第27話

 二人で入るには、家のお風呂はちょっと狭い。

 私たちはそれぞれ体をどうにか洗って、向かい合って湯船に浸かった。膝を折り曲げていても、脚同士が触れ合ってしまうほど近い。鼓動は速くて、体も熱いのに、心は全然温かくなかった。


 湯船に顔半分を浸けてぶくぶく泡を出していると、彼女は私の脚に触れてきた。

 びくりと、体が跳ねる。


「あはは。すごい反応だね」

「変態」

「りんねも触っていいよ」

「触りませんよ、ばか」


 彼女を直視することができない。下着姿は最近だって何度も見てきたけれど、こうして何も着ていないところを見るのは久しぶりで。好きって気づいてからは初めてだから、彼女に視線を向けることができない。


 私のことも、できれば見てほしくないのに。

 彼女の視線が体に突き刺さっているような感じがする。


「りんねって、可愛いよね」

「どこ見て言ってんですか」

「んー……色々?」

「やっぱり変態じゃないですか。もー」


 一瞬、会話が止まる。

 これまでと同じに戻るなんて無理だって、私も風菜もわかっているのだ。だから会話はどこか白々しくなって、ぷつりと途切れてしまう。


「……友達と一緒にいて、楽しかったのはほんと」


 ぽつりと、彼女は言う。


「聞きたくないです、そんなの。もう私は明日から、あなたを忘れて生きていきますから。何も言わないでください」

「やだ。ふうなは絶対、りんねから離れない!」

「私はもう、いやです。とっくに本気になっていたのに、隠していたあなたが嫌いです。あなたを本気にさせられなかった私が嫌いです。……一緒にいると、辛いです」

「なんでりんねは、そこまで……」


 水面が揺れている。それがどうしてなのかはわからないけれど。

 私は深く息を吐いた。風菜が本気を出しただけで、彼女が他の友達に知らない笑顔を向けていただけでこんなにいじけている理由なんて、一つしかないのに。それがわからない風菜は、鈍感だと思う。そして、残酷だ。


「あなたのことが、ずっと昔から好きだからに決まってるじゃないですか」

「……ぇ」

「好き。好きです。ずっとずっと、気づかないふりをしていただけで。あなたのことが、誰より好きなんです。大事だったんです。私だけが、独り占めしたいってくらいに」


 やっと本当の言葉を口にすることができた。

 遅すぎだとは思うけど。


 せっかく止まっていた涙がまた溢れてくる。なんで私は、こうなんだろう。


「好きだから、私があなたを本気にさせたかったんです。ずっと好きだったから、あなたが本気になるまで敬語を使い続けるなんてバカなことをしてるんです。私は——」

「りんね」


 彼女の唇が、私の唇に触れる。

 これで何度目のキスになるんだろう。わからなかったけれど、これまでで一番苦しいキスなのは確かだった。せめて今だけでも、嘘でも好きって言ってくれたら、幸せだったかもしれないけど。


 当然そんな甘い言葉が彼女の口から出てくることなんてなくて。

 だから私もそれ以上、好きなんて言うことはできなかった。ただ唇同士を触れ合わせて、舌を絡ませてみて、お湯の中で手が触れ合って。触れ合うことは幸せだけど、それ以上の痛みを感じる。

 唇が離れた後、私はふっと笑った。


「いつもみたいに、好きって言ってくれないんですね」

「……ごめん」

「謝らないでください。余計に惨めになっちゃいます」


 私は少し身を乗り出して、彼女にキスをした。

 彼女が私にキスをするのは、ただの遊びなのだろうか。それとも私に、情けをかけてくれているのか。わからないし、聞けない。もう聞いたって仕方がないし。


 私たちはそのまま、何度もキスを交わした。

 想いが通じ合うことも、他に何かが起こるってこともない、空虚なキスだった。


 気づけばお風呂に入ってからかなりの時間が経ってしまっていて、私たちはどちらからともなくお風呂から上がった。そして、無言で体を拭いて、髪を乾かして、お母さんがいつの間にか持ってきてくれていたらしい服を着る。


「泊まっていくんですか?」

「りんねがよければ」

「私は、大丈夫です」

「じゃあ、泊まるね」

「はい」


 私たちはそれ以上、何も話さなかった。

 自分の部屋に戻った私は、ベッドに横になってウサギのぬいぐるみを抱きしめた。もう風菜の匂いはなくなっていて、ただのふわふわなぬいぐるみになってしまっているけれど。こうして抱いていると、少しだけ落ち着く気がする。


 風菜の気持ち、聞けなかったな。

 でも、好きって言ってくれなかったのが答えだろう。わかっていたけど。

 風菜の好きは私の好きとは違ったのだ。


「……失恋かぁ」


 明日から、どうやって生活していけばいいんだろう。

 風菜が近くにいるのが当たり前だったから、彼女がいなくなったらどう生きていけばいいのかわからない。いつか縁が切れるだろうって想定はしていたけれど、まさかこんなにも早くにその時が来るとは思っていなかったのだ。


 私はぬいぐるみをベッドに置いて、立ち上がった。

 最後に一つだけ、彼女に聞いておきたいことがある。


 一階のリビングに戻ると、風菜はソファに座ってお茶を飲んでいた。私はそっと、彼女の隣に腰をかける。


「一つだけ、聞いてもいいですか?」

「……なあに?」

「ふうなはいつ、本気になれることを見つけたんですか? 本気になれることって、勉強を教えることで合ってますか?」


 私の人生の目的はずっと、風菜を本気にさせることだった。だから、彼女がいつ本気になれることを見つけて、それが一体なんなのかは知っておきたかったのだ。


「わかんないけど、ずっと昔。小学生くらいの時かな。本気になれることがなんなのかは……教えられないけど」

「……そうですか。ありがとうございます、教えてくれて」


 私は立ち上がった。これ以上彼女の隣にいると、また泣いて困らせてしまいそうだ。寝るにはちょっと早いけれど、今日はもう寝てしまった方がいいかもしれない。

 リビングを後にしようとすると、不意に彼女が声をかけてきた。


「あの、りんね!」

「はい。なんでしょう」

「ふうなは、ずっと前から……!」


 言葉の続きを待つ。振り向くと、彼女は口をぱくぱくさせていた。だけど言葉は一向に出てこない。


「……おやすみ、りんね」

「おやすみなさい、風菜」


 私は小さく息を吐いた。何を言おうとしていたのかはわからないけれど、言わなかったというのが全てだろう。


 私は部屋に戻って、電気を消した。

 ずっと昔に、風菜は本気になれることを見つけていた。


 その事実が、ずんと胸にのしかかってくる。どうしてそれに気づかなかったんだろう。私は風菜のこと、一番よくわかっていたはずなのに。


 ……いや。

 結局私がわかっていたのは本当の風菜じゃなくて、私のフィルターを通した風菜だったのだ。わかった気になっていただけで、本当は彼女のことを、何もわかっていなかったのだろう。


 私は手の甲で目元を拭った。

 風菜とはもう、友達ではいられない。

 あんなことを言った後で、前みたいな関係に戻れるはずがない。


 だけどきっと、大丈夫。大丈夫だ。ゆっくり寝て、明日朝起きれば、気持ちの整理もある程度ついているはずである。私は強い子なのだから。明日はもう、いつもの私に戻っている。戻っていないと駄目だ。


 泣くのは今日で最後にしよう。

 風菜にも、これ以上迷惑をかけないように。

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