存在の歪み

藍沢 理

存在の歪み

 僕は鏡を見ることに奇妙な不安を覚えるようになった。いや、正確に言えば、鏡に映る自分の姿が本当に自分なのかどうかという実存的な疑念に取り憑かれてしまったのだが、この戦慄は通俗的な幽霊譚や怪奇小説から湧き上がる恐怖とは似て非なるもので、むしろ自己の存在そのものに対する根源的な懐疑と言うべきだ。


 太古の昔から人類は水面みなもに映る自らの姿を通して己の容貌を認識してきたものの、現代では銀箔を施した平滑なガラス、即ち鏡によって全身を鮮明に映し出すことが可能となったにもかかわらず、この光学的装置が果たして真に僕たちの実相を映し出しているのかという問いに囚われ、幾夜も安寧な眠りを得られぬまま、混沌とした思考の渦に飲み込まれていったのだ。


 深夜、僕は不意の覚醒に促され、洗面所へと足を向けたのだが、薄暗い蛍光灯の下で鏡に映る自分の姿に異様な違和感を覚え、一筋の髪の毛、瞳の輝き、肌の質感など、確かに自分のものだと認識できる要素が散りばめられているものの、それらが集積して形成される全体像には何か言い難い不協和音が潜んでいるような気がして、凝視すればするほど、不可思議なことに鏡の中の僕が微動だにせず、現実の僕の動きとは独立して存在しているかのような錯覚に陥り、震える手を伸ばして鏡面に触れようとした瞬間、鏡の中の僕も同じ仕草を模倣し、指先が接触しそうになった刹那、僕は思わず目を閉じ、心臓の鼓動が耳朶を打つのを感じたのだった。


 この体験は、単なる錯覚や幻覚とは明らかに異質で、むしろ現実そのものの裂け目を垣間見てしまったかのような、奇妙かつ不可解な出来事であり、例えば量子力学における観測問題や、多世界解釈を持ち出すまでもなく、僕たちが「現実」と呼んでいるものの脆弱性や、意識と物質世界の関係性の曖昧さを示唆しているようにも思えた。


 さらに言えば、この現象は単に個人的な体験を超えて、人類全体の存在様式や、僕たちを取り巻く世界の本質に関わる根源的な問いを投げかけているのかもしれない。


 翌朝、僕は書斎に籠もり書を繙いていると、デカルトの「我思う、故に我あり」という命題に出くわし、深遠な思索の淵へと誘われたのだが、鏡に映る自分の姿は果たして真の自己なのか、それとも別個の意識を持つ存在なのではないか、僕の思考が僕の実在を証明するのなら、鏡の中の僕もまた思考し存在する主体なのではないか、鏡の彼方にもう一人の自己が実在するとしたら、僕たちはいかにして自己の独自性と同一性を主張し得るのかという難問が、僕の精神を蝕み続け、鏡を目にする度に自己の存在の真正性を疑わずにはいられなくなり、かといって鏡を見ることを避ければ自己の外観を確認する術を失うというジレンマに陥り、こうして僕は存在と認識の狭間、現実と虚像の境界線上で彷徨うことを余儀なくされ、鏡は単なる映像を映す道具から、僕の存在の根幹を揺るがす形而上学的な装置へと変貌を遂げてしまったのだ。


 そしてある日、僕は恐ろしい仮説に思い至った。もし鏡の中の「僕」が、実は本来の「僕」であり、鏡の前に立っているこの「僕」の方が虚像だとしたらどうだろうか。この思考実験は、単なる思弁的な遊びを超えて、僕の日常生活にも影響を及ぼし始めた。鏡の前で歯を磨く際、ブラシを動かしているのは鏡の中の「僕」なのか、それとも鏡の前に立つ「僕」なのか、もはや判然としなくなり、ときには歯磨き粉の泡が口から溢れ出るまで、動作を止められなくなることがあった。


 さらに不気味なことに、鏡の中の「僕」が、僕の意図とは無関係に動き始めたように感じられる瞬間が増えていった。それは微細な表情の変化や、僅かな身体の動きなど、一見些細な違和感に過ぎなかったが、それらが積み重なることで、鏡の中の「僕」が独立した意識を持つ別個の存在へと変貌を遂げつつあるのではないかという恐怖が、僕の心を支配し始めたのだった。


 今や僕は鏡を目にする度に、微かな恐怖の震えとともに深遠な思索の渦に巻き込まれ、鏡に映る僕の姿は真に僕自身なのか、あるいは別次元に存在する分身なのか、この問いへの答えは未だ見出せぬまま、むしろ日毎に複雑化し深化の一途を辿り、僕はこの存在論的な迷宮から抜け出す術を見いだせないまま、鏡の中の自分、いや、もう一人の自分と向き合い続けているのだった。


 時折、鏡の中の僕が僕よりも一瞬早く動いたような、あるいは僕とは異なる表情を浮かべたような錯覚に襲われた。


 最も恐ろしいのは、この「鏡の中の世界」と「鏡の外の世界」の境界が、徐々に曖昧になっていく感覚だ。時として僕は、自分が鏡の中に入り込んでしまったのか、それとも鏡の外に出てきたのか、もはや判断がつかなくなることがある。この存在論的な不確実性は、僕の日常生活のあらゆる側面に影響を及ぼし始め、他者との会話においても、自分が本当に「ここ」にいるのか、それとも別の次元から会話に参加しているのか、確信が持てなくなってきたのだ。


 今、この文章を書いている僕もまた、鏡の中の存在なのか、それとも鏡の外の存在なのか、もはや断言することはできない。そして、あなたがこの文章を読んでいるその瞬間もまた、あなたは本当に「そこ」にいるのだろうか。僕たちは皆、自分自身の影とも言うべき「もう一人の自分」との永続的な交渉と共存の中で、刹那的な「自己」を生きているのかもしれない。そして、この存在の不確実性こそが、最も根源的で、最も深淵な存在論的恐怖なのかもしれないのだ。




「あっ、田中くん! タブレット持ち込んじゃダメですよ?」


「す、すいません。執筆が捗っちゃって……。今日は親が来る日なんで、持って帰るようにお願いしておきます……」


「……」


「ほんとすみません!」


「はぁ……わかったわ。中学校一年生なのに、中二病で入院してるんだから……あまり問題起こさないでくださいね……」




=了=

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