第一章~⑥
「確かな証拠はありません。ただ飛躍し過ぎとも思いません。あらゆる可能性を排除せず捜査するのが私達の仕事ですから。それに何度も言いますが、この世には人知らぬ恨みというものが存在すると、これまでの刑事経験から痛いほど学んでいます」
そこまで言われれば彼女も黙るしかなかったようだ。しばらく間を空けて彼は続けた。
「宇山さんには確個たるアリバイがありませんでした。ただ他に恨みを買っているかもしれないと思った方はいらっしゃいますか。例えば先程から名前が挙がっている野城さんはどうでしょう。彼は早大を卒業されているそうですね。しかもかつて東大も受験されたと伺っています」
そこまで調べていたのか、と溜息をつくしかなかった。この件は彼女にも伝えている。よって重い口を開いていた。
「聞いています。でも私が耳にした限りの話だと、その社長はそんな人でないはずです」
もし野城が犯人なら、恨みの度合いから考えれば尊より先に宇山が刺されていただろう。でも彼がそんな馬鹿げた真似をする人とは思えない。
宇山と揉めた時も怒鳴りはしたようだが手を挙げなかったと聞いているし、その後の処分も決して感情的になり過ぎず、比較的冷静な判断を下していたからだ。
「確かにそうですよね。瞬間湯沸かし器のような方ではあるようですが、直ぐ冷めるそうです。そんな人がいつ通るか分からない夜道にじっと隠れ、人を待って刺し殺すような冷静さと計画性と執拗さを兼ね備えているかと考えれば疑問が残ります。しかし彼も事件当夜において、確個たるアリバイがありませんでした」
この久慈川という刑事は侮れない。この短期間で野城が東大コンプレックスを抱いていると突き止めていた。もしかするとここ最近、同じく尊が担当する
六十五歳で中央支社のプロ代理店会会長をしている三鴨は、営業社員を七名抱える旧四葉出身の大型専業代理店、(株)カナールの店主だ。
野城のシャトウに及ばないが、そこに次ぐ扱い高を誇る。慶応卒で大手生保会社を退職しプロ代理店になった方で温和な人物だ。人望も厚い為、代理店会長も十二年続けている。
対して野城は新日出身で早稲田卒。元証券会社にいたがバブルで倒産した為、地元に戻り金融知識を生かしプロ代理店になりここまで成り上がってきた。そんな背景もあり、七つ年上の三鴨を何かとライバル視していたらしい。
よって契約関係で揉めた際は尊が間に入り、結果的には顧客の意向を尊重して三鴨の肩を持つ形になった。けれど、あの案件は何とか大事にならず済ませたはずだ。
しかしあれから野城との間に、見えない溝が出来たのは確かである。かといって刺される程恨まれているとは到底思えない。
「他に怪しいと警察が考えている人はいるのですか」
志穂の問いに彼は頭を掻きながら言った。
「そうですね。和喜田さんなんかはどうでしょう。あの人も新日出身者で、葉山出身の芝元さんを余り快く思っていなかったのではないですか。しかも子飼いである宇山さんに代わり、次席業務を任された。しかも支社長判断でなく、上からのお達しだったようですね」
「だからって刺し殺す必要はないでしょう。支社長なんですからそんな真似をしなくたって、いくらでもやり方はあると思いますよ」
彼女の反論を耳にしながら、尊は苦い思いをしていた。実際にこの一年間、彼には大なり小なり、様々な嫌がらせといえる真似をされたからだ。
小声で、これだからインテリは嫌いなんだと呟かれたことが何度もある。そうした言動から、葉山出身の部下を目の敵にしている節が度々感じられた。
さらに和喜田は葉山出身だと余り聞かない私立大卒なので、学歴コンプレックスもあったようだ。しかし上昇志向が強く上に取り入るのが上手かったのか、宇山より三つ年上の四十五歳ながら彼と同じ四十二歳の時に中央支社へ配属され、その際支社長となっている。よって要領の良さとそれなりに高い営業能力を兼ね備えた人物なのだろう。
もちろん営業店の場合は、成績が良く無ければ上から引きあげて貰えないので数字に煩い。喜怒哀楽も激しい為、担当者にとっては厄介な人と言えるだろう。
けれど宇山にはかなり甘い。また寺地や古瀬に対しては、厳しい面とそうでない面を上手く使い分けていた。その三人と比較すれば、尊は着任当初から睨まれていた気がする。
よって営業現場自体も初めてだった為に出来るだけ揚げ足を取られないよう、細心の注意を払い行動をしてきたつもりだ。その上で担当代理店に足繁く通い、人間関係の構築を第一に考え取組んできた。
もちろん数字を出さなければ、それこそ何を言われるか分からない。これだから営業を知らない奴は困るとか、現場を知らない頭でっかちは邪魔だと陰口を叩かれていたからだ。
そこでまず社員と一定の距離を保ち、比較的ドライでビジネススライクな代理店に目を付け、様々な増収増益に繋がる企画書を立て続けに提出した。それは十二年間の内勤で培ったノウハウの集積でもあった。
ハングリー精神の強い代理店は自らそうしたものを求めてくる。まず尊はそんな相手を見極め、この人なら、という営業社員を見つけては、集中的に増収計画を組んで打ち合わせを行った。彼らだって成績が上がれば手数料収入が増えて収入に直結するからだ。
けれど担当代理店全てがそうした人ばかりではない。中にはマイペースが良いという営業社員もいれば、気分次第の人もいる。また企業代理店の従業員だと、保険獲得の成績が収入にほとんど影響しないケースが多かった為だろう。
特に保険販売が本業でない兼業代理店だと人間関係を重視し、その時の感情次第で数字を動かす担当者は少なくなかった。他社の保険も扱っている乗合代理店がほとんどだから余計だ。
そうした代理店には無理をせず、最初の一年はまず顔馴染みとなり、言葉を交わすことに専念した。要は代理店ごとの特徴を早期に掴み、メリハリをつけた活動を尊は心掛けていたのである。
その結果、数字は思っていた以上に伸びた。よって和喜田に足元を見られる事案もほとんどなく、支店長や江口課長の覚えも良かった為、次席業務を任されるようになったのだ。
しかしそれが支社長にとっては面白くなかったのだろう。今年度から当たりはさらに輪をかけて強くなった気がした。特に初めて行う次席業務が加わった為、口煩く指図し始めていたのだ。
どんな業務をしていたかは隣で宇山の作業を見ていた為、大体把握していた。その時は非効率、または無駄なこともやっているなと他人事のように思っていた。それを実際自分がやる羽目になった時、何度反発しようと思ったことか。
それでもまだしばらくは大人しく聞いていようと我慢していた。それを良い事に、また知らないだろうと高を括っていた和喜田は、それまで自分が行っていた業務まで尊にさせようとしてきたのだ。
当然泣き寝入りするつもりはない。よってこっそりと江口課長に個別で相談し、どういう実態なのかは逐一報告をしていた。彼は和喜田を嫌っている管理職の一人だった為、尊の味方になってくれたからである。
だが表向きはそう気づかれないよう、またもう少し様子を見て好きなようにさせようと二人で話し合い決めたのだ。彼には支店長の後ろ盾があるからと背中を押され、本人からも悪いようにはしないと耳打ちされていた為、今まではなんとか堪えてきた。
そこでふと気づく。もしかすると刑事が得たこれまでの情報は、江口からもたらされたのではないか。そう思わずにはいられなかった。彼なら尊の視点に立ち、誰に疎まれているかが相当詳しく判断できただろう。
とはいえ、刺し殺されるほど彼らに恨まれていたとまでさすがに考えられない。江口だってそう思っているはずだと考えていた時、久慈川が言った。
「ちなみに和喜田さんにも、明確なアリバイはありませんでした。ですがご主人を殺す程の強い動機は、今の所見当たりません」
「当たり前でしょう。職場でのいざこざなんて、多少なりともどこでだってある話です。しかも彼はここに来てまだ一年余りです。それとも短期間で人から殺したいくらいに恨まれる程、評判の悪い人だったのでしょうか」
志穂が厳しく問い詰めると、彼は首を横に振った。
「いいえ、逆です。一部を除いて、話を伺ったほとんどの人はご主人を褒めていましたし、否定的な発言はかなり少なかった。先程も言いましたが、特に事務職の女性からは好意的な証言ばかりでしたね。そうそう。社員だけでなく取引先の事務の人達まで、同じような反応をしていました。刺されてしばらく意識が戻らず、危篤状況だと聞いていたからでしょう。目はまだ覚まされていないけれど一命を取り留めたと聞き、涙ぐんでいた人さえいらっしゃいましたよ」
そう語る柔らかい口調に反し下卑た表情を見せた為、嫌な予感が走った。志穂も眉間に皺を寄せていると、彼はわざとらしく驚いた反応をしながら言った。
「どうされましたか。褒めているんですよ。そんな怖い顔をしなくてもいいでしょう。それとも何か引っかかりますか」
明らかに誘導尋問だと理解しながら、彼女は言わずにいられなかったようだ。
「男からの嫉妬の次は、女性関係のもつれを疑っているのですか。彼と結婚し今年で十年目になりますが、一度たりとも浮気を疑った経験はありませんし、絶対ありえませんから」
「愛妻家で有名だと伺ってはいますが、この世に絶対なんてありますかね」
挑発的な態度を取る彼に、彼女はさらに強く反論した。
「あります。浮気する男性がいるのは確かです。実際私が居た十年余りの会社生活の中でも、身近にそうした人達を見てきましたから。不倫がばれて地方に飛ばされた総合職や、女性事務職に二股をかけていた男性が修羅場に巻き込まれ、辞職に追い込まれたケースも見聞きした経験があります。しかし彼はそうした面倒事に巻き込まれるのが嫌いな人なので、絶対にしませんしできません。不倫できる程、器用なタイプでもありませんから」
「そうですか。しかし一方的に慕われるケースはあるでしょう。死にかけたとはいえ、涙ぐむほど悲しむというのはいささか大袈裟な気がしますけどね」
「誰の話をしているのですか」
「心当たりはありませんか。カナールの事務員で、
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