二十二歳 六月
二十二歳 六月
華金という言葉があるそうな。
華やかな金曜日という実に安直なネーミングではあるが、鬱屈した平日の仕事を終えてあとは休日二日を満喫するだけだという勤め人の開放感を的確に表現した気の利いた言葉だとも思う。
まあ、あずさにとってはあまりにも縁が無い言葉であった。金曜日に仕事のことを忘れて夜の街に繰り出すなんて、まるで都市伝説だ。見たことも聞いたこともない。
いや、言い過ぎた。見たことはあった。聞いたこともあった。現に、八月の金曜日の午後七時、会社にいまだ残っているのはあずさ一人なのだから。
同僚達はそれこそ「はなきんだー」と笑いながら連れだって定時にオフィスを出て行った。
昼間に同僚が話しているのが小耳に入ってきた。今日は燻製バルに赴くらしい。肉を煙で燻す保存食がどう立ち回ればバルなんてお洒落なお店の主役に収まるのかあずさには想像がつかなかったが、何にせよ楽しそうだった。
店に予約を取る段階で、朱美先輩が「あずさちゃんも行く?」と思い出したかのように声をかけてきた。あずさは「仕事があるので」と断る。
朱美はその時あずさがしていた領収書を切り取る作業をチラリと見下ろした。そして、「うわ。なにそのはさみ。小学生が使う奴じゃん」と軽く吹き出した。
あずさの手に握られていたはさみは、刃の先が安全のために丸くなっている子ども用のものだった。朱美は冗談で言ったのだろうが、事実、このはさみは子どもの時に使っていたものを家から持ってきたのだ。柄のプラスチックが薄汚れて元々の色がわからなくなっている。
別に、好きで使っているわけではない。入社の時に買った新品のはさみは、成田課長が「ちょっと貸して」というので、渡したきり、戻ってこなかったのだ。一度、遠回しに催促したこともあったが、「自分のを見つけたら返すから」と言われてもう一ヶ月が経っていた。
「それ、夜までかかりそうなの?」
朱美が手伝う素振りなど微塵も見せずに言う。
「いえ。他の仕事もたまってしまっていて」
朱美は「そっかあ。大変だねえ」と笑った。「無理しちゃだめだよ」と歌うように言う。あずさが「ありがとうございます」と返しきらないうちに朱美はあずさに背を向けていた。
本気であずさが来るとはそもそも思っていなかったのだろう。あずさはその背に向かって、まあ、これ、本来はあなたに仕事なんですけど、と声にならないように独りごちた。
あずさは和気藹々と談笑する同僚達を眺めた。
これは、あんたの仕事。月曜までのあれはあなたの。今日中の資料がお前の。
どれも、本来はあずさの仕事ではない。
あずさが入社してから数ヶ月が過ぎた。一向に富士の水は売れなかった。当然だ。会社も売れっこないことはわかっている。ただ、生産側との付き合いが上の方であるらしい。売ろうとしているという事実が必要なようで、貧乏くじを引かされたあずさは販売努力を続けなければならなかった。どう考えても無意味だったが、あずさは足を棒にしてエリアを回った。あずさは思ったのだ。ひたむきに、がむしゃらに頑張っていれば、あずさの努力を認めてくれる。会社の皆は気が付いてくれると。そう。それこそ、弓道部の時のように。
実際、会社の皆は気が付いた。あずさがひたむきな努力家で、何を頼まれても断らず、何を言われても言い返さず、黙々と仕事に打ち込む人間であると。
だから、面倒な雑務は全てあずさに押しつけてしまえば、自分はその分、楽ができるのだということに、社員の皆は、気が付いたのである。
「あずさちゃん。ちょっと来て」
成田課長に急に呼ばれたあずさは、「はい!」と叫んで慌てて立ち上がった。見ると課長はデスクに座って胡乱げな目つきであずさを見ていた。
課長はデスクに座っている際は、いつも大抵、社の固定電話を使い、営業なのか世間話なのかわからない、おそらくは私的な内容であろう無駄話に興じている。しかし、今は苦虫をかみつぶしたような表情で、手元のボールペンが芯を出さないままコツコツと机の天板を小刻みに叩いている。まずい。機嫌が悪い。
デスクの前に駆けつけたあずさに投げつけるような勢いで、課長はA4コピー用紙の束をばさりと机に放った。
「なに。この資料。全然ダメじゃん」
あずさが今朝作った打ち合わせの資料だった。ついさっきまで隣の会議室でやっていたはずだ。芳しくなかったのだろうか。
「え、でも、過去の売り上げデータをと言われましたのでそれを・・・・・・」
「昨年度までのしか入ってないじゃん! 普通、数年分入れるでしょ! 普通!」
なんだよ。普通って。新入社員に業界の「普通」を求めないでよ。
喉元まで来た言葉をあずさは飲み下し、うつむく。課長はボールペンを小刻みに動かす。
コツコツコツ。
「今日の会議、大事なやつだったんだよ。どうすんだよ! 話こじれたら!」
あずさだって、データが昨年度まででいいかは少し不安だった。だが、時間が無かったのだ。
「その、あの、今朝になって急に言われましたので・・・・・・」
「はあ!? 俺のせいにするわけ?」
「いえ、そういうわけでは」
「え、でも、そう言ったじゃん」
「・・・・・・言ってません」
「言ったって。俺が悪いって。え、そう思ってるんでしょ」
思っている。
自分の会議なら、自分で資料を準備して欲しい。あずさに用意させるなら、ちゃんと指示して欲しい。データが重要なら、せめて会議前に目を通して置いて欲しい。大事な会議なら、もっと早めに言っておいて欲しい。
だが、あずさがしたのは、「ごめんなさい」と頭を下げることだけだった。
この状態になった成田課長には何を言っても無駄だ。どうせ会議で話がうまく進まなかったから、あずさに責任転嫁をしているのだろう。単にストレス解消をしているだけなのだから、課長が満足するまでこうしてひたすら耐え忍ぶしか無い。
「いや、ごめんなさいじゃなくてさ」
課長は鼻で笑いながらいつもの口癖を言う。ボールペンを鳴らしながら。
「答えてよ。あずさちゃんが悪いんだよね。え、俺、間違ってる?」
あずさはスーツの裾を握りしめた。成田課長の嫌なところワーストスリー。ただの罵倒ではなく、相手に質問して、返答を求めるところ。黙っていれば嵐が過ぎるタイプでもないのだ。
「・・・・・・間違ってません」
「じゃあ、だれが悪いの」
成田課長の嫌なところワーストツー。実質、一択の質問をしてくるところ。
「私です」
「じゃあ、素直に謝りなよ!」
コツコツコツコツコツコツ。
「・・・・・・ごめんなさい!」
課長はため息をついた。
「ほんと使えないね。毎回ごめんなさあいって謝るのはいいけど、結局またおんなじような・・・・・・」
成田課長の嫌なところワーストワン。
ボールペンの音。
コツコツコツコツコツコツコツコツコツ。
課長の机のペン立てには、当然のようにあずさのはさみが刺さっていた。
気が付くと、あずさは夜のオフィスでパソコンの前に突っ伏していた。びくりと顔を上げる。もう窓の外が暗い。
いかんいかん。このままでは土曜日なってしまう。
明日は会社の名前をしょって地域のボランティア活動に参加しなければならない、朝早かったはずだから、なるべく早く家に帰りたい。せめて日付が変わるまでには。
そう思って頬を両の手で張ると、再びパソコン画面に向き直った。今日中に二つ資料を完成させなければならない。
そこで、自分のデスクの上に、身に覚えのないアイスコーヒーが置かれていることに気が付いた。コンビニなどで売ってるストローを刺すタイプのチルドカップだ。
「へ?」
慌てて周りを見渡すと、すぐ隣の朱美先輩のデスクに男性社員が寄りかかっていた。あずさが作成していた資料の束を捲っている。
「四宮先輩。いたんですか?」
「うん。おはよう」
四宮先輩は黒縁眼鏡越しにあずさを見てにっこり微笑んだ。うちの課で売上トップの営業マンだ。
「燻製バルに行ったんじゃ・・・・・・」
「ああ。抜けてきた。よく考えたら、あずさちゃん、俺たちの仕事肩代わりしてくれてるんだもんね。そう考えたら酒飲んでられないなって」
あずさはぽかんと口を開けて四宮を見た。
「みんな、あずさちゃんに仕事押しつけすぎなんだよ」
四宮はため息をつきながら資料に目を戻した。
「あずさちゃんだってそう思うでしょ。新人にさせることじゃない」
四宮とは同じ課だが、これまで挨拶ぐらいしかしたことがない。売上ランク外のあずさとは同じ社員でも全く立場が違うのだ。
「し、仕方ないです。私、まだ商品売れてないし、それに、みんなの雑用を私がするのは課長のご指示ですし」
先月のこと。またしても虫の居所が悪かった成田課長は富士の水のことで散々あずさを責め立て、「給料泥棒」とまで罵倒したあと、オフィス全体に指示を出した。
「あずさちゃん、全然会社に貢献できてないからさ。皆の仕事分けてあげてよ。そうすればあずさちゃんもチームで働くってこと勉強できるしさ。会社の売上にも貢献できるでしょ。ほら、あずさちゃんからも皆にお願いして」
それから、あずさは自分の手柄には一切ならない同僚の雑務を次から次へと押しつけられることになったのだ。
「いや、普通に考えておかしいでしょ」
四宮はため息をついた。
「あずさちゃんもあずさちゃんだよ。こんな扱いされるんだったら、辞めちゃえばいいのに」
あずさはうつむいた。確かに、端から冷静に見たらそうだろうな。
「・・・・・・この会社、固定給は結構いいので・・・・・・」
「ん? ああ。確かに半歩合制ではあるけど、固定でもそれなりにもらえるか。でも、固定給だけじゃそこらの会社と全然変わらないでしょ。転職したら?」
あずさは黙り込んだ。
もっともな意見だが、そうできない事情があずさにはあるにはあった。
現在の日本では、就職する際には程度の差こそあれ、会社側は必ずと言っていいほど社員候補の経歴をチェックする。その際、どこの会社も候補者の氏名をネットの検索エンジンに打ち込むぐらいのことはするのだ。そして、そうすれば、「神城あずさ」の情報が瞬く間に出てしまう。高校の頃の騒動についてだ。それを見ればまともな企業はあずさを採用しようとしない。就職活動を気が遠くなるほど繰り返して、あずさは実感とともにそれを悟った。そんな中、唯一この会社だけがあずさの入社を認めてくれたのだ。
ここを辞めたらきっと行くところはない。どうせ成田課長もそのことを知っているから、あそこまで強くでてくるのだろう。パワハラと若手の離職が社会問題になっている現在、文句も言わないし決して辞めないあずさは最高のサンドバッグだろう。
卑怯者め。
「ごめん。踏み込みすぎたね」
沈黙してしまったあずさに、四宮は「コーヒー、どうぞ」と笑顔を作った。
「あ、すみません」
あずさは冷えたコーヒーにストローを刺して、一口啜った。カフェオレだった。甘味が腔内を満たし、ふうっと息をつく。
「疲れてるかなって思って、甘いのにしたんだけど、苦手じゃなかった?」
「はい。おいしいです」
四宮は「良かった」と微笑んで自分用に買ってきていたらしいブラックコーヒーにストローを刺した。もし、あずさが甘いのが苦手だったら取り替えてくれるつもりだったのかもしれない。
「・・・・・・あずさちゃんの資料、どれも見やすいよね」
四宮がストローを加えたまま、あずさのパソコンを覗いた。急に距離が近くなり、あずさはカフェオレを抱えたまま肩をすくめて縮こまった。四宮は気にしないようで、あずさのマウスで画面をスクロールする。
「そこらのやつのよりよっぽど整理されてる。きっちり読む側のことを考えて配置を工夫してるし、わかりにくいところには注釈を入れてくれてる。相当丁寧だよ。今朝の成田課長の打ち合わせだって、俺、参加してたけど、あずさちゃんの資料は完璧だった。どう考えても課長の進め方が悪かったんだよ。相手方の名前を言い間違えてたし」
そこまで言って、四宮くるりと振り向き、あずさの目をまっすぐ見つめた。
「あずさちゃんはがんばってるよ。すごくがんばってる」
あずさはカフェオレのストローをくわえたまま、四宮の優しげな瞳を見つめた。その顔が涙でぼやけていく。口が自然と歪んで、ストローを加えていられなくなった。ボロボロと涙がこぼれる。
四宮は「泣くことないよ」と笑いながら、あずさの頭をぽんぽんやさしく叩き、そっと撫でた。
「さあ、ちゃっちゃと片付けちゃおう。こっちの分は俺がやるから。ね」
あずさはこぼれ落ちる涙を必死に手の甲で拭いながら「はい。すみばせん。ありがとうございます」と頷いた。
二人でやると、作業はあっという間に終わった。オフィスを閉めたときにはまだ午後八時になったところだった。
「さあ。ちょっと遅くなったけど、華金だよ。あずさちゃん。飲みに行こうよ。いいとこ知ってるんだ」
そう言って四宮はあずさの手を引いて歩き出した。ちょっと強引なところが、少し、三島先輩に似ている気がした。
連れて行ってもらった隠れ家風のお店は、どの料理もお洒落すぎて緊張した。それに、四宮を前にすると、なんだか料理の味もよくわからなくなった。
その日、あずさは男性に食事を奢ってもらうという初めての経験をした。
帰宅したのは、明け方だった。
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