30


 30




 三島香織と6年ぶりに再会したのは、高校生の時に何度も足を運んだ、あのチェーンのファミリーレストランだった。


 流石に所々内装が変更されているが、おおよそは昔と変わらない店内に驚く。


 二人だったので、テーブル席かと思いきや、香織が妊婦であったためだろう。ボックス席に通された。


「久しぶりね。あずさちゃん」


「はい。お久しぶりです」


 香織の顔は高校生のころの面影を残してはいたが、記憶よりも頬がこけていた。妊娠。借金。夫の失踪。気疲れなんて生やさしいものではないはずだ。


 それでも、香織はあずさに笑顔を向けた。


 強い人だ。そう思った。




 あずさは全てを話した。森でのこと。山でのこと。三島のこと。


 到底信じられる話ではなかったに違いない。でも、香織は静かに聞いていた。時折、大きいお腹をさすりながら。


 全てを話し終えたあずさは、三島のスマートフォンと結婚指輪をテーブルに置いた。


 それを見て、香織はふっと笑った。全てに疲れた、そんな笑いだった。


「あの人、理屈っぽいくせに、根がバカだから」


 香織は結婚指輪を手に取りながら呟いた。


「ここぞと言うときに情に流されて、見事、詐欺師にだまされちゃったの。私に相談してくれれば、こうまではならなかったはずなのにね。妊娠してるから、心配させたくなかったのかしら」


 香織は指輪を握りしめ、声を震わせた。


「失踪したときも、そう。離婚届だけ勝手に置いていって、全部自分一人で背負おうとして。全部自分で決めちゃってほんとに、ほんとに」


「バカなんだから」と香織は下唇を噛みしめ、肩を震わせた。


 あずさは、「一つ、謝らせてください」と切り出した。


 テーブルに置かれた、三島のスマホを手に取る。


「香織先輩の連絡先を知るために、スマホ、充電して覗かせてもらったんです。勝手に見てごめんなさい」


「暗証番号、単純すぎてすぐ開きましたよ」と付け加えると、香織はくすりと笑った。


「それで、香織先輩とのラインのトーク画面、開かせてもらったんです」


「ああ」と香織は声を漏らす。そして自嘲するように笑った。


「みっともなく、私がメーセージ送りまくってるでしょ。全部既読無視されちゃった」


 事実、トーク画面には香織の長文のメッセージがいくつも連なっていた。


『あなたがいないと意味が無い』


『いっしょに頑張ろう。なんとかなるから』


『パパ。帰ってきて』


 そんな言葉をちりばめて。


 その、トーク画面の最後。


 あずさはトーク画面を開き、香織に差し出した。スマホを受け取り、疲れた目でそれを見た香織が息を飲む。


 一通。最後に一通。三島からのメッセージが表示されていた。


「送信失敗」のマークが出ていた。だから、香織のスマホには表示されなかっただろう。でも、そうなることはわかっていただろうが、それでも、三島が送った、送ろうとした言葉がそこには表示されていた。


 言葉自体は短い、たったの二文。


『ごめん。ほんとごめん』


 三島の顔が浮かぶ。笑った顔も、むっとした顔も、おちこむ顔も、ばつ悪そうに笑う顔も。


『今、帰るから』


 香織の両目からボロボロと涙が、堰を切ったようにこぼれ落ちた。


「三島先輩は、香織先輩のところに、帰ろうとしてたんです」


 それは最後の最後だったかも知れないけれど。


 それは、もう、どうしようもないほど間違った後だったかも知れないけれど。


 それでも彼は帰ろうとしたのだ。


 あの暗い石室で、痛みと、寒さと、孤独と、恐怖に震えながら、それでもスマホをその手に握り締めて。


 彼は帰ろうとしていたんだ。


 香織は泣いた。「バカだなあ」そう呟きながら、その汚れたスマートフォンを両手に握りしめ、胸に押しつけて、香織は泣きじゃくった。


 そして、彼は帰ってきた。


 一ヶ月もかかってしまったけれど。


 妻と子どものもとに、三島明は、帰ってきたのだ。




 




 古びたリュックごと差し出した現金の山を、香織は受け取らなかった。


「それは、あずさちゃんが勝ち取ったものでしょう」


 あずさは首を振った。


「いいえ。三島先輩がいなければ、私は確実に死んでいました。これは先輩のおかげで得たものです。だから、受け取ってください」


 香織はしばらく黙って、そして、泣きはらした顔でにやりと笑った。


「彼なら、どうすると思う?」




 異様な光景だったと思う。


 駅前のファミリーレストランのボックス席で、お腹の大きい妊婦と、怪我だらけの女が、机にあふれんばかりの札束をならべ、きっちり二等分していく。


 間違いなくこの店史上、最大の割り勘が行われた。




 現金の山のきっちり半分を、あずさはリュックに戻し、香織はもう半分を手持ちのエコバックにパンパンに詰め込んだ。


「このお金は、この子のために使わせてもらうわ。お金があればいいってものじゃないだろうけど」


 香織はそう言って立ち上がった。


「でも、私はこの子を幸せにしてみせる」


「負けるものですか」とそう香織は言った。その相手が誰かはわからない。何かなのかもしれない。彼女の人生だろうか。それともこの社会だろうか。いずれにせよ、一人の母親の戦いが始まる。


「重いですよ。駅まで持ちます」というあずさの申し出を、香織はやんわりと、でもきっぱりと断った。


「あずさちゃん。元気でね」


 そう言った彼女の顔は、あの、あずさが知る、かっこいい香織先輩のものだった。


「はい。先輩も」


 香織は立ち去りかけて、ふと振り返って言った。


「そういえば今日よね」


 きょとんとするあずさに、香織は微笑んだ。


「あずさちゃん。誕生日、おめでとう」








 一人になったあずさは、しばらくの間、じっとテーブルを見つめていた。


 そしておもむろに、卓上の呼び出しボタンを押す。しばらくして来た店員に注文した。


「マルゲリータピザと、カリカリポテト。あと、塩とオリーブオイルください」




 熱々のピザにポテトを乗せる。上からオリーブオイルと塩をこれでもかとふりかけ、半分に折る。


 ガブリとかぶりついた。


 チーズのコクとポテトの甘みとトマトの酸味が口に広がる。オリーブオイルの香りが鼻を通り抜ける。


 もう一口。もう一口。


 あずさはピザを頬張った。上気した頬を雫が伝う。次から次へと。それでも、あずさは口を動かすことをやめなかった。食べることは生きることだから。


 しょっぱいなあ。


 口いっぱいにピザを頬張りながら、あずさはそう思った。





















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る