第26話
彼女は何も言わない。その代わり、ぎゅっと強く私を抱きしめてくる。
食器を洗う音だけが、キッチンに満ちている。お父さんはまだ帰ってきていなくて、お母さんの姿も見えない。お母さんは暇さえあれば書斎で本を読んでいるから、今も多分書斎にいるんだろう。
お皿を洗い終わる。私は最後にシンクを洗ってから、水を止めた。
「あの。動けないので、離してください」
「やだ」
「お皿、もう洗い終わりましたから」
「……ふうな、何か変なことした?」
彼女は掠れた声で言う。
胸が痛むのを感じる。別に、風菜は変なことも悪いこともしていない。ただ私が、勝手におかしくなっているだけで。
「何もしていないです。ちょっとからかっただけですから」
「そういう声色じゃなかった」
「いいじゃないですか、もう」
「よくないよ。何もよくない。……りんね、こっち向いて」
彼女は少し力を緩める。ずっと俯いていても仕方ないから、私は風菜の方を見た。彼女の黒い瞳が、私を映す。
私は泣きそうな心地になった。
「教えて、りんね。ふうな、りんねに何したの?」
「……そ、れは」
「教えてくれないなら、ここでりんねのこと脱がしちゃうから」
「何言ってるんですか、変態」
「変態でいいよ。……どうするの?」
風菜は私の服に手をかけながら言う。彼女の顔は真剣そのものだ。私が黙っていたら、本当に服を脱がすつもりらしい。
お母さんなら適当に流してくれるかもしれないけれど、お父さんに見られたらきっと大変なことになる。お父さん、真面目だから。私は少し考え込んだ。でもその間に、ブラウスの第二ボタンが外されてしまう。
服を脱がされるか、私のめんどくさすぎる心情を吐露するか。
二つに一つ、だけど。
今は風菜に、体を見られたい気分じゃなかった。
「じゃあ、言いますけど。引いても知りませんから」
「引かないよ。約束する」
「……あはは。そういうところ、ほんと。嫌いです」
こういう時ばかり、真面目な顔をして。
いつもそういう顔でいてくれたら、私ももっと早く自分の気持ちに気づいていたかもしれないのに。
私は深呼吸をした。
「この前、図書室でお友達に勉強を教えてましたよね?」
「……見てたんだ」
「はい。私も図書室で、勉強するつもりでしたから。……風菜、笑ってましたね。楽しそうに」
「それは、まあ。友達と一緒だったから……」
「ほんとにそれだけですか?」
駄目だ。
一度話し始めたら、もう止まらない。面倒臭いとかこんなこと言っても困らせるだけとか、そんな理性が全部どこかに行ってしまう。
最後に残ったのは、めんどくさくてどうしようもない、本当の私だけだ。
「あんな笑い方、初めて見ました。心の底から楽しそうな顔。ずーっと一緒にいたのに、私が知らない顔があるんだってびっくりしました」
「えっと、りんね。それは……」
「あなたはもう、本気になれることを見つけていたんですね。……お友達に勉強を教えてるあなたの姿は、本気そのものでした。ずっと昔からあなたを見てきた私が言うんですから、間違いないです」
「違うの、りんね。聞いて?」
「何を聞けって言うんですか!」
大きな声が出る。
風菜に怒る権利は私にはない。彼女がいつ本気を出そうと、誰と一緒にいようと、誰を好きになろうと、全ては彼女の自由なのだ。だからこれは、ただの八つ当たりだ。馬鹿みたいに子供で、自分の気持ちにこれまで気づかないふりをしてきた私の、悪あがきみたいな八つ当たり。
私、ほんと。
何してんだろ。
「もう、本気になれることを見つけてたんじゃないですか。どうして教えてくれなかったんですか? あなたに本気になってもらおうって頑張ってたのが、馬鹿みたいじゃないですか! 早く言ってくれたら、私は! ……あなたに纏わりついたりしなかったのに」
「纏わりつくって、そんな」
「あなたをちゃんと笑顔にできないのに。本気にもさせられないのに、あなたの時間を邪魔してごめんなさい。……もう、無理に私と一緒にいなくていいですから。これまで、ご迷惑をおかけしました」
怒ったり悲しんだり、もうめちゃくちゃだ。
私の感情は嵐みたいに心の中に吹き荒れていて、もう自分でも制御できない。制御できないから代わりに涙が出て、自分でもここで泣くのは卑怯だって思う。まるで、同情を誘っているみたいではないか。
私の嗚咽の声だけが響いていたキッチンに、足音が聞こえてくる。
廊下からひょこりと顔を覗かせたのは、いつも通りのお母さんだった。
「みーちゃったみーちゃった。風菜ちゃん、駄目だよー。うちのりんねは泣き虫なんだから、泣かせるようなことしちゃ」
「え、あ、あの」
「先生に怒られるぞー」
「ご、ごめんなさい……」
「あたしはいいけどさ。んー……こういう時は、あれだな! 来なさい、二人とも」
「え? ちょ、ちょっとお母さん!」
お母さんは有無を言わさず私たちの手を引っ張って歩いていく。一体どこに連れて行かれるのかと思っていると、背中を押される。
そして、私たちは二人して洗面所に押し込まれることになった。
洗面所は脱衣所も兼ねているから、隣はお風呂である。
……まさか。
「こういう時は、裸の付き合いが一番でしょ! いやぁ、こうしてお風呂に入れさせんのも久しぶりだわ、うんうん」
「わ、私たちもうそんな歳じゃないんですけど!」
「歳なんて関係ないから。ほら、入った入った」
「ちょっとぉ! もー! なんなんですか!」
お母さんはぴしゃりと洗面所の扉を閉めて、去っていく。
遠ざかる足音を聞きながら、私はため息をついた。そういえば、昔もこんなことあった気がする。ちょっと喧嘩するとすぐ裸の付き合いだとか言って、洗面所に押し込まれたっけ。こういうの、今の時代セクハラって言われそうだけど。
「ごめんなさい、風菜。お母さん、ほんといつもあんな感じで——」
風菜の方を見て、私は固まった。
「な、なんで脱いでるんですか!」
風菜は平然と服を脱ぎ始めていた。
まさかこの状況でお風呂に入ろうとするとは思わず、私は洗面所から出ようとした。でもその前に、彼女が私に近づいてくる。
「二人で入らないと、お義母さん納得しないよ」
「それは、そうかもですけど! どうにか誤魔化せば……」
「だめ。お義母さんが鋭いのは、りんねが一番よく知ってるでしょ? ……だから、りんねも脱いで」
「……ぅ」
あんなわけのわからない八つ当たりをした後で、どんな顔して一緒にお風呂に入ればいいのか。
どうにかこの場から離れられないかと思っていると、彼女の手が伸びてくる。
そして、私のブラウスに触れた。
「自分で脱げないなら、ふうなが脱がしてあげる」
「やっ……触らないでください!」
「前も脱がしたのに、なんで嫌がるの?」
「今触られたら、その。……変に、なっちゃいますから」
私が言うと、彼女はくすくす笑った。その笑顔は、いつもと同じどこかいたずらっぽいものだった。
あの子の前で浮かべていた笑みとは、違う。
私は胸が痛くなるのを感じた。
「なってもいいよ。ふうなもなるから」
彼女は私のブラウスのボタンを全部外すと、手際よくスカートを脱がせてくる。彼女もまた、あっという間に下着だけになってしまった。
何これ。
一体どういう状況なんだ。
やってくれたな、お母さん。このままじゃあなたの娘が凄まじい醜態を晒してしまいますよ。助けてください。
「りんね、可愛い。……ふうなのことも褒めて?」
「いやです」
「褒めないとキスしちゃうから」
「さっきから変なことばっかり言って」
「それはりんねもでしょ」
「……むぅ」
私は俯いた。
下着姿のまま向き合って、お互いを褒めるって。あまりにも、恥ずかしくないですか?
いや、でも。
もう十分変なことはしてきたのだ。今更何をしたって、すでに変なのだから構わないのかもしれない。
私はため息をついた。
「可愛いです、風菜」
私が言うと、風菜はふわりと笑った。
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