The Mars
タイヘイ
前編 Stray Cats
「ごめんなさい!!」
バサッと黒く艶やかな髪が垂れる。
校舎裏に呼ばれてきてみれば開口一番謝罪が飛んできた。人気のない場所によく響く声量は俺を十分に面食らわせた。
幼稚園から高校まで寄り添ってきた俺の幼馴染で元カノ。
彼女は頭を下げたまま、
「許されないのはわかってる。でも二人には言っておきたかったの、私」
「やめてよ」
俺の側に立つ今カノ、
「浮気しておいてさ。しかもあんた言ったよね「話しかけないで」って。それが何? あの男がいなくなったら復縁できるとでも思ってんの? 今更よ、ふざけないで!」
「ちが……ッ、元の関係に戻りたいんじゃなくて」
「とにかく謝罪は聞いたから。もう行こ」
強引に腕を引っ張られ抗うこともなく俺は愛菜とその場を去る。
摩耶花に対してかつての恋人あるいは幼馴染としての情がかすかに生まれ、後ろ髪を引かれる思いはあった。が、自分から言いたいことは何も浮かばなかった。
その場に一人取り残された摩耶花の表情は校舎の影に隠れて見えなかった。
■
一ヶ月前の春先。
俺は愛菜とショッピングに出かけた。本来なら摩耶花と繰り出すはずが別に用事ができて行けなくなったとのこと。バレンタインあたりから二人でデートする頻度は減っていった。部活などで忙しいのだろうとよく考えず彼女の都合を優先させた。
恋人として付き合ってそろそろ一年、これが倦怠期というやつだろうか。
何気なく愛菜に相談してみた。
「じゃあさ、摩耶ちゃんとの交際一周年記念にプレゼント買っておこ。あの子の好みなら親友の私が熟知してるから」
自信満々な愛菜に先導され店を回り、装飾品か実用品かと相談しあい摩耶花にとっては趣味と実益の兼ねた一品を選んだ。
途中同級生と遭遇し、「摩耶花がいながら浮気〜?」とからかわれたのには参った。俺たち幼馴染三人の仲は同学年には知れ渡っているだろうに。
愛菜が寂しそうに目を伏せたのをこの時の俺は気づけずにいた。
散々歩いたせいで二人とも疲れていた。降りるはずの駅を寝過ごし、終点まで電車に揺られた。
そこは学生はあまり寄らないホテルが並ぶいわゆる夜の街だった。苦笑しながら電車を乗り換えようとしたら、愛菜が買い物袋を落とし、ありえないものを目撃したように固まっている。彼女の視線の先を追う。
ホームからわずかに見えるラブホテルの軒先にセミロングの黒髪。摩耶花がいた。
傍にいる整った顔立ちの男には覚えがある。確か摩耶花の所属している部活の先輩。女子人気が高く、部の活動でよく組むと摩耶花が説明していた。
その男と摩耶花、互いの顔が近づく。目を瞑り長い間口づけを交わす二人。
ようやく顔を離した摩耶花の惚けた姿に胃の底が逆流した。
愛菜に手を貸してもらわなければ自宅まで帰れなかっただろう。
俺とはキス止まり、まだ繋がったことはない。俺たちはまだ高校生。卒業までの我慢と両者合意の上だ。なのに恋人とは違う男に身体を許したのか。いったいいつからあの男とそんな関係に。高校入学時に告白しOKをもらってから今日までの日々が走馬灯のごとく駆け巡る夢を見た。
翌日。
俺たち三人はいつも通学の際同じ駅で待ち合わせをしている。摩耶花は最後にやってきた。昨日俺たちが目撃したことなど知らず手を振り近づくも、顔が土気色になっている俺と歯を軋ませ唇を結ぶ愛菜に気圧され、歩みが遅くなる。
「昨日はずっとあの男とホテルにいたのか」
力無い俺の問いに、全てを悟った女は震え出した。
「あれは、その、先輩にちょっと相談に乗ってもらって、部のこととか、進路とか、あ、あ、あと」
うわ言のように呟く姿はとても見れるものではなかった。長い付き合いだからこそわかる、このまま彼女は中身のない言い訳しか口にしない。
これでは会話にならないと判断した俺と愛菜はホームに入ってきた電車に乗り込む。発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。ホームに立ったままの女を置き去りにして電車に揺られる。側にぴたりと愛菜がいてくれなければ倒れてしまいそうだった。
クラスは三人同じだったが、声をかける事はなかった。あちらからも近寄ってはこない。電話とSNSをブロックしてはいないが、なんの通知も来ない。いつも三人でいる俺たちに見慣れていた同級生たちからあれこれと事情を聞かれたがはぐらかした。三日もしないうちに周りは静かになった。
その平穏もすぐに打ち破られた。
「おい摩耶花! 帰っぞ!」
放課後、教室に現れた男は摩耶花の腕を掴み上げた。ラブホ前にいたあいつだ。やや乱暴な行動につい反応してしまった。ガタっと席を立った俺に先輩はにやけた面で、
「あー幼馴染くん、じゃなくて元カレくんか。摩耶花はもう俺の女だから。近寄るなよ」
そのまま摩耶花に顔を近づけ何か耳打ちした途端、摩耶花から表情が消えて、
「そう言うことだから……。もう話しかけないで」
先輩に連れて行かれる間際、ごめん、と唇が動いた気がした。二人が去ると教室にざわめきが広がる。
「……帰ろ」
愛菜にそう言われなければ陽が落ちるまで机から離れなかっただろう。
付き添われながら自宅に戻り、自室のベッドに倒れるように沈んだ。横に腰掛けた愛菜が眉を寄せて、「摩耶ちゃんだから譲ったんだよ」と口にした。聞き違いかと上半身を起こすとこちらを見る目尻に涙が浮かんでいた。
「私だって、あなたが好きだった。でも摩耶ちゃん……摩耶花とあなたはすごくお似合いで、二人が幸せになってくれるなら、て。だから私、身を引いたのに」
咽び泣く愛菜を落ちつかせるように抱きしめた。
その気持ちに気づかず良き友人として接していた自分自身に腹が立った。健全ではない活力が生まれたことでなんとか自分は持ち直すことができる。愛菜に支えられるだけじゃない、支えあっていきたい気持ちが芽生えた。
それから愛菜との距離を徐々に近づけながら学校生活を送っていた。摩耶花は休みがちになっていった。
嫌な噂話ほど耳に入ってくる。例の先輩は素行不良で有名だった。女は取っ替え引っ替えして当たり前。夜間に柄の悪い連中とつるむ目撃談もあがっている。
そんな黒い噂しかないやつになぜ摩耶花は付き合うのか。
元々押しに弱く褒められると調子に乗る性格が災いしたか、ふと心配になったがすぐに頭を振る。
あいつは自らついていった。もしもトラブルになったら、すぐに俺たちに相談するはずだ。
ある日の夕食時、親から摩耶花が最近家に来ていないがどうしたのか聞かれ、簡潔に別れたことを話した。厳密には浮気されたのだが自分が惨めになり話が厄介なことになりそうなのでその件は黙っておこう。親同士付き合いがあったせいかなかなかにいたたまれない空気になった。
どうやら摩耶花の母親が最近娘の帰りが遅いので心配し俺になにか知らないか聞いて欲しいと言われたようだ。あいつもまだ親に破局したことを伝えていなかったらしい。今頃先輩としっぽりやってるだろうなと考えたら食欲がみるみる減っていった。
箸を起き、母親に一つ頼み事をしてみた。愛菜と選んだ摩耶花へのプレゼント。摩耶花の親を通じて渡しておいてもらいたいと。俺からの贈り物とは知らせずに。直接自分から渡す気にはもうなれなかった、さすがにゴミとして捨てるのは気が引ける。
情事を目撃してから二週間後。
愛菜と自宅で映画のサブスクを堪能し、通常の番組にチャンネルを変えた。感想戦が始まり以前よりも気が合うことを実感し、どちらからともなく顔を近づけた時だ。
テレビに薬物所持で逮捕された男のニュースが流れた。表示された写真に唖然とした。
「こいつは……」
摩耶花の先輩だ。彼は年齢的に成人していたらしい。夜のクラブで違法薬物を売買していたところ現行犯逮捕されたようだ。
学校は蜂の巣を突いた騒ぎになった。
摩耶花はいつも通り登校してきた。彼女が教室に入った途端、クラス全員の注目を集めた。傍目にわかるくらいびくびく震えながら椅子に座る。先輩が捕まった件はもう広まっている。ひょっとしたら彼女もクスリを? そこだけ台風の目になったように誰も彼もが彼女から遠ざかる。始業前に担任が摩耶花を呼び出し、彼女は席を離れた。同級生たちの動揺が波紋となってそこかしこに生まれる。俺と愛菜は他と同様に事態の推移を見守るしかなかった。
摩耶花は薬物、事件性のあることに関わっていなかった。先輩が売買をしていたその日、彼女は違う場所にいた。バイトをしていたらしい。摩耶花母を通じて俺の母親からの情報である。付き合っていた時はバイトのことなど知らなかった。最近始めたのかもしれない。ちなみに摩耶花母にも俺との交際関係が終焉を迎えたことは伝わっていた。
犯罪に手を染めてはいない、そこまで堕ちてはなかったことに安堵しつつもこれからの彼女の生活に暗澹たる思いにさせられた。
案の定クラス中、特に同学年の女子からは俺から犯罪者に乗り換えた尻軽と陰口を叩かれ、男子からは少なくない額で身体を売ってくれる女と出所不明の情報により好奇の目で追われている。教員たちはこれ以上問題が起きないように努めているのが手一杯で彼女の精神的ケアにまで至っていない。
教室にいる間、蛇の群れに放り込まれた蛙のように摩耶花は身を縮こませていた。
元々俺と愛菜以外との付き合いは薄い、親しいと呼べる間柄の生徒は摩耶花から距離を置いた。
部活もやめたようだ。部そのものも件の先輩が所属していたので活動禁止状態になった。
そして騒動の余波が弱まりつつあるGWが差し迫った放課後、冒頭の謝罪に至る。
■
あの謝罪から四ヶ月経った。
今年も殺人的な酷暑だった。嫌でも地球温暖化を意識せざるを得ない。
夏休みのほとんどは愛菜との時間に費やした。学生らしい節度ある交際を心掛け、彼女もそれに応じてくれた。
摩耶花とは一切連絡をとっていない。一ヵ月以上も彼女の姿が視界に映らない生活なんて一年前は思いもしなかった。
あの謝罪後、摩耶花は明確に俺たちと距離を置くようになった。時折、悲しそうにこちらの様子を窺っていたが、日が経つにつれて、哀愁を帯びた視線を感じなくなった。
愛菜は言い過ぎたことを後悔しているらしい。
夏休みに入る前あたりから摩耶花に話しかけようと逡巡している姿を何度か見かけた。が、俺とのことがあった手前、結局話せずじまいになっているようだ。
俺も何度か摩耶花に声をかけようとしたが、その度に裏切られた気持ちがぶり返し、尻込みしてしまう。
もう、昔のように三人並んで登校することはない。
そんな直感があった。
薬物事件は学校側による死に物狂いの鎮火活動で世間から忘れられつつある。
皆、摩耶花に対して興味が薄れたのか誹謗中傷はほぼ途絶えた。それだけが俺と愛菜をホッとさせてくれる。
休み明け久しぶりの登校で浮かれている空気の教室に入ってきたそれは、クラス全員の度肝を抜いた。
摩耶花がドアを開け、教室に足を踏み入れる。
目を引いたのはその頭。
血をそのまま浴びたかのように真っ赤な頭髪。艶のあった黒髪の痕跡が微塵もない。
事件直後とは違い、周囲に怯えてはいない。周りの誰も気に留めず堂々とした佇まいは休み前の彼女とはまるで別人。そのまま席に座り、鞄から本を取り出しページを捲る。有名な作家の詩集。摩耶花の部屋にあった本だ。それのおかげでかろうじて彼女は摩耶花だと認識できた。
「なに、あれ」
愛菜はイメチェンどころではない変貌を遂げたかつての親友に唖然としている。俺も気持ちは同じだった。
休み前と変わらず摩耶花は俺たちのほうに見向きもしない。
新たな混沌にまた心穏やかではいられなくなった。
その日の授業が終わり、生徒たちはそれぞれの放課後を迎える。
摩耶花は黙々と鞄を整理して教室を後にする。
俺は愛菜にアイコンタクトを送り、去っていく摩耶花のあとを追い始めた。
昼休み、摩耶花の様子にただならぬものを感じた愛菜は「もしかしてなにか事件に巻き込まれているのかも」と不安を吐露した。絶縁に近い台詞で突き放したものの幼い頃からの仲だ。無下にはできない。
学校が終わったら俺があとをつけてみる、と愛菜に告げた。同行を申し出されたが断った。万が一危険が及びそうなら守れないかもしれない、自分から連絡がなければその時は警察なりに行ってみてくれ。渋々愛菜は頷いてくれた。
摩耶花は一旦自宅に寄り私服に着替え、荷物を手にしていた。彼女の趣味で部活でも使う愛用物だ。登校中担いだそれが肩にぶつかり文句を言ったこともある。つい半年前のことなのに遠い過去のように思えた。電車から降り、都市の中心部に向かう。足取りに迷いはない。行き慣れた場所なのか。
背中にじわりと浮かんだ汗がシャツに滲む。素人なりの尾行だが、上手くいっている。あの赤髪は否が応でも目立つ。それにつけている相手はただの女子高生だ。よほどの下手を打たなければバレはしない。
ほどなく繁華街から少し外れた半地下の店の前で摩耶花は足を止めた。
ギターケースを、担ぎ直し、階段を降りて、その店に、ライヴハウスに入っていく。
俺は手近にあった証明写真機に潜り込む。帽子を被り伊達眼鏡をつける。制服をバッグにしまい、パーカーを纏う。念の為にと持ってきておいて正解だった。
摩耶花が入ってから30分経過。自らの生命の結末が近いと訴える蝉の合唱を背にあびながら、一度深呼吸し、ライヴハウスのドアに手をかける。
店の名前は『Stray Cats』。
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