28
竜涎香とは。
誰しも一度は聞いたことのあるだろう。
マッコウクジラの腸内に発生する結石で、香料 の一種である。
餌の未消化部位に腸からの分泌物が取り巻いたものが排出されて、竜涎香となる。
尚且つ非常に軽く、水面を漂って偶然海岸へ打ち上げられるのだ。
太陽にあたり空気に触れると急速に酸化して硬くなり、長く海面に漂っていたものほど良質になると言われている。
香りは高貴であるとともに永く良い香りを保つらしく、芳醇な大地の香りだとか、朝の靄に包まれた森林の爽やかな香りだとか、女性の放つ官能的な脇の香りだとか。
多分三つめはド変態貴族の戯言だと思う。
とにかく、竜涎香というものは狙って手に入るような代物ではなく、幻と言っていいほどの希少価値がある鉱物である。
つまり金額も金額というわけだ。
「(人生で一番の買い物……っていうか貴族って凄いな、香りもの一つにここまでお金がかけられるなんて……)」
のちにポプリさんに聞いてみると、このエバンスドール家では竜涎香が頻繁に使われており、無くなると比較的手が空いていそうな使用人が数日間街に泊まり込んで商品が出回るのを待つらしい。
「(私の場合はエリエルと引き離そうとしているのかもしれないけど)」
そう、問題はここだ。
毎昼、毎晩私はエリエルの食事をこさえ続け、夜になると遊び相手(超健全)に精を出している。
最近は親ガモの後ろを付いて回る子ガモにすら見えてくる時がある。そんなエリエルをこの屋敷に置いて行っても大丈夫かどうか……あれ、私って母親?
部屋の前に到着すると、腕を組んで頭を捻った。
「まあ私は元々いなかったんだし、悩む必要もないか!」
「なにが?」
「ぎゃァ⁉」
あっぶね、チビるところだった。
今まで気配のなかった背後から、私より低い声が鼓膜を震わせたのだ。
慌てて後ろを振り向くと、今日も今日とてダボダボな部屋着のエリエル。……部屋着兼パジャマか。
「な、なんで部屋の外にいるの⁉︎」
「俺も一応人間だから。排泄行為を部屋の中で実行したらいよいよ終わりでしょ」
「よし、よく思い留まった」
猫背でノロノロと私の隣を通り過ぎると、固く閉ざされていた扉をこじ開けた。
「ん」
「あ、ありがと」
入れ、ということだ。
僅かにできた扉の隙間に体を滑り込ませると、仕着せの裾を挟まないように気を使いながら静かに扉を閉めた。
「見た?」
「主語が欲しい」
「新しい厨房だよ」
「あ」
それどころじゃなかった。
明日からのお使いで頭がいっぱいだった私は、碌に変化に気づくこともなくここまでやってきてしまった。
私の反応で全てを悟ったのだろう、エリエルの口元がへちまがった。
「折角用意したんだから見てよ。行こう」
「あ、待って!」
ダメだ、今日は行けない。
手を掴まれ、隣にできた厨房へ連れていかれそうになったので踏ん張った。意外と力があるんだよなぁ……‼
「なんで?」
「今日は先に荷造りしなきゃダメなの」
「どういうこと? 出てくの? この部屋から?」
「そうじゃなくて……」
事のあらましを簡潔に伝えると、まあ大変。
元々表情に乏しいエリエルの口元が、段々とひん曲がっていった。
「……なにそれ、なんであんたが行かなきゃダメなの?」
「こういう足を使う仕事は下っ端がやってこそなんでしょ。
というわけで、しばらく街に泊まるから。あ、報告書にうまいこと書いて欲しいんだけど、お願いね」
「あんたって本当に肝が据わっているっているか、なんというか……」
「エリエルも相当だと思うけどね」
忘れないからな、私に薄っぺらい体って言ったこと。
脱いだら凄いんだかんな!
「だから先に荷造りして……もしかしてお腹空いた? それなら先にご飯食べる?」
「……」
「ちょっと、なんか言ってよ」
「……」
「ねえってば」
固まってしまった。
一体彼が何を考えているか知らないけど、私には時間がない。
街に行くための準備と言っても、替えの服はそんなにないから手間はかからない。
問題は街の情報だ。
悲しいことに、私は都心の知識を殆ど持ち合わせていない。なのでロバート執事長に貰った店までの道のりやら、宿の情報を今夜中にかき集めなければならない。
ポプリさんに聞いたらわかるかな……。
「…………ぃで」
「え?」
箪笥を漁っていると、背後から聞こえるのは蚊の鳴くような声。
聞き間違いかと思ったけど、間違いなくエリエルの声だ。
「ごめん、なんて?」
「行かないで……」
今度はハッキリと、耳に届いた。
「外は危ないよ。この屋敷にいたら絶対安全。
もし変な奴に絡まれたり、怪我でもしたら大変だよ」
「そりゃあそういう可能性だってあるけどさ、仕事なんだから仕方がないよ」
「あんたの仕事は俺を外に連れ出すことでしょ、だったらここにいて俺に構わなきゃダメじゃない?」
「ええええええ……私、エリエル側に寝返ったからこの屋敷の仕事優先してるんだけど……」
「ロバートに仕事減らしてって言ったのにな……」
「え? また聞こえなかったんだけど」
「ただの独り言」
会話の相手をしつつ、手も止めない。時は金なり。
再び黙り込んでしまったエリエルの存在を背中に感じながらモクモクと手を動かし続けていると、お腹に何か温かいものがめり込んだ。
「もう寝よ」
「はぁ⁉ なんで私まで⁉」
慌ててお腹に回ったものを掴むと、あらビックリ。エリエルの腕だった。
彼に引き摺られ、問答無用に部屋の奥へ引き摺られる。
「ちょっお、ダメだって!
そうだ! 行く前にバーボフカ焼いてあげる! ずっと食べたがってたでしょ⁉」
「そんなの、もういらない。
明日早いなら寝なきゃ」
「そんなの……⁉ じゃなくて、私はやらなきゃいけないことがあるし報告書だって出してこなきゃいけないの‼」
「あ、そっか」
やっと止まった……‼
私を離したエリエルは、思い出したと言わんばかりに机に向かう。どうやら今日の報告書を作成しているようだ。
今日の彼はどこか様子がおかしい、今のうちに荷造りだけでもしておこう。
私の少ない荷造りと、彼の報告書作成。果たしてどっちが早いだろうか。
「はい、できた」
「はっっっや」
「ちょっと修正しただけ。しばらく報告書は出せないって書き足しただけだから。
これ渡してきたら今日は寝よ」
「今日は遊ばなくていいの?」
「…………………………うん」
「葛藤凄いな」
とにかく、どれだけ珍しいお香だろうがなんだおるが、プロのアルバイターとして何が何でも手に入れてやる。
シーツを整える家主を背中に、待ち合わせ場所へと急いだ。
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