髪も、瞳も、肌も、全て真っ白だった。アルビノ……というわけではないらしい。健康に生まれてきたが、なぜか見た目は真っ白だったのだ。
そんな私の容姿を気味悪がった両親は、私を子供として、人間として扱わなくなった。
弟が生まれてからは特に、愛情は弟のみに注がれて、まるでいないものかのように扱われた。
食事を与えられず、腐ったパンだとか、そういうお粗末なものしか口にできない日が続いた。
学校にも行かせてもらえなかった。義務教育なのにも関わらず、家に閉じ込めて、一歩も外に出ることはできなかった。
そんな私の唯一の楽しみは、両親が家から出て行った後に、こっそり本棚から取り出した本を読む、わずかな読書の時間だった。
もちろん初めは読み書きもできないから、何を書いてあるのやらさっぱり。
だから、両親が家に帰らない時間を見計らって、夕方ごろに本を持って家を抜け出し、近くの公園に行くと、いつもそこで遊んでいる近所のお兄さんに読み方を教えてもらっていた。
ある程度の読み書きができるようになると、一人で本を読み耽ることも多くなったが、それでも近所のお兄さんと遊ぶのは変わらなかった。
でも、彼はある時突然引っ越して、そのルーティンはあっけなく崩れてしまった。
それでも本は読み続けた。それで生活に必要な知識は補えた。
大人になり、アルバイトを始めて自分で生活できるようになった頃に、プロデューサーとは別の人だが、今の事務所の人間にスカウトされた。
◇
「あなたこそ、そのような頑丈な体で、私を語らないでいただきたいですね」
斎雨から放たれたその言葉に、また昔を思い出す。俺は、今でこそしっかり食事ができて、体つきも周りの奴らより少しはいいものの、昔は斎雨と同じか、あるいはそれよりもひどく痩せこけて、少し触るだけで崩れるんじゃないかというほどに細かった。
そんな死にかけの俺を救ってくれた、一人の友人がいた。まともに食事が取れなくなった俺に、少しずつでも食べられるようになってほしいと、色々考えて料理を作ってくれて、俺の食事への抵抗を、少しずつ、少しずつ減らしていってくれた友人。その人がいなければ、今頃自分はこの世にはいなかったとさえ思う。
だからこそ、頑丈な体、という言葉を放つ時に、鼻で笑うような笑みを浮かべた相手に、自身の環境を、過去の地獄から助けてくれた友人を無かったことにされたような気がして、余計に頭に血が上った。
乱暴に、相手の胸ぐらから手を離す。それと同時に、強く握った拳が振り上げられる。脳が、これからの行動を制止しようとしているのに、体はうまくいうことを聞かない。
『夢を見る暇があるなら勉強しろ』
『お前の将来は決まっているんだ』
忌まわしい両親の声が、頭に響く。全て脳内だけで流れる言葉なのに、鼓膜を突き破るかのような、強い痛みが耳に走る。
なぜ、こんな時に限って昔の記憶が駆け巡るんだ。いや、こんな時だから流れるのか。
「病人みたいな華奢な身体しやがって、俺が殴ったらすぐに死んじまうんじゃねぇのか?!」
「えぇ、貴方が殴ったら私はいとも容易く死んでしまうでしょうね。貴方からしたら私はそう見えるんでしょう?」
振り上げた拳が、斎雨の顔を崩す前に、誰かがその腕を掴んで止めた。振り返れば、真剣な顔をしたプロデューサー。そこまできて、ようやく自分がいかに愚かなことをしようとしていたか気付いた。
「私だって……普通の体に、普通に生まれたかった……!」
ふと聞こえてきた震えた声に、再び斎雨の方を見る。白いその瞳には、涙が溜められていた。俺がその事実を認識した頃には、斎雨は走って事務所を出て行ってしまった。
「え、あ……おい!」
あまりにも展開が早すぎて、俺は頭の処理がうまくいかない。ただ、本能的に体は行動を起こしていた。誰に言われるでもなく、ジャケットをしまった鞄と傘を掴んで自分も事務所を飛び出す。
「……走るの早すぎだろ」
ほんの少し出るのが遅れただけなのに、あっという間に斎雨の姿は見えなくなってしまった。それでも、戻るという選択肢は頭にない。必死に、ただひたすらに走り回って捜索をし続けた。元々ここは道が入り組んでいるせいか、探し求めている人物を見つけることは容易ではなかった。
しばらく走っていれば、見覚えのある長い白髪が、路地裏に見える。すぐさまそちらへと駆け寄れば、間違いない。斎雨だ。路地裏の壁に背を預け、蹲るようにしゃがみ込んで膝に顔を埋めている。すぐ近くまで寄って、持っていた傘を傾ける。時計を見てみれば、あれから十数分しか経っていない。体感ではもう何時間も探した感覚だ。
「やっと、見つけた」
頭上から、聞き覚えのある低い声がする。間違いない、伊集院の声だ。
『私だって、普通に生まれたかった』
あんなにも感情的に叫んだのは、私の人生で初めてなんじゃないか。ひ弱だとか、普通じゃないとか、もう言われ慣れたと思ったのに、今日は簡単には受け流すことができなかった。
叫んですぐ、事務所を飛び出して、全力で走った。ひどく降る雨なんて、今は頭の片隅にさえ入れる余裕はなかった。ただ、誰もいない、遠い場所へ逃げたかった。
ここはどこなのだろうか。何も考えずにがむしゃらに走ったせいで、訳のわからない路地裏まで来てしまった。
少し遠い方から、微かな足音が聞こえ、それは、一歩、また一歩と近づいてくる。私に降りかかっていた雨がぴたりと止んで、やっと見つけた、という声が聞こえる。声も出せず、顔も上げられない。ただ、今の体勢のままでいることしかできなかった。
「ごめん……」
たった三文字の幼い謝罪の言葉を放っただけで、俺の視界が滲みだす。自身の涙で斎雨を濡らしてしまう前に、乱雑にその涙を拭って、鞄からジャケットを取り出し彼にそっと被せ、優しくその白い頭を撫でる。
「事務所……」
戻ろう、と言えばいいのだろうか。答えのない、自身の問いだというのに、正答を求めてしまうあたり、俺はもうかなり毒されてしまっているのだろう。そして、確実な正解じゃないと言葉に出すのすら躊躇いを感じてしまう自分自身に、ひどく嫌気がさす。言葉が続かない悔しさから、唇をぎゅ、と噛み締める。視界がどんどんぼやけていく。それが雨のせいか、俺の涙のせいか、もうわからなくなってしまった。
か細く、絞り出すような声で聞こえた伊集院の謝罪。それに対して何も答えられずにいると、優しく頭に手を乗せられ、撫でられる。初めてのその感覚に少し戸惑いながらも、少し顔を上げてみれば、相手の目にも涙が滲んでいた。事務所、という言葉の後には何も続かない。ただ、目の前の伊集院は悔しそうに唇を強く噛み締めていた。
「……もどろう」
おそらく、伊集院がこの後に続けたかったであろう言葉を放ち、雨のせいか、精神状態のせいか重く感じる自身の体を持ち上げるように立ち上がれば、少し乱暴に吹かれた涙の残りを優しく指で拭い、伊集院の服の袖を少しだけ掴んで、それを引っ張るようにして歩き出す。
戻ろう、やはりそれが正解だったか、なんて内心答え合わせしてしまうのがまた悔しくて、怒りすら覚えてしまう。斎雨が立ち上がり、こちらに手が伸びてくれば、殴られる、と反射的に思って目を瞑る。しかし、その手は自分の予想に反し、ただ優しく涙を拭うのみだった。袖を引っ張るように歩かれれば、自分のことなどどうでもいいというように傘を斎雨の方に傾けて。特に何を話すでもなく、無言で事務所の方へと歩いていく。
しばらく歩き、事務所のドアを開ければ、バスタオルを2枚用意し、笑顔で出迎えてくれるプロデューサーがいた。俺たちが帰ってきたのをみれば、それを一枚ずつ渡してくれる。
「一人ずつシャワーを浴びてきなさい、お話は後でするからね」
優しい笑顔は変わらないものの、この後怒られるということは容易に想像できてしまう。
「伊集院くん、先に行きなよ」
バスタオルを何も言わずに受け取って俯いていた斎雨からそんな言葉をかけられる。俺があいつを見つけた時からはなるべく濡らさぬように傘を傾けていたとは言え、走り回っていた俺よりも、十数分雨の中うずくまっていたあいつの方が寒かっただろうと思い、先に行きなよ、という言葉には緩く首を振って。
「お前が先に入ってこいよ。俺は後で平気だし。その綺麗な髪が傷んだら嫌だろ。早く洗ってこいよ」
教養だとか、なんだとか言われたが、正直ここで敬語を使うのは、あの両親に飼い慣らされているように感じて嫌だった。自分勝手なことこの上ないが、こればかりは許して欲しい。そんなことを心の中で呟きながら、ワックスの取れてしまった墨を落としたような黒い髪を適当にバスタオルで拭いた。
先を譲ったのに、私の言葉は受け入れられず、むしろこちらが先に入るように言われてしまう。帰りの間、私の方にずっと傘を向けていたから、明らかに彼の方が濡れているだろうに。
(遠慮でもしているのだろうか、気にしなくていいのに)
なんて思ったが、綺麗な髪が傷んだら、なんて言われてしまう。
(そんなことを言われたら断りにくいじゃないか)
渡されたバスタオルをぎゅ、と握る。
「お先にいただきます」
そう一言放ってから足早に洗面所の方へと向かう。この数分で、かなり体力を削られた気がする。
結んだ髪を解き、服を脱ぐと浴室へと入り、シャワーのお湯で体を温める。ふと、鏡に映った自分の体が目に入る。白くて、無駄に細くて気持ち悪い。神がいるとしたら、なぜ私に色をつけてくれなかったのだと問いたいほどだ。
先ほどまで自分がいた部屋から、話し声が微かに聞こえるものの、全てシャワーの音でかき消されてしまう。
(何を話しているんだろう。いや、それよりも、あまり遅いと伊集院が冷えるか)
会話の内容は気になるものの、彼の体調のほうがずっと心配で、さっとシャワーを済ませた。
雨で濡れた自身の黒髪をタオルで拭き終えれば、プロデューサーに正座するように言われる。
「斎雨くんのことについては、彼も戻って二人とも揃った時に話すからね。それよりも、いくら感情的になったとはいえ、手を出すのは良くないよ。あのまま誰も止められなかったら、危うく命を奪うところだったかも知れないんだよ?」
「……すみません」
「君の家庭環境についてはよく知ってるからね。僕もそれでスカウトには苦労したし……」
俺の環境をよく理解した上で、それでも怒るべきところはしっかり怒るプロデューサーに、ただただ頭を下げることしかできなかった。俯いたまま説教を聞いていると、案外すぐ斎雨のシャワーは終わったようで、シャワー室からの音が絶える。
(伊集院はここに来るのは初めてだろうし、着替えが見つからなければ困るだろう)
そんなことをふと思い、シャワーで濡れてやや熱がこもった自分の白髪をタオルで拭けば、棚から相手の分の着替えを出して部屋に戻る。
そこには、正座をしている伊集院と、その向かい側に立っているプロデューサーの姿が見えた。
(多分次は私だろう……)
「次、どうぞ」
これから起き得ることを予知しながらも、伊集院の体が冷え切る前に早いところシャワーを譲ろうと思い、どうぞと彼に言う。
特に何かいうでもなく、黙って私の横を通り過ぎ、シャワー室へと入っていく彼の背中を見送れば、誰に言われるでもなくプロデューサーの前に正座する。
「伊集院くんのことに関しては後で話すからね。それよりも、初対面の人にあんな酷い言葉かけちゃダメだよ。あの子だって悪気があってあんな突っかかり方したわけじゃないんだから」
「すみません」
「……体のこと、言われたのが嫌だったんだよね」
プロデューサーの言葉には、ただ静かに頷く。こちらの事情も把握して、気遣いながら説教をするプロデューサーの言葉を、ただ俯いて聞く以外のことなんてできなかった。
しばらく続く説教に、遠くから微かに聞こえるシャワー音。それだけが、ただ私の鼓膜に響いていた。
次どうぞ、と言われれば、黙って斎雨の横を通りすぎ、スタスタと足早にシャワー室へと足を踏み入れる。洗面台で服を脱ぎ、浴室の中に入り込めば、見えたのは鏡に映る自分の姿。
数年前の、痩せ細った頃からだいぶ標準に戻ったものの、色白の肌には目立ちすぎる青あざに火傷後、無数の古傷。
全部、親につけられたものだ。特に大きく変色している腹部は、家を出る前に投げられた参考書のものだろう。 たいして時間が経っていないせいか、触らずともまだズキズキと痛む。サッと軽く湯で体を温めて、髪も適当に濡らせば、シャワー室から出て、置いてあったバスタオルで適当に体を拭く。
そして、ふと目に入ったのは、洗面台に置かれた綺麗な着替え用の服。
斎雨か、プロデューサーか、どちらにせよ、人為的に置かれたそれに、どこか心が温まるような、慣れない感覚がした。
そんな感情もそこそこに、着替えをしてさっさと部屋に戻れば、斎雨の隣に、先ほどと同様自分も膝を曲げて座り込む。
(これから本格的に怒られるんだろうな……)
なんて少し身構えた。おそらく、斎雨も似たようなことを思っているのだろう。張り詰めた雰囲気が伝わってくる。
「今から、二人にはお互いのことを知ってもらうからね」
プロデューサーのその言葉に、私は少し呆気に取られてしまった。先ほど言われたことに何か付け加えて怒られると思っていたから、お互いのことを知ってもらう、という言葉はあまりにも意外すぎたのだ。
そして、お互いの育ってきた環境や、体のことについての話が始まった。
伊集院の家庭環境を聞けば聞くほど、私が彼に放った言葉の鋭さを遅れながらも自覚して、深く、深く反省した。一般的な家庭ならば、多少癇に障れども、特に何か気にするほどのことでもない言葉も、彼にとっては、あまりにも大きな針となるのだと。
どんな顔をして彼を見ればいいのかわからなくて、ただぐるぐると回る頭でろくに思考もせず、俯くことしかできない。
プロデューサーの口から、俺の家庭環境の話が出る間、少しばかり胸が痛んだ。トラウマを抱えるほどの異常な教育が、たびたびフラッシュバックする。斎雨の方をチラリと横目で見れば、アイツはずっと俯きっぱなしだ。
その後、斎雨の話をされた。主に、体のことだった。あいつの環境だとかなんだとかも交えて聞くうちに、自分の愚かさを知らしめられる。経験があるのにも関わらず、最初からあんなに踏み込んだ言葉を吐いて、傷つけてしまった。
なんと声をかけたらいいのだろう、どんな顔をすればいいのだろう、そんな思考が、目まぐるしく自分の頭を駆け巡る。こちらもただ拳を握り締め、床を見つめることしかできなかった。
「じゃあ、お互いにごめんなさいしようか」
最後に、この話はおしまい、とでもいうような言葉が、プロデューサーの口から聞こえる。バッ、と勢いよくプロデューサーを見上げれば、すぐに斎雨の方に向き、なんの躊躇いもなく床に手をつき、地面にめり込む勢いで深々と頭を下げる。
「お前のこと、何も知らないのに、あんな踏み入ったことを言って悪かった。反省している。すまない」
伊集院も私も、お互い思い出したくないことを思い出してしまっただろう。話が終わって、プロデューサーから最後に言われた言葉に、即座に反応したのは伊集院だった。数秒の差で、私も彼に向き直る。
地面に頭がめり込んでしまうんじゃないかというほどに、深々と頭を下げる彼に、こちらも床に手をついて静かに深く頭を下げる。
「私も、君のことを知らずに軽率なことを言ってしまって、本当に申し訳ない」
お互いに頭を下げあえば、「二人とも反省したかな?」というプロデューサーの声が聞こえる。私と伊集院は、特に何か意識するでもなく同時に頭を上げて「はい」と息ぴったりに答える。
それにはびっくりしたのだろう。目を見開いてお互いを見つめる。それがなんだか面白くて、2人してくすくすと笑った。
プロデューサーも、先ほどまでの真剣な表情が嘘かのように、満足げな笑顔でうんうんと頷いている。
「改めて、伊集院湊だ。よろしくな、涼」
こんなことがあった後だが、ど真面目に敬語を使うのは俺らしくない。少し乱雑な口調で改まった自己紹介をし、片手を差し出して、握手をしようと涼に促した。
「私は、斎雨涼です。よろしくお願いしますね、湊くん」
俺の二度目の自己紹介に応えるように、涼ももう一度名を名乗り、差し出した片手を握って、握手をする。現状、互いの過去のことはよく知れた。これから先、人柄だとか、好きなものだとか、そういういろんなことを知っていきたい、そう思い、嬉しそうに笑みを見せる。
涼がどう思っているかはわからないが、あいつもまた、優しげな笑みを浮かべていた。
◇
「おーい、湊?何ぼーっとしてるの?」
「あ?わりぃわりぃ、ちょっと昔のこと思い出しててよ」
「昔のこと?」
「俺らが初めて会った時のだよ」
あれから数年。今は涼と二人のライブの直前の控え室だ。互いに緊張をほぐすように、軽口を叩くのはもはやライブ前の恒例行事のようなものだ。
「あー、あの時か。当時の私はきっと、こんなに軽口を言い合えるだなんて思ってもみなかっただろうね」
「俺もだな。絶対上手くやれるとは思えなかったわ」
なんて笑いながら言っていれば、もう出番が目の前まで来る。
「んじゃ、やってやりますか」
ぐ、と腕を前に伸ばし、意気揚々とステージに歩みを進める。
その横に並ぶように、涼もステージへと歩けば、二人で壇上へと上がった。
無数のファンの、黄色い歓声が会場を包んだ。
隣を見れば、グレーのスポットライトの色に染まり、やや灰色がかった髪になる涼が、笑顔でダンスの構えをする。それに遅れないように、俺も構えをとった。
(よく染まる色だな)
そんなことを思いながら、曲の始まりに合わせて踊り出す。
キャーキャーと、ファンの皆さんが喜ぶ声が場を包み、その期待に私は気持ちがさらに昂る。
違和感のないように、軽く深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ダンスの前の構えをして。隣を軽く見れば、明るい真っ白のスポットライトを跳ね返してしまいそうなほどに、よく映える黒い髪をした湊がそこにはいた。
(力強い色だな)
そんな思いが頭をよぎりながらも、曲の始まりに遅れることなくダンスが始まる。
ライブ中、いつも通り暖かく微笑む涼、いつも通りクールな無表情の湊。いつも通り正反対な二人は、ともにステージに立ち、互いに競うように、あるいは高めあうように踊る。
こんなにも切磋琢磨し合えるコンビは、他のどこを探しても見当たることはないのだろう。
そう、誰もが思えるほどに、二人は、共に並んで高みまで登っているのだった。
黒と白が融ける頃 @sora_skyblue
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