第10話
「ぶーぶー。なんで中間終わったのに勉強なんてしなきゃいけないの?」
子豚さんが図書室で鳴いている。
私は子豚……もとい風菜の頬をシャーペンで突いた。
「風菜が勉強したいって心から思う教科があるかもしれないじゃないですか」
「えー。ふうなもう一年の範囲は全部勉強したし、やる必要ないよ」
「……と、風菜はそうやって言うってわかってましたとも!」
私はバッグから教科書と問題集を取り出した。
「わ、高二と高三のやつじゃん。どしたのそれ」
「ふっふっふ、先生方から借りてきました!」
「えぇー……すごい量だけど、重くなかった?」
「平気です。私、強いですから!」
私はドヤ顔で胸を張ってみせた。
そう。風菜に本気で勉強させるために、私はここ数日走り回っていた。私は風菜のせいで先生に目をつけられている。しかし、成績はいいし普段の真面目さは中々のものなのだ。だからなんとか先生たちと信頼関係を築いて、教科書とかを貸してもらったのである。
全ては風菜の本気を引き出すために……!
さあ、今日こそはなんとしても本気を出してもらおうではないか。
「さ、どうぞどうぞ。早速勉強しちゃってください!」
「やだ」
「へ?」
「ふうな勉強別に好きじゃないもーん。なんでもない時に勉強なんてしませーん」
「……と、風菜はそう言うってわかってました!」
馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。
ならば水を、飲みたいって思わずにはいられないくらい魅力的にしてしまえばいいのだ。
きっとこれなら、風菜も本気にならざるを得ないだろう。
へっへっへ。
ちょろいモンでやんす。
「もしちゃんと勉強できたら、新しいリボンを買ってあげます!」
「リボン?」
「はい。最近そのリボン、ちょっと色褪せてきてるじゃないですか。そろそろ新しいのが欲しいかなーって思いまして」
「んー……でも誕生日になったらプレゼントしてくれるでしょ?」
「今年の誕生日はリボンの代わりに、もっと素敵なものをプレゼントします」
「素敵なものって?」
私はにこりと笑った。
「それは後になってのお楽しみです。どうです? やる気になりました?」
「……しょうがないなぁ。乗ってあげるよ」
なんか微妙な反応だけど、よしとしよう。
私は全教科の問題集と教科書を彼女の目の前に置いた。
これだけあれば一つは楽しいことが見つかるだろう。
そして、それさえ見つかればあとはどうとでもなる。風菜は天才的な頭脳を発揮してあっという間に飛び級で大学を卒業、その後は著名な学者として全てをほしいままにすることだろう。
さあ、風菜。
見せてください、私にあなたの本気を!
「はい、終わり」
「え……?」
あれから二時間。風菜は教科書を閉じた。二、三年の範囲全部だから、今日中に全部を学ぶのなんて不可能だと思っていたけれど。
風菜は涼しい顔をしている。もしかして、嘘ついてる?
「ほんとにちゃんと勉強しました?」
「したよ。ふうな、そんなくだらない嘘つかないし」
「じゃ、じゃあテストしますからね!」
私は風菜に問題集をランダムに解かせた。これで学習状況はある程度掴めるはずだ。嘘をついているのなら、これでわかるはず!
……と、思ったんだけど。
「……見事に八割正解ですね」
この短時間で、風菜は全範囲を八割方覚えてしまったらしい。
私は戦慄した。風菜がその気になればできないことなんてないってのはわかっていた。でも、ここまでの能力があるとは。
しかし。
結局八割ってことは、いつもと同じだ。勉強も彼女が本気で取り組めるものではなかったということになる。
彼女はいつだって、テストも運動も何もかも、八割でやめてしまう。
その壁を超えたことはこれまで一度もなくて、だからこそ私はいつももやもやさせられるのだ。十割を目指したいって思えるくらいのものに出会ったら、彼女はだらけきった生活をしなくなると思うのに。
はああぁ。
神様、どうかこの怠け散らかした子に本気を出せる何かを提供してください。
……今度ほんとに神社でお願いしてこようかな。
「あーあ。ほんとにちゃんと勉強してたのに、りんねに疑われちゃった」
風菜はぽつりと言う。私はびくりと体を跳ねさせた。
う、うぅ。
悪いとは思ってるよ? 風菜はそんな子じゃないって思ってもいたけど、さすがに私の予想を越えすぎていたっていうか。
「ごめんなさい。疑われるのは、いい気分じゃないですよね。風菜のことは、私が一番よく知っているのに……疑うなんてどうかしていました。本当に、ごめんなさい」
「……ほんとに悪いと思ってる?」
「はい。反省してます」
「そっか。じゃあ……」
黒い瞳が、私を映す。次の瞬間、風菜は私の手をぎゅっと握ってきた。
その柔らかさと温もりに、目を丸くする。
いつの間にか図書室には、人がいなくなっていた。時刻も六時近くなり、三々五々生徒たちが帰っていく中で、私たちだけがまだこの場に残っている。図書委員の人も、いつの間にかカウンターから姿を消していた。お手洗いにでも行っているのかもしれない。
放課後、静かな図書室で、二人きり。
ちょっとだけ、ドキドキするシチュエーションかもしれない。いや、相手は風菜だから、別にドキドキはしないんだけど。ほんとに。
「ふうなのこと、たっくさん褒めて?」
「はい?」
「りんね、いつもふうなのこと嫌い〜とか言ってくるじゃん。たまには褒められたいし、りんねがふうなのことどれだけ大事にしてるか、言葉と態度で示してほしいの」
「……わかりました」
普段の言葉も嘘ではない。嫌いなところも多いし、どうなんだろうって思うことも多い。
でも、私たちはずーっと昔から一緒にいるのだ。
嫌いの一言で終わるような関係じゃない。
普段はちょっと気恥ずかしいから言わないだけで、好きなところだってあるにはある。……そんなに聞きたいなら、聞かせてあげようじゃないか。
「風菜」
「はーい?」
「私は、あなたが隣にいてくれると安心します」
「えっ」
「ずっと変わらず、私の傍にいてくれるあなたのことが好きです。晴れの日も、雨の日も、嵐の日も。あなたが変わらない態度で、声で、笑顔でいてくれることが嬉しいです」
本心を言う機会なんて基本はない。
本心の全ては言葉にするには重すぎる。だから言葉として出力できるのは、本心のうちほんの一部分、ほんのちっちゃなところだけだ。そのちっちゃなところですら、ちゃんと相手に伝えるのは難しい。
薄っぺらくて、嘘みたいで、馬鹿げていて。
口にした時は100%自分の心でも、相手の心というフィルターを通した瞬間純度は薄れていく。その薄れた私の心を、相手は100%として受け取ってしまう。それなら言葉として伝えずに、胸に抱いたままの方がいいんじゃないかって思うのだ。
口にしなければ、相手に伝えなければ、私の心はいつだって100%の純度のままで。薄れたものを私の全てと思われずに済むのだから。
「あなたの元気なところ、すごいと思います。周りのことなんて気にせず、ずっと自分でいられるところも。そういう強さが、時々羨ましくもなります。……ああ、あと。可愛いところも好きですよ。顔だけじゃなくて、仕草とか声とか、色々」
何が伝わって、何が伝わらないのか。
私は風菜じゃないからわからない。私は風菜のことをよく知っているけれど、それは私のフィルター越しの風菜を知っているってだけだ。本当の彼女のことなんて、きっと私は何もわかっていないのだろう。
それでも。
「だから、あなたには……あなたにだけは、心から笑っていてほしいんです。退屈の入り込む隙間がないくらい楽しくて、幸せで仕方ないって毎日を送ってほしいんです。これは、偽りならざる私の——」
唇に、何かが触れる。
それは硬くて、冷たくて、さらさらしたものだった。
暗い。めちゃくちゃ暗い。
ていうか、顔全体に何かが押し付けられているせいで何も見えなくなっているだけだな、これは。
大きさから察するに、数学の問題集だろう。
何も見えないし息しづらいし、殺す気かな?
「もういいよ」
風菜は消え入りそうなくらい小さな声で言った。
「もう、いい。……りんねの、ずる」
私は目を丸くした。
ずるいことなんてしていないのに、何が気に入らなかったのか。わからないけれど、私はそれ以上何も言わなかった。
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