海獣王と流れ星の賢者

武蔵

プロローグ

 ふと気づくと、べっとりとした黒の絵の具を一面にひっくり返したような、漆黒の夜空の向こうに赤く光る月があった。それはとても怪しくも神秘的な光だった。

 目線を少し下にやると、どこまでも続いている水平線があった。海なのか湖なのかも分からない水面が広がっていて、光の粒が波で緩やかに揺れていた。

 水面には陸地は見えず、ただ一様な景色が流れていた。俺はおそらく空を飛んでいる。おそらく、というのは体の感覚が何もないからだ。体がなく、俺はただの「視点」だけの存在になっていた。

 夢を見ているにしてはあまりにリアル過ぎる。ここはどこだ。直前の記憶を呼び起こそうとすると、とてつもない疑問にぶち当たった。

 。地球の日本という国に生まれた。ここまではセーフだ。しかし、誰から生まれて、名前は何で、どうやって生きてきたのか、まるで分からない。今まで生きてきた世界ははっきりと認識しているというのに、まったくもって、もどかしい。

 かれこれ体感で数十分、景色は何も変わらない。見慣れない赤い月――そもそもあれが月であるかも怪しいものだ。

 これはもしかして、異世界転生というやつかもしれないな。もやもやとした思考の中、俺は答えにたどり着く。

 異世界転生というのはライトノベルによくある、現代日本で暮らしている主人公がなんらかの理由で死亡した後、ゲームのような剣と魔法のファンタジー世界に転生するという夢のある話だ。まさか自分がその主人公になるとは……そう思うと少しワクワクしてくる。


 しばし空を漂っていると水面に変化が現れた。初めは水平線に現れた白い小さな塊にしか見えなかったが、それは巨大な流氷の大地だったのだ。

 南極か北極か、極地にたどり着いたのだろう。とても寒そうだが、今の俺はただの「視点」だから、本当に寒いのかは分からない。

 しかし、ここは本当に極地なのだろうか。異世界である以上、地球と何から何まで同じである訳がない。世界は丸い形をしているのか、おとぎ話のような平面の形をしていることだってありうる。仮に地球と同じような惑星だったとしても、もしかしたらガリレオ・ガリレイが否定した天動説が成り立っている世界かもしれない。

 とりとめのないことを考えていると、流氷の一片の上、一匹の海獣(アシカが人型を成したかのような奇妙な生き物)がこちらを見据えていることに気付いた。

 俺の意思とは関係なく、海獣をめがけて俺は飛び続ける。ああ、俺は奴になるんだなと直感した。


 流氷がどんどん近づき、海獣の姿が段々と分かってきた。アシカが人型を成したかのような奇妙な生き物というのは、我ながら言い得て妙な例えで、筋骨たくましい体にたっぷりの脂肪の鎧と、獲物から剥いだとみられる毛皮をまとった勇ましい姿だ。

 黒の毛並みは艶々と月の光を反射していて、まだ若い個体なのだろうとは思う。一見いかめしいが、よく見ると可愛げがあるつぶらな目をしている。顎周りは少し毛が伸びていて、ちょっとしたタテガミのようだ。


 間もなく俺は海獣の体へ吸い込まれていった。視界がホワイトアウトし、眼前に透明なパネルが現れ、文字が浮かび上がる。おそらく異世界言語だが意味はなぜかはっきりと分かる。


【個体名】ガロ

【種族】亜人(海獅子族)

【性別】男

【年齢】15

【加護】水神メルクレード

【能力】力強さD / 器用さE / 身の守りD / 素早さF / 魔力G / 魔力耐性F

【スキル】海獣の拳術 / 槍の使い手 / 狩人 / 環境適応


《異界の魂が個体名、ガロと接触。個体名、ガロがスキル【星の記憶】を取得しました》


『マジでゲームの世界なのかよ!』


 AI読み上げソフトのような無機質な女声のアナウンスに、そんな心の声を上げてしまった。異界の魂が俺のことかな。ということはやはり異世界転生確定だろう。

 異世界言語を初めから理解できるというのはよくある話だ。肉体が持っていた記憶と結びついたとかね。あと、能力欄に魔力とあるからには魔法がある世界だろうな。でもGだから、あまり才能はなさそうだ。残念、魔法を使ってみたかったけどな。

 それにしても情報の氾濫がすさまじい。とりあえず、ガロさんとやら、体を動かさせてもらうよ。


 俺はホワイトアウトした視界を元に戻そうとした。しかし、意識と体がつながっていないのか、まるで手ごたえがない。空を飛んでいた時と同じように体の感覚が何もないのだ。しばらく体を動かそうと頑張ってはみたものの、どうやら無駄のようだ。

 そう認識すると、どっと疲れが出てくる感覚がした。ここまで色々ありすぎた。なんとも懐かしい、眠たいという感覚に、俺は身を任せることに決めた。


 ◆


 いつまで眠っていたのだろうか。うっすらと俺の目が開く。

 昆虫のような羽の生えた可憐な小人が枕元で、うとうとしていた。それはまさしく、ファンタジー世界における妖精であった。他に特徴を上げるとすれば、頭からぴょんと飛び出した触覚のようなもの、胸元の赤い核のようなものであろう。地球にいた時に水族館で見た、クリオネという生き物になんとなく似ている。

 クリオネは儚げなイメージであるが、捕食時はバッカルコーンという触手を頭部からいくつも出し、獲物から栄養をすするのだとか。この可憐な妖精も食事の際は恐ろしい姿を見せたりするのであろうか。

 何も分からないから慎重に動かねば。俺は床から出ようとしたが、覚醒しているにも関わらず体は動かない。何かの術をかけられているのであろうか。緊張が走る。


「レイン。僕はどうしてここに……」


 あれ? 俺の体が勝手に喋っている。元々、この海獣の体ではあるが、どうやら俺に体を動かす権利はないらしい。


「やっと起きてくれた! お腹、すいてるでしょ? そこのテーブルに干し肉あるよ。私、族長に知らせてくるから!」


 レインと呼ばれた妖精は弾かれたように飛び出していった。


 記憶を呼び起こし、少し考えた後、俺は悟った。


《異界の魂が個体名、ガロと接触。個体名、ガロがスキル【星の記憶】を取得しました》


 俺はスキルに異世界転生してしまったのだ。

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