ダメだ。血が止まらない。

 俺は左の二の腕を握りしめた。親指と人差し指で締め付けるように。動脈の血の流れを止めるために渾身の力で挟み込む。

 だが、握りしめている数センチ下の傷口からは止めどなく血液が流れ出ていた。傷口を直接押さえ込みたかったが、そうはしなかった。したくても物理的に出来ないのだ。

 俺の左腕には矢が突き刺さっていた。

 カーボン製のその黒く軽い矢は、いとも簡単に俺の左の二の腕を貫通していた。その傷口からは早鐘のような俺の鼓動の動きに合わせてドクドクと血が湧き出し、肘を伝ってポタポタと落ちていく。その血が吸い込まれていく地面を踏みつけるようにして、俺は走った。

 見渡す限り、木しかなかった。走る地面はその木々の間を縫うような細い獣道。そんなあるかないかのあまりに細い隙間を、俺は全力で駆け抜けた。木々の間から差し込む夕日も頼りなく、足下はあまり見えない。

木の根に足が取られる。

 石に躓く。

 遮るように飛び出した木の枝に額をぶつける。

 そうやって何度も転びそうになる身体を、俺は力尽くで立て直し、走り続けた。

 体勢を崩す度に背中のリュックがガチャガチャと音を立てる。中には小さな救急バッグが入っていたはずだった。だが、取り出す暇など無い。

 木の幹に矢の先がぶつかりそうになり、慌てて身をよじった。そのついでに後ろを振り返る。

大丈夫。追ってきていない。

 唐突に視界が開けた。木の密集する地帯を抜けたのだ。とは言え、森が終わった訳では無かった。林道に合流しただけだ。走ってきた獣道よりは幾分かましな小道がフタマタに別れて伸びていた。分岐点なのだろう。恐らくそれぞれの小道の行き着く先を示すための看板が置かれていたが、あまりに古いために折れて朽ちて、根元の柱しか残っていなかった。

道なき道をかき分けていたのが、これまた寂れた小道にたどり着いた。ただそれだけの話であったが、道は道だ。朽ちた看板にさえ文明の息遣いを感じた。

俺は喜び勇んで林道に踏み出そうとした。その結果、目の前にある膝ほどもあろうかという一際大きな岩に気が付かず、足を取られて前のめりに転倒した。

とっさの判断で身体をひねって右肩から地面に転がった。しかし、完全には左腕をかばえず、腕から生えた矢の先が地面にぶつかり、傷口の中で暴れた。激痛に叫び出しそうになる口を歯を食いしばって押さえ込む。叫びになり損なった悲鳴がうめき声として引き締めた唇から漏れ出た。視界が涙でぼやけた。

長いこと整備されていないだろう林道の上で、俺は悶絶した。

地面に額をこすりつける。その地面は橙色に染まろうとしていた。日没が近い。

大丈夫。痛いだけだ。大丈夫。

俺は震える膝を血だらけの拳で殴りつけた。

立て。立つんだ。こんなところで止まっちゃ行けない。

逃げるんだ。

道を踏み固めるかのように足の裏を地面に押しつけ、俺はひと思いに立ち上がった。大きく息を吸い、吐いて、荒れた呼吸を無理矢理整える。

目の前にある折れた看板と、その両側に広がる二つの小道を睨み付ける。さあ、どちらに進むべきか。

「思ったより気骨があるやつじゃな」

 背後からの突然の声に俺は叫び声を上げた。慌てて振り向く。

 老人が座っていた。

 さっき俺が躓いた膝ほどの高さの岩にちょこんと腰掛けていた。老人は黒なのかカーキなのかいまいちわからない暗い色の雨ガッパをまるでポンチョのように身にまとっていた。しわだらけの顔はニコニコとした笑みを浮かべ、なんの覇気も迫力も感じられない。まるで庭先に座って七輪で餅でも焼いているかのようだ。まるで数時間前からそこに腰掛けて俺を待っていたかのような感覚にさえ襲われた。

 だが、数秒前まで、確実にそこにはいなかったのだ。

「今時の、不抜けたガキじゃ。どうせ子ネズミぐらいのもんじゃろうと思っていたが、ところがどっこい。矢を生やした身体でこんな所まで逃げてきよったか」

 老人はしわの一つに見間違うような細い目をすっとわずかに開いた。

「狐ぐらいには、なれるかのう」

 その瞬間、俺は戦慄した。

老人は何も持っていなかった。節くれ立った指は膝の間で軽く組み合わされているだけだ。だが、先ほどまで何でもなかった老人から、突如として膝が震えそうになるほどの脅威を感じた。真っ赤な夕日が、老人の骨と皮だけで出来たような横顔を不気味に照らしていた。

その静謐なまでの静かな威圧感に腰が抜けそうになる。だから俺は叫んだ。

「し、死んでたまるかああ!」

俺は尻ポケットに手を伸ばし、折りたたみナイフを取り出した。

片手で刃を取り出そうとするが、自らの血で指が滑って開かない。焦って爪を立てようとすると、ぬるりと手からこぼれ落ち、ナイフはぼとりと地面に落ちた。

目の前に落ちたナイフを老人が愉快そうに眺める。

そのナイフに向けて、俺は倒れ込んだ。端から見ればまるでゴロに飛びつく野球少年のようだっただろう。無様に腹を地面にこすりつけながら、俺はナイフを再び握りしめた。足をばたつかせながら、必死に立ち上がる。

「がんばるのう」

 自分の血液を小道にまき散らしながらもようやく立ち上がった俺は、手にしたナイフの突起に噛みつき、無理矢理に刃を引き出した。それを老人に向ける。

 老人は座ったまま、手を打って笑った。

「そうか! いいぞいいぞ! 角を向ける気概ぐらいはあったのか。よいのうよいのう。元気な牡鹿じゃ」

 さっきから何を言っているんだこいつは。

 俺は思考がまとまらなかった。視界もぐにゃぐにゃと歪んでいた。動悸が激しい。気持ち悪い。吐き気がする。まるで極限まで酒を飲まされたようだった。

それはそうだろう。ただ森を歩いていたら、突然に矢で射られ、追いかけ回され、どこからともなく現れた老人に狐だの鹿だの揶揄されているのだ。混乱しない方がおかしい。

「な、なんでこんなことするんだよ! なんなんだよ!」

 老人はすっと笑みを引っ込めて俺を見据えた。

「それはなあ。お前が気にすることではない。狩られる側が狩る側の事情なんて気にするものではない。お前はただ、自分のためだけに抗っておればよいのだ」

 意味がわからない。

 沈んで行く夕日の中、老人の姿も闇に飲まれていくようだった。

「安心せい。儂は半矢の獲物を追いかけ回す趣味はもっとらん。そんなちんけな角を振りかざさんでも、なんにもせんわい」

 敵ではない・・・・・・ ということか?

 だが、味方でもない。確実に。それぐらいは俺にもわかった。

「だがなあ。いいのか。さっきから大声を上げて騒いで、呑気にしとるが。いいのか?」

「え?」

「追いつかれるぞい」

 次の瞬間、背中に衝撃が走った。一瞬、体勢を崩してたたらを踏む。何事かと振り向いて俺は目を見張った。

 リュックサックの側面に、新しい矢が貫通していた。あと十センチもずれれば肩や首に突き刺さっていただろう。

 慌てて背後に向き直る。

 十数メートル先だろうか。雑木林がガサガサと揺れている。

「それ見たことか」

 俺は走り出した。とっさの判断で二つの林道のどちらにも進まず、脇の雑木林に飛び込んだ。

「そうじゃそうじゃ! 走れ牡鹿! ほれほれ!」

 老人の笑い声が背後から響く。

日がほとんど没し、木々の間はもうほとんど視界が通らない。そんな中、俺は手探りで、進んだ。

まだだ。まだ死ねない。

鋭い風音とともに顔のすぐ側を矢が通り過ぎたのを感じた。目の前の木に突き刺さった矢がビイィンと音を立てて振動しているのを横目に走り抜ける。

状況は飲み込めない。絶望的なことだけはわかる。

でも、まだ死ねない。俺は、ここで、こんな風に死ぬわけにはいかないんだ。

腕に刺さった矢の先が何度も木の幹にぶつかる。その度に激痛が走る。

俺は、生き残るんだ。

右の太ももに衝撃が走った。手で探ってすぐに悟る。新たな矢が我が身に突き刺さっているのを。

俺は悲鳴をかみ殺して、目の前にある太い木にしがみついた。崩れそうになる身体を必死に持ち上げ、体勢を立て直す。俺はうなり声を上げた。そして、右足を引きずりながら、それでも暗闇を進み続けた。俺は生きるんだ。生き残るんだ。生きて家に帰るんだ。


誰が、あきらめるものか。


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