想う

 ネットニュースは既に、桜の開花はいつ頃だとか、そういう春らしい話題で賑わい始めている。これほどまでに、今の僕の気分に似つかわしくないニュースがあるだろうか。僕はダウンジャケットのポケットにスマホを突っ込みながら、雪のちらつく灰青の空を見上げた。三月、津軽は未だ春の兆しを感じない。


 勢いで家を飛び出したまま、行くあてもなく歩いていた。頭の中では、幼い妹の怒鳴るような泣き声と自責の念が、交互に渦巻き続けている。

 目的もなくただ雪道を歩いていたら、いつの間にか家からだいぶ離れた公園まで来ていた。敷地内には人の姿はおろか、足跡すらない。滑り台も砂場もブランコの柱も、すっかり真新しい雪に覆われていた。つまりここは、一人で反省会をするのにうってつけの場所ということだ。早速僕は、その公園に一つ目の足跡を付けた。

 長靴で雪を踏み固めながら公園の辺をなぞるように進んでいくと、やたら雪が盛り上がった場所を見つける。塊の雪を素手で払い除けると、背もたれのない木製のベンチが現れた。僕は、雪が無くなったそこにおもむろにそこに腰を下ろした。真っ赤になった掌の上で先程払った雪が融け、じんじんと痛み出す。寒い、と息を吐く音に似た声が、だだっ広い公園にやけにうるさく響いた。

 先程まで降っていた雪は、いつの間にか止んでいた。それどころか、空はあっという間に灰色の雲を端に寄せて太陽を掲げ、僕の背中を焼き始めた。辺りの新雪は光に晒され、一粒一粒が生き生きと輝き出す。眩しいのが辛くなって目を逸らすと、桜の蕾を孕んだ枝が視界に紛れ込んだ。来月末にはみんな咲き出すのだと思うと、また辛くなった。

 この世界でただ一人、僕だけが暗黒だ。僕だけが、いつまでも何かを悔いている。


 太陽の光が強さを増すにつれて、僕の影も次第に濃く伸びた。整える暇のなかった髪の毛とくたびれた肩が、嫌なほどくっきり目の前に映っている。


「しけてますなあ、風間かざま鈴太郎りんたろうくん」


 不意に、わざとらしく僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。少年のような軽い声だった。声の主を確認しようと顔を上げるが、周りにはそれらしい人間は一人も見えない。もう一周首を回して探そうとしたとき、また同じ声が聞こえてきた。


「おいリン! もっと下見ろ、下」


 少年の声は、遠慮なしに僕を呼びながらしきりに叫んだ。下を見ろと言われても、足元にあるのは自分の影だけだ。訳も分からいまま視線をゆっくり影に滑らせていき、ちょうど影の顔の部分を見たその時、その声は再び僕に話しかけてきた。


「おー、そこそこ。ようリン、暗い顔してんな」


 僕の真っ黒な影から、少年のような声が聞こえてくる。知らない声が、元気に僕に呼び掛けてくる。気味が悪い状況のはずだった。でもなぜだか、妙に耳馴染みの良い声だった。未知に遭遇している真っ最中だというのに、今の僕は自分でも驚くくらい冷静そのものだった。


「……何で、僕の名前を知ってるんだ」

「何でって、そりゃ知ってるべ」

「というかリンって…何でその呼び方」

「『鈴太郎』だから、頭取って『リン』。可愛くていいべや」


 彼は、中途半端に津軽訛りがくっついたしゃべり方をする影だった。最初は自分の分身かと思ったが、それにしてはやけに陽気で稚拙で、馴れ馴れしい。でもその自然な振る舞いが、不思議と心地いいと感じた。


「そっちは、どう呼べばいいかな」

「俺? あー、『お前』でいいべ、普通に」

「……じゃあ、『君』で」


 影は、多分僕の方を真っ直ぐ見つめながら、淡々と僕に尋ねてきた。


「それよりもリン、何でお前そんな悲しい顔してらの」


 純粋な疑問に違いなかった。だが今の僕は、失礼な質問をされたと思ってしまった。最近の天気とか趣味とか、慎重な話題を考えていた自分が霞んで消えた。


「君に相談するほど、大した理由じゃない」

「嘘だあ、めっちゃ悩んでるべ」

「……ただの喧嘩だよ」

「リンが喧嘩? 珍しい。よっぽど相手に苛ついたのか?」

「……いや、苛ついたのは相手。僕が悪かった」

「うはは! リン、相変わらずの『全部自分が悪い主義』じゃん」


 カラッとした、気持ちの良い笑い声が僕の耳に届く。彼の口振りは単に親しげというより、僕のことを見透かしているというか、把握しているというか、そういった全知的な面を彼の中に感じざるを得ないようなものだった。さながら、悩める者を助ける子供の神様のようだ。


「妹を怒らせたんだ。あとからどうせ笑い話になるような、些細な喧嘩だったんだろうけど僕が…僕が、考えなしだったのが悪かった。喧嘩とも言えないくらい、一方的に僕が」


 深く語る必要はなかったかもしれない。それでも僕は、影の少年に語ることを選んだ。語るというより、目の前の神的事象に対して、懺悔しているようなものだった。


 人のものに、無許可で手を加えるものではない。たとえそれが、放置された折り紙や画材の山でもだ。僕は今日、児童の神聖な遊び場を、大人の片付けという行為で穢してしまったのだ。

 持ち帰りの仕事を終えて、部屋からリビングに休憩しに行った時だった。机の上は、色紙の山と散らばったクレヨンで溢れていた。綺麗好きの母さんの仕業ではまずない。大方、妹が満足するまで遊び尽くしたまま昼寝に行ったのだろう。僕はやれやれと思って、この場の片付けを始めた。僕は、二択を間違えた。

 紙類や道具、画材を分けて整頓し、小さな紙くずは袋にまとめて捨てる。妹が昼寝から目覚めリビングに戻ってきたのは、テーブルの上がある程度片付いた頃だった。兄によって荒らされた一帯を見た妹はこれでもかと激しく怒って、全身で僕に殴りかかってきた。

 五歳児の力など高が知れたもので、いくら殴られたところで痛みはなかった。それでも痛かった。騒ぎを聞いた母さんが飛び出してきて、叫び止まない妹を宥め始めた。涙浸しの妹を見て、僕はやっと、また間違ってしまったと悟った。

 母さんに勧められるまま、僕は全ての憂い事を背に家を後にした。楽しかった空間を壊されて、さぞ悲しかっただろう。荒らすだけ荒らして去る兄の背中を見送って、さぞ苦しかっただろう。こんなに後悔することになるなら意地でも家にいれば良かったと、また自分の行動を悔い始める。考えれば考えるだけ、僕が悪い理由だけが浮かんでくる。


「何事も全部自分が悪い訳じゃないって、分かってはいるんだ。でも無性に、全部僕のせいだ、と思う。しなければよかった、と思う。すればよかった、と思う。僕が何か選ぶと、全部失敗するんだ。昔から何でか、ずっとこうだ」


 彼と話し始めた時の僕の口はいつになく、いや、久々に軽やかだった。そんな口も、この話題の前では無力だ。良くない思考が巡るほど、言葉数は段々と減っていく。


「……へえ、お前妹いるんだ、すげえ」


 しばらくの沈黙だった。いつの間にか目の前に話し相手がいることも忘れて、良くない思考を何度も何度も反芻していた。それを断ち切ったのは、彼の心底驚いたような声だった。的外れな答えと間が抜けた空気にあてられ、つい僕も温く返事をしてしまう。


「……え、そこは知ってる流れじゃないのかよ」

「いや、流石に今知ったわそれは」

「僕のこと何でも知ってるんじゃないのかよ!」

「そんな訳ねえべや! んな事一言も言ってねえし!」


 僕が驚いて前のめりになるのに合わせて、影もぐらぐらと体を揺らす。負けまいと声を荒げる彼を見て、神はいなかったのだと落胆した。目の前の影は僕を救済してくれない。そう考えてしまう自分が、息苦しいほど醜いと思った。

 影は、すっかり黙った僕を気にも留めずに、ゆっくりと言葉を続ける。


「何でもは知らないに決まってるじゃん。ただでさえ俺忘れっぽいのに、こんなに環境が変わればさ。もう何年も経つんだ、仕方ねえべ」

「……え?」


 違和感のある物言いだった。


「何年もって、どういう意味だよ、それ。それじゃあまるで」


 まるで、以前どこかで会ったことがあるかのような言い方だった。


「お前、すげえ大人になったよ。びっくりした。最初見た時誰か分かんなかったもん。でも話してみたら全然変わってなくて安心した。…いや、安心してまったらだめかもな。

 ……あのさ、ずっとお前が気掛かりだったんだ。気掛かりというか、不安だった。お前元から心配性だったし。俺の考え過ぎだと思いたかったよ、なあリン」


 僕の目の前に伸びた影は、肩をすくめながら懐かしそうに声を漏らしている。僕は、彼の言うことが何一つ理解できないのが怖くて、乗り出していた身を引いていった。

 太陽の熱で焼けた頭が、冬の風でじっくりと冷やされ冴えていく。か細い枝が急に吹いた強風に煽られて、忙しなく音を立てている。

 灰色をした彼はまたも口を開く。


「リン、大丈夫か?」


 太陽に被さった疎らな雲たちは、交互に光を隠しながら急いで横に流れていく。影の彼は瞬くようにぐらぐらと濃さを変えながら、またも僕の名前を呼んだ。


「……君は、君は」


 脳の内核が不快に痺れる。僕は何かを忘れている。

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