1560年part2 新たな戦い

1560年、桶狭間の戦いで大勝利を収めた信長は、その勢いを駆ってさらなる行動に出た。この時期、織田家の勢力を広げるために重要だったのは、美濃への進攻だった。しかし、信長の計画には多くの障害が立ちはだかり、その一つが織田信清の離反だった。


信清は、信長の従兄弟であり、尾張国の犬山城を守る一族の長であった。信清は当初、信長の側についていたが、桶狭間の戦いでの信長の成功を見て、彼の力が自分にとって脅威となることを恐れた。信清は独自の道を選び、信長から離反し始めた。信長にとって、尾張国内での統制が崩れることは許されず、信清の動向に神経を尖らせることになった。


この状況下で、信行は兄信長と共に、尾張国内の統治を強化し、信清の動きを封じ込めるための対策を講じた。信行は信長と密接に連絡を取り合い、犬山城周辺の情報収集を行い、信清の反乱を未然に防ぐための戦略を練っていた。信長は信行の助言を受け入れ、信清の離反を抑えるための方策を模索した。


同時に、信行は美濃国への進攻計画も進めていた。桶狭間での勝利を機に、美濃国を支配する斎藤義龍を討ち、さらに織田家の領土を拡大することが次の目標だった。信行は美濃国への侵攻に際して、織田軍の兵力を効率的に分散させ、義龍の防衛線を崩すための準備を進めた。


信清の離反に対応する一方で、信行は美濃国の内部事情にも目を光らせていた。義龍の統治下で不満を抱える美濃の家臣たちに接触し、織田家に協力するよう働きかけた。信行は、義龍が抱える内部の問題を利用して、美濃国を内部から揺さぶろうと考えた。この戦略は、義龍の勢力を削ぎ、織田軍が美濃国に進軍する際に有利に働くことを狙ったものであった。


信行と信長の計画は順調に進み、織田軍は美濃国への侵攻を開始した。しかし、信清の動きが完全に封じ込められたわけではなく、尾張国内での不安定な要素は依然として残っていた。信長は美濃国への攻勢を強化しつつ、信清の動向にも目を光らせる必要があった。


5月23日、松平元康(後の徳川家康)が岡崎城に入城し、今川家から独立する動きを見せた。この出来事は、信長にとっても信行にとっても大きな意味を持っていた。松平家との同盟を結ぶことで、織田家は東側の脅威を減らし、美濃国への進軍に集中できるようになった。信行はこの同盟の重要性を理解し、松平家との関係強化に尽力した。


その後、信長は再び美濃国への侵攻を図り、西美濃・安八郡に攻め入った。この攻勢は、義龍にとっても脅威であり、彼は南近江の六角氏と同盟を結んで対抗策を講じた。信行はこの動きを察知し、義龍と六角氏の連携を断つための戦略を練り始めた。


8月には、松平元康と水野信元が石ケ瀬(現在の大府市)で戦いを繰り広げ、信長も再び美濃国に侵攻した。しかし、義龍の防御は依然として強固であり、織田軍は思うように進展できなかった。信行は、義龍の勢力を削ぐためのさらなる策を講じる必要があると考え、美濃国境付近での小競り合いに慎重に対応するよう信長に助言した。


信長は、義龍との戦いで大きな勝利を得ることができなかったものの、彼の戦略と信行の助言によって美濃国への圧力を継続的にかけることができた。この時点で、美濃国は織田家の次なるターゲットとして確実に視野に入っていたが、信行は義龍との戦いが一筋縄ではいかないことを十分に理解していた。


信清の離反、美濃国への侵攻、そして松平元康との同盟。1560年は、信行にとっても織田家にとっても非常に忙しく、重要な一年であった。信行は信長と共に、織田家の未来を見据えた戦略を着実に進めていたが、この時点ではまだ多くの困難が待ち受けていることを感じていた。それでも、信行は兄を支え、織田家をさらなる高みへと導くための決意を新たにしていた。

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