知らない色

@moriitsuki

完結

知らない色


 教室にはぼくしかいない。

 もう桜が散り、ぼくの家庭では扇風機が回り始めている。なのに、今はどこか肌寒さを感じる。

 周りを見渡すと余計不自然に感じた。

 でも嫌いじゃない。授業中のトイレや、誰もいないリビングと同じだ。普段は皆で使う場所を独り占めしている優越感に浸っていた。

 時計を見ると、五時を回っていた。康太のバドミントンが終わるのは五時半で、着替えやストレッチを済ませたら五時四十分にもなる。

 ぼくは康太の帰りを待っている。

 康太は中学からの付き合いだ。沈黙が苦しく感じないのは彼だけだ。今日も一緒に学校に来たが「スマホカバー変えたよ」「今日席替えだね」くらいしか話さなかった。別にそのスマホカバーを見たわけでもないし、そこから話が発展したわけでもない。

 

 中学三年生の冬。名前を書けば受かるような高校におののき、受験に落ちた場合のこと。そして受かった場合、部活はどこに入るかをよく話し合ったのを覚えている。

 結局合格はしたものの、部活は別々になった。

 そもそも、部活は何に入るかの話し合いに決着がついたわけでもなかったし、ぼくは部活に向いていないと思っていた。

ぼくは中学時代に空手をやっていた。始めたては、悟空になりたい、そんな安直な気持ちで、道場に通っていた。

結果的に全国大会に出場することができた。

だが、その中で感じたのは喜びよりも苦悩だ。一緒に空手をやっていた友達と、練習が始まる直前までトイレで愚痴をこぼし、道場に入ると息が詰まるような感覚に襲われ、水の中にいるようだった。

だからこそ、康太がバドミントンに打ち込む姿が輝いて見えた。

その輝きに触れ自分の過去を振り返ることが多くなった。きつく帯を締め、汗を流し、先生に泣かされたぼくは、輝いていたのだろうか。

そんなことを考えると、中途半端で惨めな自分が嫌になる。


 教室を見渡すと、窓際の一番前の席にスマホが置いてあることに気が付いた。

 そこは蒼衣さんの席だ。

 入試の時だ。ぼくの左前の席に座っていたのが彼女だ。

時計を見るよりも、長く彼女を見ていた。長い髪を結び、たどたどしくも姿勢を正し、机に向かう彼女の背中は絵になっていた。

 ドアの外を二三回確認した。人は居ないようだ。

 この瞬間、心の中に天使と悪魔が出てきた。

 だが、大体天使は破れる。ぼく自身が悪魔だからだ。

その席に向かう。

心臓がドクドクと音を鳴らす。喜んでいるようだ。

 スマホはうつ伏せになっていて、白いスマホカバーをつけていた。

 ドアの外を二三回確認した。

 好きな人のリコーダーを舐める時、きっとこういう気持ちなのだと思った。

 そのスマホを手にもった。人のスマホを触る背徳感を味わった。康太のスマホですら、触ったこともないし、覗いたこともない。それは逆も然りだ。信頼関係があったとしても、スマホを見るなんて、野暮なことはしない。

 野暮なことだと分かっているからこそ、背徳感が指から全身に伝わる。

 スマホを表に返す。

 右の縁にあるボタンを軽く押した。明かりが付いた。画面にはぼくが知らない韓流の女性アイドルがキメ顔をしていた。画面下を見るとインスタグラムから二件の通知が来ている。

 ト、ト、ト、廊下の方から足音が聞こえた。

 心臓が強く高鳴り、本能が身の危険を促した。

 やばいやばいやばい。

 自分の席に急いで戻り、何事も無かったかのようにスマホを眺めると、そのスマホは蒼衣さんスマホだった。

 あっ、がなりの効いた声が出てしまった。戻しに行こうにも足音は教室に近づいていた。

 自分の机に隠そうにも頼りなさを感じるので、隣の机に隠し、自分のスマホをポケットから出した。顔認証をしても上手くいかず苛立っていると足音が教室に入ってきた。

 足音の正体は梨乃さんだった。汗を流した長袖半ズボンの梨乃さんと目が合った。

 逸らしてはいけないと思った。

 強い心臓の高鳴りを抑えるように、ツバを飲む。

「翔太君、麻実ちゃんの携帯見なかった?」

 麻実ちゃんとは、蒼衣さんのことだ。

「ん?しらない」

やせ我慢をするように自然に声を出した。

「あ、そう」

 そう言って、梨乃さんは廊下に体を向けと歩こうとした。

「なんで?」

 呼び止めてしまった。

 梨乃さんはぼくの方に体を向けた。

「いやなんか麻実ちゃんがスマホ教室に置いてきたかもって言ってたから、水筒を取りに行くついでに寄った、でもバッグに入れたはずって言ってたけどね」

「へぇ」

 興味なさげに自分のスマホに目を向け、早く帰ってほしいと願った。

 中かな、と呟き梨乃さんは蒼衣さんの机の後ろの席に行き、椅子をのけ反らせ、前のめりで中を確認した。

「ある?」スマホを見つめ、訊いた。

「ないな」

 そう言って、椅子を元に戻した。

 諦めたのだろうか、梨乃さんはそのまま廊下に戻ろうとした時であった。

「あ、電話すればいいじゃん」彼女はそう言って立ち止まった。

 梨乃さんの一言に緩み始めていた心臓の音が再び鳴り始めた。気づけば、手汗でスマホがぬるぬるした。

 どうするどうするどうする。ぼくの隣の席で電話が鳴ったらあまりにも不自然過ぎる。

 少なくともぼくが梨乃さんだったら、疑いを持つ。そもそも、何で?とか言って強がって呼び止めなければ、こんなことにはならなかった。数秒前の強がった自分を殺してやりたい。

 梨乃さんはポケットからスマホを出し、両手で操作をし始めた。

蒼衣さんの番号を探しているのだろう。

 机に座っているだけなのに、内側から、汗がにじみ出てくる。

 今時のスマホを使い慣れた女子高校生だ。片手で操作できるものを両手で操作している。モタモタしていればぼくのこれからの高校生活が終わる。

 両手で操作?梨乃さんは水筒を取りに来たのではないのか?

「そういえば水筒はどうしたの?」

 そう言うと、梨乃さんの手が止まった。

 どうだ。

「あ、そっか、忘れてた」梨乃さんは恥ずかしそうに笑い、水筒を取りに行った。

水筒を片手に帰ってきた梨乃さんに「じゃあ部活頑張って」と手を振った。

 うん、と梨乃さんは言って、走って体育館に戻った。

 体中に縛り付けられた鎖から解放され、机に突っ伏した。

 足音が聞こえなくなったことを確認して、隣の席から蒼衣さんのスマホを取り出した。

 何故か蒼衣さんのスマホを見ることに緊張を忘れていた。

 スマホはトイレの便座よりも汚いと言われている。何故なら、トイレに行った手でスマホをベタベタ触っているからだ、という情報を聞いたことがある。

 とどのつまりは、蒼衣さんの尿がこのスマホに付着しているといっても過言ではないということだ。

 少しの興奮を覚えた。

 画面を下から上にスクロールするとFACE IDと表示され、数秒後、八桁のパスコードを要求された。

一一五一一五。流れるように自分のスマホ

のパスコードを入力した。

 人のスマホなのに、自分の所有物であるか

のような扱いをする。そんな自分に気持ち悪

さを覚えた。

ロックが解除された。

 え、声が出てしまった。

 一旦、スマホを置いた。

 このスマホは、本当に自分の所有物なのではないか?

そう思い、隣に置いてある自分のスマホに一一五一一五と打ち込むと、見慣れたホーム画面になった。

その後、蒼衣さんのスマホの電源を切り、もう一回、一一五一一五と打ち込んだ、見慣れないホーム画面が映った。

 ぼくとパスコードが、同じ?

 再び、心臓が強く打ち付ける。しかし今回の脈の鼓動は、前にコケてしまいそうなほどに、強く背中を押してくれている気がした。

 自分のスマホの電源を切った。真っ黒になった画面にニヤけた目元が映った。

 蒼衣さんのスマホを目の前にして、ぼくが最初にタップしたのはラインだ。

 トーク欄をパッと見ただけでぼくよりも友達が多かった。二三回スクロールしてやっと底が見えた。

 スクロールして縦に流れるアイコンを眺めていると、ぼくの友達のアイコンも多く見えた。

 今はインスタグラムで繋がれる時代だ。知っている顔が出てきてもおかしくないと思ってはいた。だが、それにしても多すぎる。

 蒼衣さんの女友達のアイコンも、それと比例して多く見られる。

 ピコン、と通知が鳴った。仁部あすみ、という名前の女だ。そこから『彼氏うざいw』とメールが来た。

 無心で仁部さんとのトークルームを開いた。

 ラインのトークを遡った。


あすみ「テスト勉強しようと思ってたんだけどさ」

蒼衣「うん」

あすみ「ユーチューブのショート動画見てたら一日終わったw焦燥感ヤバいw」

蒼衣「まぁそんなもんだよね」

あすみ「勉強やってる?」

蒼衣「やってない」

あすみ「だよねw」

蒼衣「だよねってなんだよ」

あすみ「ごめんごめんw」

蒼衣「そういえばあすみが言ってた百人一首のアニメ見たよ」

あすみ「見た!どうだった?」

蒼衣「めっちゃ面白かった」

あすみ「わかってるわぁ、百人一首やりたくなるよね」

蒼衣「やりたくなるけど、百人一首ってめんどくさくない?」

あすみ「どこがw」

蒼衣「だって、せっかく綺麗に並べた札をぐちゃぐちゃにして、綺麗に直して、またぐちゃぐちゃにして、また直して」

あすみ「確かにねw」

蒼衣「でも、アニメ今日で全部見たからね」

あすみ「じゃあほぼ私と変わんないじゃん」

蒼衣「何が?」

あすみ「今日、一日を無駄にしたこと」

蒼衣「無駄じゃないでしょ」

あすみ「無駄でしょ、逆になんで無駄じゃないと思うの?」

蒼衣「無駄な時間も大切じゃない?」

あすみ「どういうことwわかりやすく教えて」

蒼衣「例えば、自分の人生の映画があるとして、アニメやショート動画を見て無駄にした一日なんて、カットに映らなくて切り捨てられると思う」

あすみ「じゃあ無駄じゃんwてか、なに語り出してんのw」

蒼衣「でも、どんな人もその無駄な時間がほとんどだと思う、自分の人生の大半が無駄な時間で構成されていて、長い人生においてカットに映るのはたった数ミリ程度だと思う、だからこそ、その時間は無駄じゃないと思う、自分の人生を構成している大切な時間だから」

あすみ「でもこれで赤点取ったら、元もこうもないよねw」

蒼衣「確かにね」

あすみ「そういえば、翔太はどうなの?」

蒼衣「めっちゃウザい笑」

蒼衣「いちいちウザい笑」

蒼衣「頭丸まりすぎだろ笑笑」

蒼衣「収容所にいるユダヤ人みたい笑」

あすみ「言い過ぎwww」

蒼衣「もっとキモイのは、ちょっと頭へこんでんの笑」

あすみ「そうなのwww気づかなかったw」

蒼衣「ほぼ卵ポケット笑」


 ここでトークをとじた。

 ぼくは、嫌われていた。

 受験当日にジロジロ見ていたことや、匂いを嗅ぐために遠回りをして教科書をしまっていたこと、その全てが勘付かれていたのだろうか。

ぼくの行動の全てが、蒼衣さんの嫌悪感を刺激する。それほど忌々しい印象を与えていたのだろうか。

受験当日、時計を見るより彼女を見ていた。

自分の中ではプラトニックで汚れの無い一目惚れだと思っていた。

だが、ただの変態だ。

それにぼくは坊主が似合っていると思っていた。

嫌われている上に、舐められてもいた。

 どうしようもなくムシャクシャして、蒼衣さんのスマホを床に叩きつけた。

 加害者だというのに、目が潤み始める自分に情けなさを覚えた。

 蒼衣さんは教室では物静かだった。スタイルが良くて、目元も綺麗だ。

 だからこそ、期待していたのだ。

 緊張していて、自発的に声はかけないが、根はとても良い女性であると。

都合の良い彼女を連想していた。

床に叩きつけられたスマホを拾い上げたら、画面にヒビが入っていた。

何事も無かったかのようにパスコードを入れた。

ラインを開いた。

トーク欄を眺めていると、歩、という女のアカウントが目に止まった。アイコンは色眼鏡をしている女だ。

名前の下に、やりとりの最後の言葉が薄っすら記録されている。

そこに『でも、そういうところが怖いんだ』と記録されていた。

歩さんとのトークルームを開き、区切りがよさそうな場所に遡った。


蒼衣「今日はごめんね」

歩「大丈夫だよ、むしろ私の方がしつこかったよね」

蒼衣「そんなことないよ」

歩「ごめんね、私たちのペースでやろ」

蒼衣「うん」

歩「でも、一つ訊きたいんだけど」

蒼衣「何?」

歩「私の事嫌い?普通だったら喜んでやるもんじゃないの?」

蒼衣「大好きだよ、でも勇気がいるっていうか」

歩「どういう勇気なの?」

蒼衣「俺がずっとマスクつける理由知ってる?」

歩「わからない」

蒼衣「自分に自信がないからなんだ、情けないけど」

歩「情けなくないよ、マスクをつけてる人なんていっぱいいるじゃん、気にしなくていいよ」

蒼衣「でも歩はマスクをつけなくてもいい、ってなった時に、真っ先に外してたでしょ?そういうところが情けなくて」

歩「大丈夫だよ、マスクをつけてても、外してても、私は大好きだよ」

蒼衣「違うんだ、自分が自分を好きになれない、顔を見られたくない、ご飯を食べる時、俺、毎回ビクビクしてんの、そういう人間からすると、マスクってありがたいんだ、人が密集する教室自体が俺にとっては水中にいるみたいで、マスクがあるおかげでなんとか呼吸ができるんだ、でも何よりも情けないのは、俺がそういう価値観を持ってる事なんだ、俺がこっち側にいて、歩ちゃんはあっち側にいて、俺もあっち側に行きたいんだ」

歩「良くわかるよ、私も外したくて外したわけじゃないんだ、周りがみんな外してて、このままじゃ、どこか置いてかれちゃいそうな感じがして」

蒼衣「でも俺はすでに置いてかれてるんだ、俺は歩が嫌いなわけじゃない、でも自分が大嫌い」

蒼衣「もし、失敗して、俺のそういうところが遺伝したら、責任取れないよ」

歩「大丈夫だよ、失敗とかないよ、お互い幸せだったらそれで良くない?」

蒼衣「でも、そういうところが怖いんだ」


ここで、トークが終わった。

ぼくが、何故蒼衣さんに好かれないかが、わかった。

日頃の行いもあるのだろう、でも、それ以上に蒼衣さんはトランスジェンダーだ。

生まれつきの属性を誰にも理解されずに、生きてきたのだろう。だからこそ歩という女はきっと彼女にとって、救いだったのだ。

確かに蒼衣さんはマスクをしていて、その裏側を見たことはない。

だが、それはぼくも同じだ。常にマスクを欠かさず、体育の授業でもなるべく外さなかった。

誰もぼくのことなんて興味が無い、皆はそう言うが、誰よりもずっと、ぼく自身がぼくを見続けているのだ。

もはや、マスクはぼくの体の一部とも言える。

蒼衣さんもそうだ。マスクが必要であり、自己嫌悪で、ぼくの事が嫌いで、トランスジェンダーであることが、蒼衣さんを形成する。

それらは、蒼衣さんという存在を形成するために必要な色なのだ。

それらの色を、ぼくたちは簡単に否定してはいけない。

蒼衣さん以外にも、人の表面の色だけ見て、その人を理解したつもりでいると、騙されるのかもしれない。

蒼衣さんのスマホの電源を切って、元あった机の中の、奥にしまった。

このスマホにどこか愛着が湧いた。人のスマホを見た時が無いだけかもしれないが、それ以上に、蒼衣さんの全てを知れた気がした。

席に戻り、自分のスマホのパスコードを打ち込んだ。

見慣れたホーム画面が映った。

廊下から足音が聞こえる。

足音だけで康太だとわかった。

「ごめんごめん」

教室に入ってきたのは、やはり康太だった。

「遅いですな」

 スマホをポケットに入れて、立ち上がった。

 康太は教室を見回していた。

「どうしたの?」

 ぼくが訊いた。

 康太は蒼衣さんの席を指さした。

「あそこに置いといた俺のスマホは?」

 ぼくの背中に冷たい影が忍び寄った。

「白いスマホカバーのやつ」康太は続けた。

 心臓を止められたようだった。どうしようもない衝撃が余韻を残し、絶望が内側を蝕む。

「スマホカバー変えたからさ、わかりずらいと思うけど、とにかく白いやつ」

 止まった脳みそを無理やり動かし、ずっと触っていたスマホは康太のスマホではないと、そう言い訳を探した。

 だが、探せば探すほど、合点がいく。

 康太はぼくと似ていて、マスクを取らない。

それに良く女にモテる。

 康太とぼくの受験番号は並んでいた。ぼくの受験番号は一一四で、康太が一一五だった。

 何故、康太は蒼衣さんの席に置いたのか、それは、今日は席替えの日だからだ。前回、蒼衣さんの席だった場所に、康太が座ることになったのだ。蒼衣さんの本当の席は康太の後ろだ。

 今日、席を変えたことすら忘れてしまう自分に腹が立った。

 そして何故ぼくは、このスマホが康太のであると気づかなかったか、ぼくが人のスマホを見ないからではない。

 ぼくに見られたくなかったから、康太が遠ざけていたのだ。

 ぼくは今日、康太の知らない色を見た。

20 × 20



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