30 恐怖

ラジェ視点


走り続けて二時間たった。


 今、俺の目の前にあるのは枯れた草木と、空から降り注ぎ黒く渦巻く死の霧だ。


 近くにいるだけでもゾワリと恐怖が体のあちこちを駆け巡り、全身が細かく震えるのを感じる。


 触れた瞬間、草木が枯れているのを見るに一刻の猶予もない代物だろうというのは察せられた。


 震える手で杖をかまえ、死の霧に向ける。


 息を吸い込み、呪文を唱えようとしたところで体が動かなくなった。


 まるで重力が何倍にもなったかのような感覚に襲われる。


 周囲一帯の音が消えて、いつも聞こえる虫の声すらも、草木の揺れる音すらも聞こえない。


 無音にも等しい状態だ。


 そんないような状態で、ひときは目立つ音が一つ。


 カツン、カツン__


 ヒールが石を、堅い地面を蹴り上げる音が響く。


 ……おかしい。


 足音が聞こえること自体は別におかしくはないだろうが、足音の聞こえる方向がおかしいのだ。


 足音が聞こえてくるのは死の霧が蔓延している方向、古城がある方向からだった。


 視線をさまよわせ、重圧と足音の主を探す。


 すぐに音の主は見つかった。


 枯れて倒れた木を乗り越えて現れた“それ”は姿形は人のそれであるが、気配が生きた人間のものではなかったのだ。


 いや、生きて入るだろうし、人間でもあるんだろう。


 だが、それを覆い隠すかのように存在している気配は、俺の知るどの種族のものとも合わなかった。


 魔法を学ぶことや、王族という立ち位置から気配というものに敏感になっていたから言えることだ。


 強いて言うのならば、妖精やエルフ、もっといえばそこら辺と人間のハーフらしい先生が近いんじゃないだろうか。


 ……いや、それでも尚、決定的な何かが違う。


 現れる前から発せられる重圧や気配もそうだが、死の霧の中から出てきたというのにケロッとしていることが一番おかしいのだ。


 この古城からあふれ出ている黒い霧は触れた者に死を与える霧ではなかったのか?


 先生の情報が間違っていたのか、それとも俺みたいに死の霧をどうにか無効化する方法があるのか……。


 どちらにせよ、目の前にいる人物はブレナ以上に強い存在であり、この先に行くには相対するほかない。


「あれ?ここまで来たのは君だけ?てっきり天敵も来てるんじゃないかと思ってたけど、考えすぎだったかな?」


 冷や汗が額を流れ、頬を伝う。


 さぁ、端から負けが見えている、この状態、どうしするか……。


「まぁ、いいか。あれがいないにこしたことはないんだし……。で、え~っと……第二王子殿?殿下の方がいいのかな?ま、どうでもいいや」


 震える手で杖に魔力を込める。


 こちらから先に動けるのが一番いいのはわかっているのだが、気圧されてしまい体が言うことを聞かない。


 表情の見えないフードの奥で、“それ”が俺をあざ笑う。


 まるで、愚かにも罠にはまり脱出を試みるネズミを笑うような、そんな笑みだった。


「死ぬ準備、できてる?」


 次の瞬間、銅と首が二つに分かれた__瞬間を幻視した。


「ヒュッ……!」


 明確な、現実とも遜色のない幻に息が止まった。


 死への恐怖という、途方もない根源的なものが体を駆け巡る。


 情けなくも喉が鳴り、震えが増す。


 生き物としての本能が今すぐにでも逃げろと叫ぶ。


 だが、俺は杖を下ろす気は一寸たりともなかった。


 震えるのを無視して口を開き、声を発する。


 それがいくら情けないものだとしても、いくら無謀なことだったとしても、仮に死ぬのだとしても進まないという選択肢は無いからだ。


「“ダスト•フレア”!」


 周囲の気温が一気に下がり、“それ”の周囲にキラキラと光を反射させて宙に浮く、ダイアモンドダストが現れた。


「ん?なにこれ?」


 ダイアモンドダストを見たことが無かったのか、ほんの一瞬だけ俺から意識が逸れた。


 その一瞬の隙を見逃せるわけも無く、加減なんてものは忘れて魔法を発動させた。


 小さな光の粒が明滅し、火花を散らした。


 小さな粒から連鎖的に爆発を引き起こし、それは大きな爆発へと瞬時に様変わりした。


「はぁ……はぁ……」


 すぐに少し離れた巨木の裏に隠れ、しゃがみ込む。


 あの爆発ならば、撃退までは行かなくとも、ただではすまないだろう。


 爆ぜそうな心臓を服の上から押さえるように手を置き、握り混む。


 極力、音を立てないように息を吸い込み、吐き出す。


 俺に倒すことはできないだろうことは最初からわかっているから戦うなんて自殺行為にも等しいバカなまねはしない。


 先制攻撃は成功したし、“それ”を中心に起きた爆発の影響で巻き上がった土煙のおかげで“それ”の視界は遮られているだろう。


 これならば、少し時間はかかってしまうことになるけど遠回りしていけばいいだろう。


 霧が晴れて、現在地がばれてしまう前に早く移動しないといけないな。


 心臓が落ち着くのを待つこと無く、木の陰から立ち上がって走り出そうとした。


「どこにいこうとしているの?」


「え……?」


 真後ろから聞こえた声に、はじかれたかのように振り返る。


 そこには煤一つすらもついていない、一つの汚れも見受けられない状態の“それ”が立っていた。


 気がつかなかった、声をかけられるまでいつからそこにいたのか全然わからなかった。


 いや、そもそもどうやって、あの爆発を生き残ったというのだ。


 爆発が起こった場所は黒焦げになっていて、地面もえぐれてしまっているというのに、少なくとも体が人間だというのならば耐えられるはずも無い爆発だというのに……。


 ましになっていたはずの体の震えがまし、“それ”がふらりと動いたところだハッと正気を取り戻す。


 杖を“それ”に向けて魔法を放とうとしたが瞬きの間に距離を詰められ、誇りを払いのけるかのように杖を弾き飛ばされてしまった。


 手からボキッと言う嫌な音が鳴った直後、息ができなくなった。


 “それ”は杖を弾き飛ばした後、すぐにぐぐっと俺の首を掴み上げた。


「っ……!」


「さすがに二度目は無いよ」


 ミシミシと音を立てるほどに首を掴む手から逃れようと藻掻き、痛みうまく動かない手で引っ掻くが高速が緩くなるどころか余計に力が強くなってくる。


「いやぁ、やっぱり入れ物に引っ張られるね」


 掴み上げている俺が暴れているというのによろけるそぶりも見せず、それどころか悠長に話し出した。


「僕は景色とか興味は無かったし、この海賊の男は知らなかったみたいで反応しちゃったよ」


 自分の体を指さして「この海賊の男」と言った。


 どうやら“それ”はシェナをろくでもないことに使う他に、他人の体を乗っ取る外法の類いを使っているようだ。


「君はアレで僕のことを殺したと思っているみたいだけれども、アレ程度で死ぬような守り方はしてないんだよ。この体も獣人との混血みたいだから人間の割に頑丈にできてるしね」


 この外道め……。


 蹴りつけようとしたが首を絞められ、酸欠を起こしている体をうまいこと動かせない。


「かはっ……!」


 段段と意識がもうろうとしてきており、このままでは本当に死んでしまう。


 いや、その前に首の骨を折られて死んでしまう方が先かもしれない。


 視界がかすんできて、いよいよ死を間近に感じたとき、閃光が走ったかと思えば“それ”の腕を打ち抜いた。


 解放され、背中をしたたかに打ちつけた。


 “それ”は腕から血を流しており、閃光を放ったものに随分と警戒心を抱いているようで瞬時に距離をとった。


「かひゅ……はぁ……はぁ……。な、何が……」


 少しばかり酸欠でふわふわとする頭は好奇心に負け、選考が飛んできた方向を見ることをえらんだ。


「へ?せんせ、い……?」


「僕の弟子に手を出すな」


 そこには、息を切らせ、少しばかりボロボロの姿をした先生が立っていた。

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