きゅうりの馬と茄子の牛
大塚
第1話
きゅうりと茄子を買ってきて、台所に放り出してあったまな板の上に転がす。きれいに洗ってやってから、適当に折った割り箸を突き刺して馬と牛を作る。
「なあ」
と声をかけると、取り込んだばかりの洗濯物を畳んでいた娘の
「違う」
「まあそうだよね。……お母さんのことなんかずっとどうとも思ってないもんね」
朱鷺子のこういった物言いには慣れている。それに実際俺はもう朱鷺子の母親、以前俺の妻だった女の顔も名前も思い出せない。年齢のせいもあるだろう。もうそろそろ七〇の年が終わる。
俺と俺の妻だった女のあいだには朱鷺子、
「どこに置けばいいんだ、これは」
「お父さんそれ知らないのに作ったの」
「初めて作ったんだ」
「お母さんじゃないなら、誰を迎えるの」
「マサ」
「……マサ」
朱鷺子の顔が大きく歪む。もはや何も分からなくなりつつある俺にも分かるのだ。今俺は娘を、朱鷺子をひどく傷付けていると。
マサは二年前に死んだ。一〇年上の友だちだ。
マサが死んだ時、俺は俺の半分が持って行かれたと思った。だからもしかしたら、友だち以上なのかもしれない。
煙草に火を点けると、いい年して禁煙しなさいよアホと言いながら朱鷺子が俺の煙草の箱を勝手に持っていく。
マサに知り合ったのは半世紀も前のことで、彼はとっくに大人で俺は世間知らずの学生だった。マサは俺に世界のことを教えてくれて、それは映画であったり、演劇であったり、新宿の盛場であったり、銀座にある美味い中華料理の店であったり、女遊びの仕方だったり、政治であったり、海の向こうで起きた革命だったり、して、空っぽだった俺という人間の中身はおそらくマサによって半分以上を埋め尽くされているのだが、マサはそんなことは関係なく勝手に死んでしまった。老衰、肺炎だった。大往生というやつだ。
「なんかさ」
もうじき七〇の年が終わる俺の娘である朱鷺子ももう若くはなく、そういえば朱鷺子は俺がクズのような父親だったからいき遅れたのだとなんとなく分かってはいるのだが、それを言うと朱鷺子は怒る。父親のおまえがクズだったから結婚に夢など見なかったのだと怒る。朱鷺子がそう言うのならそうなのであろう。俺の勝手な考えはいつも朱鷺子を傷付ける。
それはそれとしてマサもまた家庭を持たず母親とふたりで暮らしており、父親の顔は知らないと言っていた。マサは文字通り死ぬまでずいぶんと女たちに愛されており、俺の比ではないほどに愛されまくっており、老人ホームに入ってからも毎日違う女が何人も見舞いに来ており、なにくれと面倒を見ていたとマサに傾倒していた若い衆から聞いた。
俺はマサの老人ホームには足を運ばなかった。
マサも来いとは言わなかった。俺とマサはいつも、老人ホームの外で顔を合わせた。マサの取り巻きや女たちに囲まれながらも、俺たちにしか分からない言葉で語り合った。
「お父さんにとってなんなの、マサさん」
俺は弱っているマサを見たくなかったし、マサも見られたくはなかっただろう。俺の記憶の中のマサはいつも溌剌としている。良く酒を飲み、煙草を吸い、女を口説き、花札をはじめとする遊戯全般に強く、相手がたとえ俺であっても手を抜かない。花札、麻雀、丁半でいくら巻き上げられたか分からない。
マサが死んだという報告を寄越したのは、マサの取り巻きのひとり、若い男だった。名前は知らない。マサのスマートフォンに、自分に何かあったらあっちゃんに連絡しろ、と遺言のような一文が残されていたという。火葬の前にどうにか顔だけ見ることができた。顔を見た後、もしかしたら骨になってからの方が良かったのかもしれない、と思った。
「なんかさ」
朱鷺子が繰り返す。まな板の上に立つきゅうりの馬と茄子の牛を見詰めながら。
「マサさんがさ、いなかったら。お父さんとお母さん離婚しなかったかもって思ってるんだよね、蕗子も、寿美子も、わたしもさ」
それはないだろうと思う。マサは女が好きだった。俺もだ。
「そういうんじゃなくてさ」
「じゃあ、どういうのだ」
煙草を灰皿に押し込む。朱鷺子が最後の紫煙を吐き出す。
「去年は別に、マサさんのために迎え盆をしようとかしなかったでしょ」
「お盆なんて良く分からないからな」
「でもじゃあ、今年はどうして馬と牛を作ったの」
それは。
先日マサの行き付けだったバーに飲みに行ったら、女店主が馬と牛を作っていて。それは何かと尋ねたら、あっちゃんお盆やらないの、マサちゃんがこれに乗って帰ってくるよ、と言われて。
あのマサが。背は低かったけれど目鼻立ちのはっきりした、どちらかというと可愛らしい顔をして。自分に似合う服を心得ているからスーツは着ない、開襟シャツにスラックスで、飄然と街を闊歩する。いつもマサの周りには誰かがいた。俺もいたし、俺がいない時期もマサがひとりだったことは一秒もないはずだ。
そういう男がきゅうりの馬に乗って俺のとこにやって来たら、
「面白いじゃないか」
「そうかなぁ?」
「面白いよ」
俺の作った馬は不恰好だし、牛も同じだ。マサはきっと俺の作った馬を選ばない。マサの女たちが作ったきゅうりの馬を選ぶ。
そんなことは分かっている。
「面白いだけで結局使わないって分かってるのに作ったのこれ。……マサさんが使わないならお母さんのにしてもいい?」
「だめだ」
「どうして」
「喜ばないだろう」
「……分からないよ」
朱鷺子はため息を吐き、「帰るね、またそのうち」と言って出て行った。侘しいアパートには俺だけが残される。
知り合った時、マサはもうとっくに大人だったから。俺の知らないことをなんでも知っていたから。おとなになった俺が結婚した時にマサは少し笑ったから。それで「向いてないことするなぁ」と言ったから。俺はなんでもかんでもマサの言う通りにするつもりなんかなかったけれど、そうか向いてないのかと思ってしまったから。きっと朱鷺子の言うことは正しいのだ。
マサが俺を思い通りにしようとしたことなんてない。俺もマサにそんなことは望まなかった。
煙草を咥える。
もう顔も思い出せない昔の女房には悪いことをしたと思っている。俺は。マサが俺に手を振ってあっちゃんと呼ぶその声が本当に好きだったから。女房と娘たちが、この世の誰が俺を見放してもマサが俺を見ていてくれれば大丈夫だと、知り合ったばかりのあの頃のような気持ちで、スーパーで投げ売りにされていたきゅうりと茄子を買ってきてしまって。
光だったと思う。
朱鷺子には口が裂けても言えないが。マサは俺の人生の光だったから。
きゅうりの馬と茄子の牛を部屋のどこに置けば良いのかを調べるために、のろのろとスマートフォンを取り出す。目が霞む。俺だってもう若くないのだ。
マサのように誰かの光になりたいとは思わない。そんな大それた望みはない。ただ、そんな機会があるのなら、マサ、俺の目を灼く光になって戻ってきてくれよ、なあ。
おしまい
きゅうりの馬と茄子の牛 大塚 @bnnnnnz
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