影の解放

藍沢 理

影の解放

 僕は自分の影が自分の意志とは無関係に動き始めたことに気づいた。


 いや、正確に言えば、僕の身体の動きに常に追従していたはずの影が、ある日突然、僕の意図とは全く異なる動きを見せ始めたのだが、この現象は単なる錯覚や幻覚とは明らかに異質で、むしろ自己の一部であるはずの影が、独立した意識を持つ別個の存在へと変貌を遂げたかのような、奇妙かつ不可解な体験であり、例えば僕が右手を挙げれば影は左手を挙げ、僕が前進すれば影は後退し、時には僕が静止していても影だけが踊りだすといった具合に、その変化は些細でありながらも、僕の存在そのものの在り方を根本から覆しかねない可能性を秘めていて、この状況は、デカルトの心身二元論を更に推し進め、身体と精神に加えて影という第三の要素が独立した意志を持つという、存在論的な枠組みの再構築を迫るものだったのかもしれない。


 この奇妙な現象に気づいてから、僕は必死に自分の影の動きを観察し、何らかの法則性や意図を見出そうと試みたのだが、影の行動にはどうやら一貫した論理が存在せず、時に僕の内なる欲望や抑圧された感情を表現しているかのように見え、またある時は全く無関係な、あるいは僕にとって未知の概念や行動を体現しているかのようで、まるで影が僕という存在の「もう一つの可能性」や「別の世界線における自分」を表現しているかのような状況に陥り、これはユングの言う「影」の概念、即ち意識下に抑圧された自己の別の側面が、文字通り影として具現化したものなのか、あるいは多世界解釈による並行世界の自分が、何らかの量子力学的な現象によって僕の影として顕在化したのか、どちらにせよ僕の「本当の自己」というものが果たして存在するのか、あるいは僕自身のアイデンティティとは何なのかという根源的な問いに直面せざるを得なくなり、この状況は単なる恐怖体験を超えて、自己同一性に関する存在論的な不安と呼ぶべきものに変貌していったのだった。


 さらに奇妙なことに、僕以外の人々は自分たちの影が独立して動いていることに全く気づいていないようで、僕が違和感を覚えた影の動きについて尋ねても、彼らは何の疑問も持たずに「それはあなたの影ですよ」と当然のように答え、これは僕だけが何らかの特殊な知覚能力を得てしまったのか、あるいは逆に、僕以外の全人類が自分の影の独立性に気づかないようプログラムされているのかという、どちらに転んでも不気味な仮説を立てざるを得ず、この状況は社会学的に見れば、個人の独自性や自由意志と、社会の同調圧力や規範との間の軋轢を、影という形而上学的な存在を通して表現しているとも解釈でき、そうなると僕の影の独立性への気づきは、実は社会の抑圧的なシステムからの一種の覚醒や解放を意味しているのかもしれない。しかしその「解放」が果たして望ましいものなのか、それとも社会の秩序を脅かす危険な逸脱なのか、その判断すら困難な状況に陥っているのだった。


 この「影の解放」は、日を追うごとに更なる複雑さを帯びていった。例えば、ある日僕は自分の影が他人の影と交信しているような光景を目撃したのだが、これは単なる錯覚ではなく、むしろ影たちが独自のネットワークを形成し、人間社会とは別の次元でコミュニケーションを取り合っているかのようであり、この現象は量子もつれの概念を想起させ、我々の認識を超えた次元で情報のやり取りが行われている可能性を示唆していた。


 さらに驚愕すべきことに、僕の影が時として他者の行動を予測し、あるいは操作しているかのような事態も発生し始めた。例えば、僕が道を歩いていると、すれ違う人の影が僕の影に反応して突然動きを変え、その結果としてその人物が予期せぬ行動を取るといった具合だ。これは単なる偶然の一致を超えて、影たちが人間社会に何らかの影響力を行使し始めているのではないかという疑念を抱かせるに十分であり、我々が「自由意志」と呼んでいるものの実体が問われる事態となっていった。


 今や僕は、毎日の生活の中で、自分の意志で動く身体と、独立して動く影という二つの存在を同時に操作し、あるいは共存させていかなければならない状況に置かれており、時には影の行動が僕の社会生活に支障をきたしたり、逆に影の行動によって思わぬ利益や洞察がもたらされたりと、影との関係性は日々流動的に変化し続け、この状況は人間と人工知能が共存する近未来社会を先取りしたような、あるいは人類の次の進化段階を示唆するような様相を呈しており、そして最も不安を掻き立てられるのは、もしかしたらいつの日か、影の意志が僕の身体をも支配し、今の僕はむしろ影のような存在になってしまうのではないかという可能性であり、その意味で、この文章を書いている今この瞬間こそが、僕にとって唯一確かな「自己」なのかもしれず、そしてあなたがこの文章を読んでいるその瞬間もまた、あなたにとっての唯一の「自己」なのかもしれない。


 そして、この「影の解放」が社会全体に波及した場合、我々の文明はどのような変容を遂げるのだろうか。例えば、政治の場面では、政治家たちの影が彼らの本音や隠された意図を暴露し始め、外交交渉は表の会議と影の会議が並行して行われるような事態も想像でき、経済においては、市場の動向が人間の意思決定ではなく、影たちの密かな取引によって左右されるかもしれず、教育の現場では、生徒の影が彼らの潜在能力や本当の興味を表出させ、従来の画一的な教育システムの限界を露呈させるかもしれない。


 そう考えると、この「影の解放」は単なる個人的な怪奇現象ではなく、人類社会全体の在り方を根本から問い直す契機となる可能性を秘めているのだ。我々は今、自己と他者、意識と無意識、現実と虚構の境界が溶解していく中で、新たな存在様式を模索することを迫られているのかもしれない。そして、この過程で我々が直面する恐怖や不安こそが、真の意味での存在論的危機なのではないだろうか。


 影が完全に解放された世界、それは我々の想像を遥かに超える複雑さと深遠さを持つものになるだろう。そして、その世界で我々は果たして「人間」であり続けることができるのか。この問いこそが、最も根源的で最も深遠な難題なのかもしれない。



=了=

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