第10話 うさ耳で、モフっとした尻尾を持つ子が現れて
今、目の前で対峙しているソレは、手のひらに乗せるには少し大きい。いや、両手ならば乗せられるかもしれない。
最初に狐だと思ったのは、体全体が茶色かったから。でも狐にしては足が太いし、耳の形が違う。
尻尾自体も炎を形どったようにモフッとしていて、毛先だけ赤くなっている。
うさぎのような耳を立てて私の様子を伺っているソレは、なぜかキョトンとしているように見えた。
まん丸な黒目の上に、前髪のように一房だけ赤い毛が垂れている。
二、三日前から見かけるようになったソレは、前世でも見たことがない生き物だった。食糧庫で見かけたならば叱っていたかもしれない。
でもソレが現れるのは小神殿の外――洗濯物の洗い場だったり、薪が積み重なっているところだったりしたので、いつも、「あ!」と思って見つめるだけで終わっていた。
向こうも私が気づくと、すぐに察して逃げていったし。
……だから。
今日、こうして長いこと睨み合っているのは初めてのことなのだ。
つまみ食いもしないし、物をかじったりもしないので私は放っているけれど、ベネディクトやデメトーリに見つかるとまずい。
彼らにアレの「可愛らしさ」がわかるとは思えない。
問答無用で捕まえて、(さすがに食べないとは思うけれど)森にでも捨てに行くだろう。
デメトーリなら、散々叱って脅して、ここに近づくとどれほど怖い思いをするのか、恐怖を叩き込んでから解放しそう。
「ねえ。お前はいつからここにいるの? 近くに寝ぐらがあるの? ここの食べ物を食べていないということは、外で木の実でも見つけているの?」
黒の季節は、もうすぐ終わる。
積もった雪も薄くなり、少し掘るだけですぐに地面が見えるようになった。
きっと、雪が積もる前に地面に転がっていた木の実をみつけて食べているに違いない。
「ほうら。もうすぐ昼食の準備だから。隠れないと怖い目にあうよ?」
「……」
ソレは鳴きもせず、首を傾げたまま私から目を離そうとしない。
「うーん。私に慣れたってことだよね? 嬉しいんだけど。君が危ないんだってば」
「誰に話しかけてるんです?」
「――っ!」
振り返るのが怖い。
この声の主に――よりによってデメトーリに見つかってしまうとは!
「大丈夫ですか? いや、大丈夫じゃないですよね? 誰もいないところで相手がいるかのようにしゃべっているんですから」
……ん?
声をかけられたから振り向こうと思うんだけど。
目の前には、相変わらずソレがいる。黒い瞳で私を見ている。
……い、いるんですけど? そこにいるのに――どうして?
「あのー。今、私が誰かに話しかけるように独り言を言っているのを見て、『気持ち悪いなー』って声をかけて――じゃないか。違うな……。ええと。『なんて可哀想なんだろう』って。ああ、やっぱり違う。ええと。見えませんか? そこ! そこにいるんです! そこに! ほら! だから、私はちゃんと会話をしていたのです!」
「えっへん」と威張ってみせたのは余計だったかもしれない。
頭のいいデメトーリに嘘は通じないし、適当なことを言って誤魔化せるほどの能力を私は持っていない。
だから。素直に正直に話すのが一番だと思ったのに。その選択は誤りだったらしい。
デメトーリは魔法を使ったのかと思ったくらい、瞬時に周囲の空気を凍てつかせた。
彼の空色の瞳が、青天から冷たい湖の色に変わっている。
「……なんですって?」
……あ。
カッチンと、デメトーリにスイッチが入る音が聞こえた。
「へえ……。私が……。この私が間抜けだと? 私の目は節穴で、何も見えていないと? あなたの話し相手がそこに、ちゃんといるのに、私の目か頭がおかしくて見えていないのはどういうことなのだと。あなたは私を心配して気遣って、『大丈夫か?』と、逆に尋ねたいくらいなのだと。そう言いたいのですね。なるほど! これは大問題ですね!」
「ひぃ」
私の心臓が、慌てて血液をドックンドックン送り出してきた。
それなのに私は――。
目の前のデメトーリの髪が風にふわりと揺らされたのを見て、相変わらず彼の薄茶の髪は柔らかそうだなあ――などと、現実逃避をしてしまった。
展示室でサヴァス様を手伝い、その傍に佇む時のデメトーリは、常に柔和な表情を浮かべていて、いつだって訪問者たちを魅了している。
整った顔立ちというのは、善にも悪にも極端に振れるらしい。
今、目の前にいるデメトーリは、表情らしい表情を作っていない。
目の奥が、わずかに冷えた硬さを帯びているだけなのに、とてつもなく恐ろしげに見える。
「ま、まさかー。あははは。そんな馬鹿な。そう聞こえたのだとしたら、私の言い方が間違っていたとしか考えられません」
どうしよう。デメトーリの顔が元に戻らない。
あー。でもやっぱり……。
デメトーリにはアレが見えていないんだ。
ちょっと怖くなってきた。
幻覚が見えているとしたら――私、本当に大丈夫じゃないんだけど……。
「あ、謝ります。冗談です。ば、バレちゃいましたね。あははは。バレちゃったのが恥ずかしくて、つい――。誤魔化そうとして、変なことを口走っちゃったみたいで。あははは」
……あ。顔が変わった!
圧がなくなって、怪訝な表情――かな?
よしよし。
「あなたという人は――。もういいです。だいたいここで何をしていたのですか? 何をするためにここに来たのかを忘れているんじゃないでしょうね? あれこれ気を散らすのは、あなたの悪い癖です。仕事をやり遂げるまでは、その仕事のことだけを考える癖をつけてくださいと、何度も言いましたよね? 私の言うことなど聞けませんか? それとも――」
「デメトーリ? どうしました?」
「サヴァス様! い、いえ。イリアスに早く片付けて中に入るように言っていただけです」
サヴァス様! サヴァス様!
助かりました。
「イリアス? 何か困っているのですか?」
「い、いいえ。ここを片付けて戻ろうと思っていたところです。はい」
「では、中に入りましょう」
サヴァス様の後ろを、デメトーリがピッタリとくっついて歩いていく。
……あれ?
……サヴァス様も? 無視――ですか?
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