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石室の天井の隙間から差し込んだ光はあずさの意識をゆっくりと現実に引き戻した。
雨、止んだんだ。
あずさは半身を起した。左肩の傷はじくじくと痛んだし、火傷も引きつる。だが、動かせないことはなかった。
「先輩」とそう声を出そうとして、自分の喉が極限に渇いていることに気がついた。辺りを見渡す。昨夜の焚き火はとっくに消えていて薪の燃えかすが冷たくなっていた。その側に富士の水のペットボトルを見つけ、あずさは手に取りキャップを開けるが早いか、一気に呷った。半分ほど残っていた水を一気に飲み干す。あずさは「ふー」と息を吐き、潤った喉で改めて呼び掛けた。
「三島先輩」
あずさの声が石室にうつろに響いた。
あれ? いない?
薪か何かを拾いに外に出たのだろうか。
石室の奥に目をやる。薄暗いが、昨日三島が座り込んで気絶していた壁に目をこらす。三島の登山靴と投げ出した足が差し込む朝日にぼんやりと浮かび上がっていた。
なんだ。寝てるだけか。
あの奥の壁にもたれるのが三島の定位置らしい。
あずさは立ち上がった。少しくらくらするが、大丈夫。動ける。
「先輩。朝ですよ。起きてください」
頭を振りながら、あずさは奥に歩み寄る。
「三島せんぱ・・・・・・」
あずさは、黙った。
足から力が抜け、その場に跪く。
一人の、いや、一体と言うべきか。
一体のミイラが、石室の壁にもたれるようにして眠っていた。
昨日見た赤いチェック柄のシャツ。そしてジーンズ。そこから覗く手足は干からび、縮んでいた。がくりとうなだれた顔は見えなかったが、シャツの隙間から覗く肋骨はこれ以上無いほどに浮かび上がり、首は枯れ木のようだった。
「三島・・・・・・先輩」
わかっていた。わかっていたんだ。ありえないって。
登山カードの日付は一ヶ月前。
あれだけの重症を負って、こんな森の奥で一ヶ月も生き延びられるはずがないんだ。生きているはずがないんだ。
傍らにはリュックサックがあった。開けられて中身が漁られている。あずさだ。昨夜、このリュックから水筒を見つけ、ナイフを取り出した。
遺体のシャツを見た。裾が切り取られていた。そしてその生地は、あずさの右の手の平に今も巻かれている。これもあずさが自分でやった。
そう。あずさは自分でやったのだ。自分でナイフを煮沸消毒し、自分で弾を体からえぐり出し、自分で傷口を焼き、自分で包帯を巻き直した。
全部、あずさ自身がやったことだ。
隣にいた、側にいてくれていた三島は、もうとっくに死んでいた。
「・・・・・・ありがとう、ございます」
あずさは自然とそう呟いていた。
自分でも驚くほどにショックは受けていなかった。きっと、昨夜も頭のどこかで気づいてはいたのだろう。これが幻想だって。三島先輩が本当に生きているわけではないって。
「ありがとうございます」
あずさは繰り返した。
昨夜の三島の姿がなんであったのかはわからない。極度の緊張と痛みと恐怖からあずさの脳が作り出した幻想だったのかもしれない。願望だったのかもしれない。それとも三島の魂が霊として現れてきてくれたのかもしれない。
でも、なんにせよ、彼はあずさを助けてくれた。きっと、一人では傷の処置など出来なかっただろう。今頃、満足な止血もできずに出血多量で死んでいただろう。
間違いなく、三島は、あずさを救ってくれたのだ。
あずさはゆっくりと三島に近づいた。その痩せ細り、乾ききった両肩を持ち、そして、昨夜、彼がずさにしてくれたように彼の胸を抱く。そして、細心の注意を払い、慎重に地面に横たわらせた。軽かった。水分が抜けた人間の身体はここまで重さが無くなるのかというほど。
改めて、三島の全身を見る。
左の二の腕に矢が突き刺さっていた。右の太ももも同様だった。どちらも反対側に貫通している。
こんな身体で、三島はここまで逃げてきたのか。生き延びて来たのか。
小粒ほどの弾丸を食らって気絶したあずさとは比べものにならない苦痛だっただろう。
そんな中を、たった一人で、こんな所まで。
右の太ももの付け根には麻紐がぐるぐる巻きにしてあった。その紐の間に棒が差し込まれ、ぐるぐると回転させるように締め付けていたようだ。動脈からの出血をどうにか止めようとしたに違いない。左の二の腕にも同じ処置が行われていた。
この暗い石室の中、彼は一人でこれを行ったのだ。絶望が支配していただろう。痛みと恐怖で発狂しそうになったに違いない。
痛かっただろう。苦しかっただろう。怖かっただろう。寂しかっただろう。
でも、彼はあきらめなかったんだ。
最後の最後の最後まで、生き残ろうとしていたんだ。
彼は、三島明は、戦い抜いたんだ。
高校生の頃、彼は言った。
『誰しも、戦わなきゃいけないときは、あるんだ』
ぼろぼろと、あずさの頬から涙がこぼれ落ちた。
わかっていなかった。全然わかっていなかった。戦うというのはこういうことなんだ。
昨夜、あずさは三島に言った。逃げていると。
逃げていたのは自分じゃないか。
あきらめていたのは自分じゃないか。
あの日以降、弓道部のあの事件以降、私は戦ったことがなかった。
あの日のように現状が悪化するのを恐れるばかりで。自分の不幸を嘆くばかりで。
ずっと耐え続けてきた。
義理の家族に何をされても。
会社で虐げられ、搾取されても。
四宮に軽んじられ、見下され、蔑ろにされても。
ずっと耐えることしかしなかった。
それはある意味、逃げていたのではないか。すべき戦いから、逃げ続けていたのではないか。
私は、私を痛めつけ、傷つけ、貶め、害するものの全てと。その全てと。
私は、自らの全存在をかけて、戦うべきだったのだ。
その結果、何が待っているとしても。
戦うこと自体は間違っていないのだから。
三島の左手には結婚指輪が鈍く光っていた。小枝のように痩せ細った薬指からそのリングは今にも抜け落ちそうで、隙間から裏面の刻印までうかがえた。
そしてその左腕には、とっくに電源が落ちた三島のスマートフォンが握られていた。
暗い石室で、痛みと寒さと恐怖に震えながら、彼は最後に誰と連絡を取ろうとしたのだろう。
あずさは涙を拭った。立ち上がる。
そして、すっと、後ろに下がり、全ての動きに気を配り、できるだけ時間をかけて再び膝を落とし、石室の床で正座の姿勢を取った。礼節は何より大事だ。そう、先輩たちに教わったから。
「三島先輩」
床に手をつく。息を整える。
そして、敬愛する先輩、三島明に向けて、後輩、神城あずさはゆっくりと頭を下げた。
「よく・・・・・・よく、がんばられました」
あずさは石室の外で、巨木を見上げた。
竹林に囲まれ、朝日に照らし出されたその雄大な姿は例えようもないほどに美しく、神々しかった。
あずさはまぶしいその光景を目を細めて眺めながら、自らの置かれた状況を頭の中で整理していた。
殺人鬼たちは、今頃あずさを血眼で探しているだろう。三島がいままで発見されていなかったことを考えると、この場所は隠れ場所として理想的だ。今後もきっとそう簡単には見つからない。しかし、いつまでもここで隠れていることもできない。あずさの無理矢理塞いだ傷口にはタイムリミットがある。
脱出経路を考えてみた。だがどうやっても見つかってしまう。結局のところ、最終的に車道に出ざるを得ないし、そうしたら監視カメラに写って一発。すぐに車で追いつかれてしまう。そもそも、住所も名前も掴まれているのだ。運良く家にたどりついたところで、家を襲われたらどうしようもない。森と山をまるごと改造するような大がかりなことをする連中だ。バスの運転手を抱き込んでいるぐらいだし、警察に駆け込んだところで安全を確保できるかは疑問である。
考えれば考えるほど、逃げるという選択肢は絶望的であった。
となれば、戦うしかない。
私が死ぬか。奴らが死ぬか。
そういう戦いを始めるしかない。
今のところわかっている敵はベンケイ、ヨシツネ、タケルの三人だ。いや、確か会話の中でクロダという人物も出てきていた。四人かもしれない。なんなら、まだ他にも敵がいる可能性も大いにある。対するは、今にも死にそうな社畜OLの神城あずさ、ただ一人。笑ってしまうほど無謀だ。
それに、なにより武器だ。
あずさはおもむろに足下に目を落とす。そこには石室からあずさが持ち出した荷物が並べられていた。
あずさのリュックとその中身。水のペットボトル。ジップロックの袋。筆箱。筆箱に入っていた先が丸まった子ども用の小さなはさみ、オイルライター。ノコギリ。
その隣に三島のリュックサックとその中身。麻縄の束が数種類。折りたたみナイフ。ステンレス製の水筒。雑誌。
これが、あずさの持っている全てだった。
対して、敵はクロスボウと散弾銃。まだ見ていないだけで他になにがあるかわかったものじゃない。
歴然とした戦力差だった。
あずさがナイフを持って突進しても、飛び道具には敵わない。近づくことも出来ずに蜂の巣にされて終わりだろう。
武器が必要だ。ナイフよりも強力で、リーチの差を埋められる、あずさだけの武器が。
あずさはノコギリ手にした。
すっと、巨木を見上げる。
梓の木。別名ミズメ。カバノキ科。あずさの名に冠せられた、いにしえの木。
『だってこの子、あずさちゃんっていうんだぜ!』
『梓っていう材木は、丈夫でほどよく弾力があるから、昔は弓の材料にされてたの。特に神事などで使われるための弓。梓弓』
『梓の木はね、粘り強いんだよ。折ろうとしてもなかなか折れない。そんな木だ。お前もそんな人間になりな』
あずさは目をつぶり、大きく息を吸った。雨上がりのひんやりとした空気が胸を満たす。
できるだろうか。いや。やるんだ。
ふうっと息をはく。そして、あずさはゆっくりと目を開け、梓の大木を見つめた。
弓を、作る。
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