私と彼女は秘密を守る

ものういうつろ

第1話

 ワックスが掛けられたフローリングは、照明を鈍く反射している。そこを駆け回るシューズのゴムを、不規則にキュッと鳴らしながら、ダムダムとボールが弾ける低音をベースにして、少女たちの短い掛け声が飛び交う。

 少女たちが入れ替わりながら、バスケットゴール前の攻防の練習をしていた。センターをやっている片桐が、ガード役に肩からぶつかったかと思うと、くるりと身体をひるがえした。伸びやかな腕が広がり、後ろのガードを押さえ込む。すらりとした脚が、しっかりとふんばりを効かせているのがわかる。

 片桐の掛け声が響くと、すぐさまそこへボールが飛んでくる。片桐はボールを掴み、そのままシュートした。

 ちゃんと連携がとれている。大丈夫、一人抜けてもやっていける。

 一連の練習を見ながら、私は期待をふくらませていた。今年こそはインターハイ予選を突破できるかもしれない。

 高校の教員免許を取ったものの、男嫌いでなかなか就職先が見つからなかった私が、ようやく雇ってもらえたK泉女学園に務めて、もう五年経った。去年からクラス担任を任されるようになって、やっぱり自分にはこの仕事が合っているのだと実感した。信頼される教師になろうと努力しているのもあるのか、クラスの生徒たちから困り事を相談されることもしばしばあるくらいだ。

 なかでもバスケ部の部員たちは、とても慕ってくれている。私が顧問になったのは、今の三年生が入学した頃だった。あの頃はバスケに本気な部員なんかほとんどいなかった。今のバスケ部があるのはキャプテン片桐かたぎり友美ともみが中心になって、バスケ部を活発にしていったからだ。私も一緒になって、練習方法を調べたり、必要なトレーニングについて勉強したり、仕事の合間を縫って、彼女達と頑張ってきた。

 今年のインターハイに出られたら、もしかすると外部からコーチを呼べるような予算がもらえるかもしれない。部にとって大きな変化が起きるし、三年生にとっても自分たちの努力の結果が思い出に残るはずだ。

 五月に入って、予選の最初の試合が目前に迫った今は、とにかく大切な時期だ。一分一秒でも練習時間を無駄にせず、かといってみんなに無理をさせないようにしていきたい。

 特に、最近動揺するようなことがあったから、練習に集中させてあげたい。

 それなのに――

「いやぁ、たいしたもんですね。私もね、学生時代はああやって機敏に動いたものです」

 男がにたりと笑って手を叩いていた。

 どこかいやな印象を与える笑顔に、初対面にも拘わらず胃がムカムカとしてくる。

「運動をしていらしたんですか」

「いいえ、文芸部でした」

 黒いスーツの男は、部活が行われている放課後の体育館から浮いている。K泉女学園には、男性教諭ももちろんいるが、数は多くないし、この男のような不吉で、不気味な印象の人間はいない。

 だから、余計にこの男の存在が私にとっては煩わしく感じた。

「あまりこちらに来られると困ります」

「ああ、すいません。こちらも仕事でしてね。勘弁していただけるとありがたいです」

 男は気色悪い笑顔を崩さず、これといって悪びれることもなく謝った。帰れと言ったつもりだが、わかっていて無視しているのだろうか。

「他の警察の方は、もうみんな引き上げていきましたよ」

「ええ、存じていますが、私としては少し気になることがありまして」

 男はジャケットの内側に手をつっこむと、黒い手帖てちょうを引っ張り出し、それから少し考えるそぶりをしたあと、「ああ、そうだ」と言って、今度は別のポケットから名刺入れを取り出した。

「捜査一課の朽縄くちなわ冬彦ふゆひこと申します」

 いかにもこの男に似合う気味の悪そうな名前だった。

「それで、どんなご用件でしょうか」

「ようやく話してくださる気になったんですね」

 嫌味を言っているのだろうか。笑顔が気味悪いので、彼が皮肉を言っているのか、そうでないのか、まるで判断がつかない。

 もうさっさと終わらせたかった。朽縄は練習が始まってすぐやってきた。しばらく練習の様子を見ていたかったし、後にしろと伝えたのだが、いつまでも隣で粘られてしまった。こうなったら、ちゃんと相手をするしかあるまい。

倉井くらい郁奈ふみなさんについてですが、亡くなる前に妙なことがあったそうですね」

 倉井郁奈の名前を聞くたびに彼女のジャンプシュートを思い出す。飛び上がるときの、髪がふわりと浮遊して、白い肌から汗が散って、きらきらと周りに飛散していく姿を思い出す。とてもフォームが美しいのだ。

 シュートが美しい一方で、郁奈はそれほどバスケが上手かったわけではない。けれどもいつも楽しそうに練習していた。片桐はみんなを引っ張っていくような性格だが、郁奈は控えめで気配りのできる子だった。部員がまとまっていたのは、二人の性格が上手く噛み合っていたのもあっただろう。

 そんな二人を見てバスケ部内ではおしどり夫婦なんて呼ばれることもあった。もちろん、女子校特有の冗談だ。

 そんな郁奈が、死んだ。

 夜中に町外れの廃墟から落ちたらしい。

 郁奈は翌朝発見され、警察から学校に電話が来たのは、私がちょうど出勤したころだった。

 遺書がないことから、事件かどうかを調べるために、先週いっぱいまで警察が調査にやってきていた。事件現場になった廃墟も、路地の行き止まりにあって、普段から人が立ち入らないらしい。そもそも廃墟の存在を知らない人も多いそうだ。一通り聞き取りを終えた刑事が、帰り際に自殺だろうと言っていたのを憶えている。

 警察が引き上げていったのを見て、捜査が終わったものだと思っていたのだが――

「妙なこと、ですか」

「はい」と朽縄は頷いて「なんだか幽霊騒ぎがあったとか」と大真面目な顔をして言う。

 きゅっと喉が締まるような気がした。

 幽霊騒ぎなんて荒唐無稽こうとうむけいな話だ。普通なら、死んだ生徒の調査に来た刑事がそんなことを言い出したら、呆れかえるような話だ。

 けれど、私にとってはそうじゃない。

「体育倉庫の一件ですね」

 確認すると朽縄は頷いた。

「そうです。その話をお聞かせいただけますか」

 先週は尋ねられなかったはずだが、この刑事はどうやって知ったのだろう。疑問には思うが、考えても仕方ない。

「四月の新学期になって、何人か集めてボール磨きをしたんです」

「ボール磨きですか。先生もご一緒に?」

「ええ。部員たちとの交流の意味もあって、ボールを磨きながら、意見を聞く時間を取ろうと思いまして」

「ほう」と朽縄は感嘆する。「随分ずいぶん、部活動にご熱心ですね」

「ええ、まあ」と曖昧に頷いておいた。

「それで、そのボール磨きをしていたら、幽霊騒ぎがあったと」

「そう――と、言いますか。一通り意見交換も終わって、残りのボールは部員に任せて、私が倉庫を出ようとしたら、扉が開かなくて」

「閉じこめられた?」

「はい。以前から体育倉庫には幽霊が出るって噂がありましたから。それで、パニックになってしまったと言いますか。お恥ずかしい話です。教員としてみんなを落ち着かせないといけないのに。私がパニックになるとみんなもパニックになりまして」

「それが、幽霊騒ぎですか?」

「ええ、はい。学校の怪談に踊らされました」

「あまり気にされない方がよろしいかと思います。人間うっかり思い込んでしまうことはよくあることです」

 朽縄は幽霊騒動そのものには興味がないらしい。言葉だけを聞けばフォローに思えるが、実際は話を流す意図の返答だった。

「そこに、倉井郁奈さんもいらしたんですね」

「そうです」

 朽縄は、釈然としない顔をした。どうやら、自分の期待している話とは違ったらしい。

「刑事さん、どうしてこんな話をお聞きになるんです」

「動機です。倉井郁奈さんに自殺する動機がないんですよ」

 どういうことだ。一瞬、困惑したけれど、あわてて考え直す。そうか。考えていなかったが、そう見えるのか。

「わざわざ人の立ち寄らない廃墟で自殺するほどのことがあったのではないかと思いましてね」

 うかつだった、という気持ちがわき上がるのをなんとか抑える。大丈夫だ。怪談話は郁奈とは一切関係ない証言になるはずだ。

「一応、生徒さんにおたずねしてもよろしいですか」

「わかりました。ただ、あまり彼女たちを怖がらせないでください」

 誰に聞いても出てくる話は同じはずだ。ホイッスルを鳴らし、集合を呼びかけた。練習をして汗びっしょりになった部員たちが、私と朽縄を中心に、扇状に集まった。

「みんな、こちらにいらっしゃる刑事さんが、あとで体育倉庫の件で話を聞きたいそうよ」

 最前列で私を見つめる片桐と視線を絡ませる。片桐が少しだけ顎を引いて頷くのを確認して安堵した。

「練習中のみなさんにはすいませんが、そういうことです」と朽縄は言ったあと、私の方を見て「ひとりずつお話を聞きたいのですが――」とこちらを窺うように見つめた。

「わかりました。じゃあ、最初は部長の片桐さんお願い。あとは任せます」

 大丈夫。体育倉庫のことは、刑事には漏れないはずだ。

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