6, 星 (1)
この頃は夏が長い。
九月になってもちっとも涼しくならないせいで、夏の楽しさやにぎやかさをいつまでも求めてしまう。
「……それでも日常は始まっちゃうからね」
夏休み明けの初日。栞は『星が落ちる前に』をカバンに入れ、ハンドタオルで汗をぬぐいながら学校へ向かった。
教室に入ると、すでに日に焼けたクラスメイトたちのお土産話で持ち切りだった。栞も京都に家族旅行に行ったため、友人たちにお土産を配った。
グラウンドに向かう窓からは、野球部の朝練習の声と音が聞こえてくる。
栞は窓の外と時計を何度もチラチラ見ながら、お土産の包み紙の端を手でいじった。
「どうかした、栞? そわそわしてるけど」
「あ、ううん。今から眠いと、授業中寝ちゃいそうだと思って」
「あはは、わかる。まだ夏休み気分だよねえ」
予鈴が鳴ると、廊下が騒がしくなり、朝練習を終えた運動部員たちが続々と教室に飛び込んできた。そして野球部が駆け込んでくると、クラス中から拍手が上がった。
「お疲れ、野球部!」
「甲子園二回戦敗退惜しかったな!」
「かっこよかったよ!」
歓声の真ん中で、野球部員たちは照れくさそうに、少し居心地悪そうに笑っている。
後ろの方に立っている青瀬は、口をキュッと結んで、前ではなく少し下を見つめていた。
怒ってるわけじゃないと思うけど、青瀬も、あんな顔するんだ。
つい一か月前まで野球も甲子園もまったく興味がなかった自分が、なんと声をかけたらいいのか。
「……傷つけちゃったら、嫌だな」
栞は青瀬からそっと目をそらし、京都土産のチョコレートをそっとカバンに戻した。
その時、『星が落ちる前に』が目に飛び込んできた。青瀬と、甲子園を見るきっかけを作った本だ。
青空を駆ける白球を思わせるその表紙を見ると、栞はやっぱり青瀬と話そうと思えた。
伝えたいことがあるのだ、青瀬に。
「……あ、青瀬」
青瀬がカバンを置いて席についてから声をかける。栞と目が合うと、青瀬は目をとろんとさせて微笑んだ。
「白枝だ。おはよう。久しぶり」
「おはよう。あのさ、今日、部活の前に少し話せる?」
「大丈夫だよ。俺も話したかった」
青瀬はますます黒くなった肌に映える白い歯を見せて笑った。作り笑いにも、無理やり笑っているようにも見えない。栞はホッとして、気づかれないようにため息をついた。
夏休みボケのせいか、緊張のせいか、その日は飛ぶように過ぎて行った。
栞と青瀬は、夏休み二日前にメモ書きを受け取った中庭の隣り合ったベンチに、あの日と同じように座った。あの日と違うことと言えば、放課後になると中庭に影が差し込むようになったことだ。それでもまだ蒸し暑く、ふたりはタオルで汗をぬぐった。
「部活前にごめんね」
「ううん。『星が降る前に』読み終わったから、俺も感想言いたかった」
「あ、わたしも読んだよ」
栞がカバンから本を取り出すと、青瀬はにっこりしてうなずいた。
「どれも素敵だったよね。青瀬はどの詩が好きだった?」
「俺はやっぱり代表作のやつかな。星が偶然湖に落ちると精霊になって、水面で踊るってやつ」
「わたしもそれ好きっ。ちょっと物語っぽいのも良いよね」
よかった、青瀬も楽しそう。
バーナードに感謝しつつ、栞は本を膝の上に置いた。
「爽やかだし、涼やかだから、練習の後に読むとすごくスッキリしてさ。何度も読み返しちゃったよ」
「練習」と言う言葉に、ドキリと心臓がはねる。
この流れで、切り出して良いだろうか。
栞は本を両手で握り締め、意を決して青瀬を正面から見つめた。
「……あのさ。わたし、おじいと一緒に、観たんだ、甲子園」
途切れ途切れの不自然な言葉だ。これでは言い淀んでいたことがバレてしまう。
栞が自己嫌悪に陥った瞬間、青瀬は、光が差したように瞳を輝かせて「ほんとっ」と声を上げた。そのきらめきはまるで星のようだ。
「やった! ありがとう、白枝」
きれいな笑顔に、栞の心臓がドッと大きく鳴る。
「う、ううん。こっちこそ、良いものを見せてもらって、ありがとうだよ。青瀬に言われなかったら、一生観なかったかもしれないもん」
「それならもうちょっと活躍したかったなあ。先輩たちとも、もっと一緒に野球したかったし」
青瀬は頭の後ろで手を組み、ベンチの背もたれにグデッと背中を預けた。口元は笑っているが、闘志が宿っている目は空をまっすぐに見つめている。
その目は、打ち上げられたボールを追いかけている時と同じだ。
きれいだな、と栞は思った。
ふたりの目が合う。
熱を帯びた青瀬の目に捉えられると、栞も目がそらせなくなった。
「俺、来年も絶対レギュラーになって甲子園に行くつもりだから。その時も応援してくれる?」
「うん。野球、もっと詳しくなるよ」
「見てくれるだけで十分だけどね」
「ううん。ちゃんと勉強するよ。好きになったから、野球も、青瀬も」
青瀬に見とれているうちに、自然と言葉が口からこぼれた。
ハッとして右手で口を覆うと、「えっ」とささやき声が聞こえてきた。
「ご、ごめん。急に変なこと言って……」
口を押えてうつむいたままつぶやくと、青瀬の手が栞の左手に重ねられた。その手はやけどをしそうなほどの熱を持っていて、小刻みに震えている。
「……俺も好きだよ、白枝が」
そろそろと顔を上げると、青瀬は日焼けしたほほや耳が赤く染めて笑っている。
その顔を見た栞も、頬を赤くして笑った。
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