第四章~⑥

 点滴で栄養補給すると聞けば、病院の入院病棟で良く見られる点滴のぶら下がったスタンドをカラカラと引くイメージを持つだろう。尊も当初はそう思ったが、家庭用は違った。 

 手のひらサイズの電池で駆動する小さなポンプを使用し、持ち運びが便利なようにコンパクトなものだった。トイレなどで移動する際も邪魔になり難いのが利点のようだ。

 ただし操作を誤らないよう注意しなくてはならず、電池が切れたり外れたりしてポンプが止まらないよう気を配らなくてはならない。停止した時はその原因を音声と警報音で知らす機能はついているものの、それで安心してしまうと危険だった。

 こうした処置により志穂やデイケアの人達はこれまで以上、義父の様子を伺う頻度が高くなった。当然その間、寝ている場合も多い。しかし起きている時は、会話を交わす機会が増えることを意味する。義父はその度に申し訳ないと一言添え、恐縮する様子を見せていた。

 だが彼はただ介護されっぱなしになることを嫌がり、少しでも役に立とうとしていた。それが複数の農家を集めて法人化する計画への参加だ。これは彼が元気な頃から推進を検討していた事案だったらしい。自宅療養を決断した理由の一つでもあったと後に知った。

 全国の農家が抱える問題は、収入の確保や後継者問題、販路の確保や農地の有効活用など多岐にわたる。また環境問題が需要視されたことで、彼らが手掛けている有機農法を国が拡大する方針に転換し、各種補助金を出し始めた点も無視できなかった。

 いくら国が声を上げて取り組めと叫んでも、長年やって来た習慣や栽培方法を変えるのは容易でない。それらを個々で解決するには、規模や人手、豊富な資金や知識が必要だ。

 ならば複数で協力して、それぞれが足りない部分を補いながら、地域全体で活性化させることはできないかと義父達は考えていた。

 しかも国は有機農法だけでなく、農林水産業自体の生産力向上も施策として掲げており、促進する為に補助金を設けている。その一つが法人化であり、これが長年地域の世話役をしていた義父の夢だったという。

 これはメリットもあるが当然デメリットもあり、それを解決するにはなかなか難しい壁があった。第一は法人を設立する為の資金や手間が掛かる点だ。さらには利益が上がらなければ、個人経営の時よりも負担が大きくなる可能性もあった。

 その上長年の慣習や同じ作物を栽培している農家同士だとライバル関係にあったり、兼業農家と専業農家ではそれぞれが持つ熱量が異なっていたりした為、話し合いがなかなか進まないなど問題は山積していたようだ。

 けれどこれまで旗振り役をしていた義父が病に倒れ、その介護の為に義母が畑に出られなくなくなったことで、剛志一人が大きな負担を背負わされる羽目になった。

 幸い志穂が実家に戻った為に最悪の事態は避けられたけれど、この一件で他人事ではないと多くの農家が危機感を持ったらしい。

 まず一つは義父には後継者の剛志がいたけれど、いない農家は少なくなかった。またそれぞれ同じく高齢化が進んでいる。よってその家の一人が倒れた場合、即座に農作業自体を諦めなければならない農家は相当数あったようだ。

 これまでも似たようなケースは他でもあったけれどその度に皆、苦しい現実を見ないよう目を瞑ってきたのだろう。けれど地域の中心人物だった義父という身近な存在が病に倒れた為、さすがに今回ばかりは危機感を持ったらしい。

 そこで代わりの世話人が、これまで話してきた複数戸による法人化計画を早く進めようと声をかけ始めたのである。そこで志穂が実家に帰って来たおかげで集まりに参加できるようになった剛志は、義父の言葉と自らの体験を伝えることにより皆を説得し始めた。

 実際、病に倒れた人物から発する言葉は説得力がある。また彼の培ってきたこれまでの人望がこれに拍車をかけたのだろう。

 加えてそれぞれが抱える事情や性格などを把握している義父の頭の中の情報も活用できた。難色を示してきた相手にどういう説明をしていけばいいかなど、彼が剛志にしたアドバイスはとても的確だったらしい。

 体は日々、少しずつだが確実に衰弱していたし、痛みを訴える回数も増えていた。しかし頭だけはしっかりしていたようだ。

 剛志の顔を見る度に、寄合での進行具合を報告するよう求めていた。その際消極的または反対意見が出されたと聞けば、義父は最後の力を振り絞るように、これまでの経験や知識を活用したアドバイスを与えていたのである。

「あいつの家は夫婦と親戚だけでやっている兼業農家だ。無理に最初からの参加を求めず、法人設立後に会社の運営が軌道に乗ってからでも、途中加入できる道を残しておけばいい。だけどそれまでの間、仲間外れにされないかと心配するタイプだ」

「じゃあどうすればいいんだよ。当初から法人に参加する農家と差が生じるのは、どうしても避けられないだろう。そうしないと今度は先陣を切った農家から苦情が出るからな」

「それはそうだが、新法人への参加とこれまでの地域における助け合いとは、分けて考えなければ駄目だ。法人化はあくまで、この地域の農家達が生き残れるようにする為の一手段に過ぎない。会社設立自体が全てだと分断を招く。寄合に参加している農家はこれまで通り助け合い、その恩恵は法人化によって変わらないよう配慮するべきだ。その上で法人化に賛同すれば、より大きなメリットが得られると訴えればいい」

「でもリスクが発生する分、デメリットもあるよな」

「そのデメリットを少なくしようと、参加しない農家まで巻き込むようなら逆効果だ。あくまで法人化に参加すれば利がある分、損も覚悟しなければならない。それをしっかり理解した農家だけで立ち上げられれば十分だろう。もちろん後で参加する農家とは、利が出た際の配分などに差をつけるといった配慮は必要だけどな」

「無理に全員参加は求めず最初は希望者だけで立ち上げ、だけど既存の体制も維持するってことか。それはなかなかの難題だな」

「遠回りに思うかもしれないが各々事情が異なり、考え方が違う農家達をまとめようとするんだ。強引に近道を通そうとすれば、かえって反発を食らい計画自体がとん挫する。成功させるには理屈だけじゃなく、人への情やそれぞれのしがらみへの配慮が不可欠だ。そこが都会と田舎の違いだろうな。強者の理論や綺麗ごとだけで進めれば、コミュニティ自体が崩壊する。それでは本末転倒になっちまう」

 義父はそうした壁に何度もぶつかり、その都度微調整をしながら世話人という役目を担ってきたのだろう。だからこそ後任の世話人や剛志達が進める計画の難しさを理解していたに違いない。その上で何とかできないか、彼なりに考えた忠告だと理解できた。

 命の灯が消えかけようとしているにも関わらず、最後まで周りの人達の将来を考えるその姿勢には頭が上がらない。だからこれだけ慕われ、頼りにされてきたのだろう。

 そう感じた尊が尋ねてみたかった疑問を、剛志が口にした。

「それにしても親父。どうしてそんな体になってまで一生懸命になれるんだ。延命治療をせず自宅療養すると決めたなら、ゆっくり過ごしていたっていいんじゃないか」

 その問いに対し、義父は笑って言った。

「確かに矛盾しているかもしれないな。だけど入院せず余計な治療をしないと決めたのは、生きることを諦めた訳じゃない。逆だ。以前話しただろう。延命治療を悔いていた俺の友人の話を。私は最後まで自分らしく生きる為に、今の道を選んだ。しかし最初はゆっくり過ごすつもりだったさ。だけど志穂が戻ってきてくれ、俺の姿を見た世話人や剛志が、やはりこの地域の農家達の将来を考えたら、今どうにかしなければと考えてくれただろう。そんな様子を見ていたら、寝たきりの俺でも出来る事はあると思ったんだ」

「じゃあ、俺らが動き始めたから親父は無理しているのか」

「それは違う。お前達には感謝している。最後まで俺に役目を与えてくれたんだ。一生懸命になるのは当然だろう。元気であれば俺がすべき仕事だったんだ。でも俺は幸せ者だよ。今ほど生きていると実感出来ている瞬間はない。それは命の限界が近づいているからこそ、余計にそう感じるのだと思う」

「だったら法人設立を見届ける為に、今更だけど延命治療をしようとは思わないのかよ」

 しかし義父は静かに首を横に振った。

「それとこれとは話が違う。入院してしまえば、お前とこんな風には話が出来なくなるだろう。抗がん剤などの副作用に苦しみながらだと、この地域の世話なんか考えている余裕は生まれなかったかもしれない。こうしていても痛みに悩まされる時はあるさ。それでも余計な薬を使っていない分、頭はしっかりしているからな」

「俺達が無理させているんじゃないんだな」

「それはない。これまで俺は、自分なりにしっかり生きてきたとの自負がある。だから今死んでもそれほど悔いは残らないと思う。だけど唯一あるとすれば、今剛志達がしてくれている仕事だ。どうせ人間はいつか死ぬ。だったらこうしていれば良かったと、少しでも後悔が残らないよう生きたいじゃないか。例え俺の命が法人設立までもたなかったとしても、それまでにやれることが少しでもできれば無念だとは思わない」

 義父の言葉は心に刺さった。ここまで言い切れるほどの人生を歩んでこられたかと自分に置き換えた時、様々な思いが頭を過った。

 尊も自分なりにしっかり努力し、生きてきたとは思う。だけど今、余命宣告ならぬ容態が急変して死ぬかもしれない状態に置かれている。ならば悔いは残っていないかと考えた時、ハッとさせられることがいくつもあった。

 義父と状況は異なるが、いつ命を落とすか分からないのは同じだ。まさしく刺傷事件以来、これまでの人生が大きく転換してしまった。一寸先は闇とはよく言ったものである。 

 また人の醜さと恨み妬みといった不幸の連鎖を見させられ、献身的に尊の身を案じつつ義父の世話をする志穂の姿を見守る内に、人を思いやる心の大切さを痛感させられた。

 そうした中で今死んだとしたら、やっておけばよかったと思う一番大きな事があると気付かされる。それはやはり尊を刺した犯人の特定だ。

 もちろん相当な精神力がなければできない。これまで何度も試み時間を費やしてきた。なのに全く手掛かりが掴めていないからである。またこの頃既に事件から二年以上経過しており、本体が死亡してボカーソウルとならない限りはこのままだろうと思われた。

 それでも最後に決断させたのは、義父の姿であり彼の死だった。

 義父が余命宣告を受けてから一年半が経とうとしていた冬のある日、突然容態が急変してかかりつけ医と看護師がかけつけた。けれど義父の意識は朦朧とし、こちらの呼びかけに反応しなくなったのだ。

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