藍橙哀歌

小林 凌

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 三つある校舎棟の三つ目の一番端。校舎の影に包まれた窓をこっそりと開き、夜の理科室へ降り立った。

「ほんとに、はいれちゃった。……スカートに埃ついた、最悪」

「だからぁ、言ったでしょ~? 今日見回りのサトゥちゃん、怖がりだから理科室は見ないで飛ばすんだよぉ。ほら、噂の動くガイコツ~」

「ちょっと! ……やめなさいよ、もう」

 からからと窓を閉め、乱杭歯を覗かせながら隣に立つ幼馴染みは笑ってみせた。先ほど入ってきた窓の傍らに立つ骨格標本はトウコに揺らされるままにカタカタと音を立て、招くように手を揺らす。落ちくぼんだ眼窩の奥に吸い込まれそうで、私は目をそらしてしまった。

 小さく溜息を吐きながらスカートを手で払い、ブレザーのポケットに忍ばせておいた小さなライトのスイッチをいれる。ライトの照らす橙が緑の床に混ざって、床は汚く濁っていった。

「いこ。今日、なんでしょ」

「うん。ありがとねぇアイカ」

 トウコの言葉に返事を返さないまま、私は足を踏み出した。

 夜に包まれた学校は、藍色の絵の具を塗りたくられたようだった。廊下の奥は見通せないほど暗く、背後に広がる無数の闇が背中にひたりと忍び寄る。ちらちらと揺れる橙色のライトは頼りなくぼんやりと光り、廊下の先を不気味に照らしている。床材に反射した光は壁や消化器へ跳ね、べったりとそこにしがみつく。離ればなれになることを、恐れているみたいに。

 一階から二階へ上がり、階下を振り返る。けっして大きな階段ではないけれど、暗闇に包まれ独特な光沢を持つ踊り場は地の底を映しているようにも見える。ライトの光に揺らめいて、父さんと目が合った気がして息を呑んだ。父さんは居ない、もうこの世にいやしない。だって、私が突き飛ばして、階段から転げ落ちて。三ヶ月前の夏の日に、父さんは死んだのだから。

 今思えば本当に幼稚な口げんかだった。ほんの少しだけ下がった模試の点数と、バイオリンのコンテストでの予選落ち。一番悔しいのは私なのに、一番苦しいのは私なのに、父さんが被害者ぶって落胆なんか突きつけて、「不出来だ」なんて嘲笑って。そんなの私が一番分かっていた。だから、だから父さんが悪いの、に。

 ごめんなさい、父さん。ごめんなさい、出来が悪くてごめんなさい、口答えなんてするんじゃなかった、私が悪かったのごめんなさいもっとがんばるから、ごめんなさい、ごめんなさい父さん、もう死ねば良いのになんて思わないから、ごめんなさい、父さん、ごめ─────

「アイカ」

 トウコに肩を叩かれて、初めて自分の息が荒く、涙がにじんでしまっているのに気が付いた。背中にじわりと浮いた脂汗が気持ち悪い。ずしりと重い体をふるりと震わせて、ありがと、と返して踊り場から目を逸らした。

 そのままそろりと互いの手を合わせ、ほどけないようにと硬くその指を絡めあい、上階を目指す。

「……予想はしてたけど、案外怖いもんだねぇ。夜の学校ってさ」

「怖いならもうちょっと怖そうなリアクションしなさいよね……」

 いつもの喧噪が嘘のように思えるほど、放課後の学校は閑散としていて肌寒い。アイカの上履きのかかとが廊下のノラメントを叩くたびに、彼女の心臓から温度が失われていくようだった。繋いだ二人の手だけがじわりと熱を持ち、その熱に溶かされないように、アイカは口の端をきつく結ぶ。対して、先から挙動不審気味なトウコは「怖い」だなんて言いながら、口の端をにんまりとつり上げていた。

 四階へ上がり、何の変哲も無い通常教室を三つほど見送ると、二人の教室が見えてくる。握った手を互いに強く確かめながら、アイカは勢いよく教室の扉を開いた。

 四〇組の机と椅子が行儀良く整列した教室はやけに寂しく、凍えて見えた。汚れや傷一つ窺えない綺麗な机の群れの丁度中央に、違和感が一つ。そこだけ別の学校の景色を切り取ってきたみたいに場違いな机が置かれている。トウコは何かを飲み込んだ後、

「……、あたしの机ちゃ~ん! 夜の学校に一人にしてごめんよぉ~っ」

 なんておどけながら、その机に駆け寄った。もう声は平坦な元気さが被さっていて、私はそれがつまらなくて溜息を吐いた。

 一瞬か、それとももっと長い時間か。トウコは景色を脳裏に焼き付けるように、自分の席に体を預け、ただぼんやりと黒板を眺めている。私はその斜め後ろで目を瞑り、時計の秒針の鼓動に隠れた彼女の息を、ただ静かに聞いていた。窓の外では空が凪いでいるようで、遠くの虫の声が遠くから、微かに響く程度だった。

「……皆がいないときに、さ。こうしてると、なんか、変な気分。黒板とか……映画館みたい」

 沈黙をのぞき込むように差し込まれたその声に目を開けて、教卓の方を眺めてみる。確かに、言われてみれば見えなくもないかもしれないけれど、私にはどうしたって、ただの黒板にしか見えなかった。

「映画館ね……にしては、机がちょっと汚れすぎじゃない?」

「あはー」

 彼女の机には、消えかかったマッキーの文字が重ねられている。「しね」だとか「学校来んな」だとか「ブス」だとか、前時代的ないじめの象徴が、いくつも、いくつも。半年前の当時、生徒間ではそれなりに話題にはなったけれど、それなりに名の知れた進学校のブランドを壊したくなかったのであろう先生達が素知らぬふりをした為に、その話題は一瞬で風化した。実際、その対応は正解だった。

「なんで、こんなことしたのよ」

 この落書きの犯人は、トウコ本人だったからだ。

 ほんのすこしの沈黙の後、彼女は照れたように振り返る。

「……えへぇ、アイカにはバレてたんだ?」

「当たり前でしょ、十七年間ほぼ毎日顔合わせてるんだから。あんたのポーカーフェイスなんて、私には効かないから」

「そっかぁ……さっすがアイカ。あたしの相棒!」

「ばか」

 嬉しそうに笑うトウコの頭をぺし、と小さく叩き、にやけてしまいそうになる顔を見られないように彼女の後ろへ移動した。

 トウコがいじめを偽装した理由を、私はなんとなく感づいている。彼女の好きなヒロインはシンデレラ。好きな物語は、専らいじめられっ子が愛される話。よく似たような構成の物語をいくつもいくつも知っていて、トウコは度々羨むようにそれを私に語って聞かせるのだから、感づかない方が無理な話だ。……にしても、その理由で自分が殺される計画を立てるのは、あまりに異常だから、本当のところは違うのかも知れない。

「で、ほんとは?」

 真意を聞くなら、最期目前の今しかない。だからとほんの少しだけ真剣に声を整えて聞いてみても、トウコはいつもの調子ではぐらかすだけだった。

「ん~……アイカが好きで、かまって欲しかったから! とか、かな」

 トウコは馬鹿だと、つくづく思う。彼女の頭を、もう一度軽く叩く。嬉しそうに抗議する彼女を見て、ほんの少しだけ笑ってしまった。


 少しの沈黙の後、トウコが重たそうに口を開いた。

「……ねーえ、アイカ」

「んー?」

 彼女の背中に自身の背を預け、体重をかけてのけぞってみる。困ったように声を漏らすトウコに満足して目を閉じた。

「ほんとに、良いの」

 背中の下で彼女が息を詰めた気がして、私はそっと息を飲んだ。トウコに気付かれないように細く息を絞って吐き、その返事を探して視線をさ迷わせる。

 努めて明るく作られた彼女の声は、やっぱりどこか硬く思う。

「ほら、この提案したのはあたしだしさ。本当は嫌だったんじゃないかなーって」

 ゆっくりと上体を起こし、声で返事を返す代わりに緩く首を横に振る。

「それは私のセリフよ。……良いの、あんたこそ」

「あたしはいーの。死ぬのが嫌ならこんな計画立てないって。」

 トウコは自分がこれから死ぬということを、本当に理解しているのだろうか。私が私を許すために、私が私を裁くために、私はもう一度罪を犯さなければならなかった。それをトウコに吐露したとき、彼女は「それならあたしをころして」なんて言って、笑ったのだ。

「でもさ、アイカは……このまま、やっぱり帰りなよ。許されてるんだから、甘えちゃえば良いじゃん。顔も良いしお金もあるんだから、幸せじゃない」

「な……、」

 思わず声をあげようと振り返ったところで、硬く平坦だった彼女の声が不安定に揺れているのに気が付いた。閉めかけの蛇口から、ぽつりぽつりと水がしたたり落ちるように。訥々と、雨が降るように彼女は嗚咽を小さく零す。

「アイカは……ごめん、ごめん、なさい。あたし、こんなつもりじゃ」

 抗議のために硬く結んだ手のひらを力なくほどき、トウコの頭にそっと重ねた。ふわりと伝わる体温は橙色の光によく似てやわらかく暖かい。消えてしまいそうな程に微かな、そして恐らく数時間後には消えてしまうその温度を忘れないように、私はそっと目を閉じた。

 弾みを付けるように、もう一度トウコの頭を叩く。

「ばかトウコ。……あんたこそ、早く帰って寝なさいよ。明日の学校、遅刻するわよ」

 なんでよ、アイカこそ。なんて、トウコは小さく笑った。ただ彼女の熱を享受する。もっと早くトウコの根に潜んだ藍に気がつけたのなら、もっと私が良い子だったら。去年みたいに、半年前みたいに、三ヶ月前みたいに。夜に寝て朝に起きて、普通に笑っていられたのだろうか。当たり前にあったはずの昔の日を、どこか遠い国の軌跡をなぞる心持ちで考えた。

 私はきちんと裁かれる為に、彼女は彼女を、終わらせるために。私がトウコに申し訳ないと思っているように、トウコもまた、同じだったのだろう。

 窓の外は悲しい程に凪いでいる。壁に据えられた時計の秒針は一定のリズムで喉を鳴らし、雨音が止むのをただじっと待っているようだった。


 汚れた机を一つ挟んで向かい合う。トウコは机の上に視線を落とし、消えかかったマッキーの痕を人差し指で軽くなぞっていた。その指の動きを目でなぞりながら、不気味なほどに静まりかえった教室から溢れてしまわないように、机の端を小さくつまんだ。

「いい? 最終確認。……もう後には退けないからね」

「うん。分かってる……大丈夫」

 示し合わせる事も無いまま、二人はそうっと目を閉じた。何度も何度も刻んだ約束、何度も何度も願ったことを、ぽつりぽつりと零すように、一緒に音に変えていく。こぼれた音は机の上にぽたりと落ち、二人の足を結びつけた。


「「後悔はしないこと。朝までずっと、そばにいること。永遠に、終わりにすること」」

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