第9話

 心臓が止まりそうになる。私は慌ててスカートを手繰り寄せようとするけれど、間に合うはずがない。足音がそのままリビングに近づいて、風菜は立ち上がった。彼女はそのまま、軽い足取りで廊下に歩いていった。

 一体、何を。


「お帰りなさい、お義母さん」

「あ、風菜ちゃん。ただいまー。来てたんだね」

「はい。りんねに呼ばれて」

「そっか。もしかして、りんねに変なことされた?」

「それは、言えません。りんねに悪いから……」

「ちょおっ……! 変な態度取らないでください、風菜! お母さん、違いますからね? これは風菜が変なこと言ってきたけど私が仕方なくその通りにしてあげたってだけで何もやましいことは——」

「りんね。責任、とってあげてね」


 おい。

 しまいにゃグレるぞほんと。


 私の怒りゲージが上がってきているのを察したのか、お母さんはけらけら笑った。


「冗談冗談。いつもの遊びでしょ? 風菜ちゃん、風邪引いちゃうからちゃんと服着なよー」

「はーい」


 こやつらどうしてくれようか。

 風菜とお母さんが揃うと悪ノリが悪化するのだ。二人は多分性格が結構似ているんだと思う。人をからかうのが大好きで、ノリが軽い感じ。からかわれる方はたまったものじゃない、と思う。


 どうかお母さんと風菜でお互いのことをからかい合ってください。私のように無垢で可憐で控えめな子をからかうのはやめていただきたい。


 風菜はそのままリビングに戻って、制服を着直す。

 私はどっと疲れが吹き出すのを感じた。


「……はぁ。もう私、部屋帰ります。風菜も家帰ったらどうですか?」

「えー。ふうなもっとりんねと一緒にいたいのにー」

「せっかくだしうちでごはん食べてっちゃいなよ。連絡は私がしとくから」

「わーい! ありがとうございます!」


 私の意思は!?

 風菜がうちでごはん食べるなら、私は風菜の家でごはん食べようかな。私は風菜の家の子になります。さようなら皆さん。


「じゃ、一緒に部屋行こ!」


 風菜は私の手を引いて廊下に歩いていく。

 もう煮るなり焼くなり好きにしてください。

 私は観念して、彼女と一緒に階段を登った。


 二つに結ばれた髪が、ふわふわ揺れている。リボンは去年私がプレゼントしたもので、ほぼ毎日つけているからかちょっとくたびれてきている気がする。

 今年は新しいリボン、どんなのにしよう。


「あー、楽しかった。お義母さん、いい人だよねー」

「どこがですか」

「多分、私たちがしてたこと、ほんとはちゃんとわかってると思うよ?」

「……む」


 そういうのは言わぬが花というやつではなかろうか。

 もし本当にバレているとしたら、気まずいにも程があるし。ていうか、別にやましい関係ではないんだけどね? 変な勘違いされていないといいけど。


「私たち、どう見られてるのかなー。仲良しの恋人同士かな?」

「悪魔と生贄じゃないですか」

「えー。ふうな生贄やだ」

「いや、風菜は悪魔の方ですよ?」


 風菜はくすりと笑った。やっぱりその顔は、悪魔めいている。悪魔ってより、小悪魔かもだけど。


「悪魔はりんねの方だよ。可愛い女の子をたぶらかす、危ない悪魔」


 人聞きが悪すぎる。

 どっちかっていうと私が風菜にたぶらかされていると思うのですが。


 風菜は私の部屋に入ると、真っ先にベッドに寝転がる。そして、バタバタと足を動かし始めた。


 ほんと、自由気ままにも程がある。どう考えても風菜の方が悪魔じみているだろう。


「でも、もったいなかったなぁ」

「何がですか?」

「胸にキスマークでもつけてもらってれば、言い逃れできなかったのに」

「……悪魔」


 私たちの関係が変に誤解されたら、風菜だって困るだろうに。私は思わずため息をついて、ベッドに座った。

 そして、彼女のスカートをそっと捲ってみる。


「……りんね?」


 彼女は驚いたように私の方を振り返ってくる。

 私はくすくす笑った。


「やっぱり風菜も、不意打ちは驚くんですね。……どんな気分ですか? いきなりこんなことされるのは」


 ちょっとはからかわれる私の気持ちもわかったのではないだろうか。

 私は彼女のスカートを軽く引っ張ってみせた。

 もっと驚いた顔を見せてくれてもいいんですよ、風菜。


「ちょっと安心した。りんねがへたれじゃなくてよかったなーって。あんまりへたれが行きすぎると、いざという時困っちゃうもん」

「私はへたれじゃありませんから。ていうか、へたれだったとしても風菜には関係ないです。そういうのは、将来恋人と一緒にちょっとずつ直していけばいいんですー」

「えー。ふうなへたれの恋人はやだなー。いい雰囲気なのに手ぇ出してこないのとか、ある種の暴力だよ」

「そこまで言います……!?」


 絶対言い過ぎだと思うけど。相手が大事だからこそ容易に手を出せない、みたいなのもあるかもしれないし。いや、私は別にいざという時は普通にちゃんとできますけどね?


「風菜って、恋愛に興味あるんですか?」

「んー……」


 風菜は考え込むような表情を浮かべてから、やがてにこりと笑った。


「恋愛が、ふうなの本気になれることだとしたら。……りんねは、どうする?」

「え……」


 私はスカートから手を離した。

 布が再び彼女の脚を覆う。彼女は体を起こすと、私のことをじっと見つめてきた。その瞳はどこか、真剣な色を帯びている。


「ふうなのカノジョに、なる?」

「なっ……なんでそうなるんですか! 勝手に好きな人見つけてくださいよ!」

「ほんとにそれでいいの? ふうなのこと他の人に取られちゃっても後悔しない?」

「するわけないじゃないですか。そもそも私、風菜のこと嫌いですし」

「ふーん……」


 風菜はリボンを外す。窮屈そうにしていた長い髪が解放されて、彼女の匂いがした。髪を下ろしている風菜を見るのは、ずいぶん久しぶりだった。彼女はそのまま、私の髪に触れてくる。


「リボン、毎年プレゼントしてくれるのに。ふうなのこと大事に思ってるの、バレバレだよ?」


 あっという間に、髪が纏められていく。二つのリボンは彼女のために買ったものだから、正直私には似合っていないと思う。

 私は小さく息を吐いた。


「風菜が言ったんじゃないですか。毎年、新しいリボンが欲しいって」


 そう言われたのは、いつだったか。

 確か幼稚園に通っていた頃だと思う。その日私は、強風で髪がぐちゃぐちゃになってしまった風菜に泣きつかれて髪を整えてあげることになった。ちょうどその日はお母さんに髪を二つ結びにされていたから、自分のリボンを使って彼女をツインテールにしてあげたんだっけ。


 彼女が好きなアニメのキャラが、ツインテールだったから。

 それをいたく気に入ったらしい風菜は、誕生日にリボンが欲しいと言い出したのだ。そして、ずっとこの髪型を続けるから、りんねもずっとリボンをプレゼントしてね、と言ってきた。


 だから私は毎年、二本のリボンを彼女にプレゼントしている。その年の彼女に似合うように、デザインとか色をちゃんと変えて。


「それはそうだけど……昔の約束覚えてる時点で、ふうなのこと大好きじゃん」

「好きじゃないです」

「絶対好きだって」

「好きじゃないですー!」


 確かに私は風菜を大事だと思っている。

 でも、同時に本気を出さずにだらけきって、授業もサボって、私をからかってくるところは嫌いだと思っている。


 気に入らないのだ。何もかも退屈だと言いたげな顔が。

 私をからかうときばっかり、楽しそうにするその性格が。


 だから、全部ひっくるめたらプラマイゼロというか、マイナスで……つまりは嫌いなのである。


「風菜は、私と一緒にいるのがおかしいくらい、ほんとはすごい人なんです。自分では、わかってないかもですけど」

「すごくなくていいもん。ふうなは、ずっとこうしてたい」

「それじゃあ、ずっと風菜は……」


 退屈で、人生に飽きてしまったみたいな顔で生き続けることになってしまうではないか。


 惰性で生きるには早すぎるはずだ。

 私は、風菜が冷めた目で世界を見続けるのは嫌だ。つまらなそうに生きる風菜を見たくない。もっと風菜には、楽しくて幸せな毎日を送ってほしい。それだけなのだ。そんなの、言えるわけないけど。


「ねえ、りんね?」

「……重いです」


 風菜は私を正面から抱きしめて、そのまま体重をかけてくる。大型の猫にでものしかかられている気分だ。おやめください。


「……いがいの」

「え?」

「……。誰のカノジョにも、ならないで」


 耳元で囁かれた言葉に、目を丸くする。

 風菜は、ぎゅっと私を抱きしめた。

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